道端の小石かなんか。
誰の記憶にも残らないような普通の石。
時々蹴ってもらって、
それが嬉しくて、
幸せとか思ってる、
そんな石
渡辺多恵子イラスト集
BORN TO BE IDOL! より抜粋
ピンコン
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:
チャイムを鳴らすのに僅かばかりの緊張しているオレ。
自分のウチに入るのにチャイムをならすことなど今まで無かったから逆にとても嬉しくて、最初の内ははじめちゃんが出て来てくれるまで何度も鳴らして怒鳴られていたりした。
流石にこの頃は学習して一回で我慢しているけど……。
……はじめちゃん眠ってるのかな?
ピンコン
:
:
もう一度鳴らしてみるけど扉は開く気配がしない。
少し残念に思いながらもオレはポケットに手を突っ込んで鍵を探る。
はじめちゃんが扉を開けてくれて、少し照れたように「お帰りなさい」って言って貰うのが一番嬉しいのにな……ちぇっ。
ん〜〜〜〜でもまあいいか。眠ってたらキスして起こせるし。うん。
それはそれで嬉しいのでオレはイソイソと鍵を差し込みがちゃりと回し、扉を開いた。
「あ……」
「あ……」
はじめちゃんだ。
──……あ、どうしよう。なんかオレ泣きそうになってる。
ただはじめちゃんの顔を見ただけなのに嬉しくてしょうがなくなってる。
そんなオレの心情には気づかずはじめちゃんはノブに手を伸ばした状態で固まってる。
はじめちゃんが不審に思う前にオレは言葉を捻り出した。
「……チャイムで起きたの?」
「は、はい」
ちぇっ、鳴らさなきゃ良かった。
「ごめんなさい! ちょっとウトウトしてました!」
「だろうね、涎の後付いてるよ?」
「えっ!?」
顔を真っ赤にして慌てて口元を拭うはじめちゃんにオレは顔を近づけて「う・そ」と言った。
「! っ〜〜〜〜。何だってそんな嘘をつくのよ!」
「だって二回も期待外れ喰らったんだもん」
「はぁ? 何よそれ」
聞かれたから説明するとはじめちゃんの顔が真っ赤になって口をパクパクさせている。
「な、な、な……何を考えてるのよ。あんたは……」
「何ってはじめちゃんの事だけど?」
「………………」
どうして素直に言って脱力されるんだろう?
はじめちゃんは大きく溜息をついた後、俺の好きな照れた笑顔で「お帰りなさい」と言ってくれた。
「ただいま」
オレもいつも通りにっこり笑って応えた。
そしていつも通りそぉっと抱きしめる。何故そぉっとなのかと言うといきなりやると殴られるからだ。
はじめちゃん曰く、いやで殴ってるのではなくびっくりして咄嗟に手が出てしまうらしい。
明日仕事がなければ殴られても問題ないけどそうじゃない場合はいつもこんな風にそぉっと抱きしめる。それでも一瞬びくっとするはじめちゃん。
………………一体いつになったら慣れてくれるんだろう?
それでもおずおずと背中に手を回してきゅっと抱きしめ返してくれる。
堪らなく幸せな瞬間に目の前がくらくらする。
チーンッ
……確かあれは電子レンジの音。
「あ、出来た」
はじめちゃんはオレの腕を解いてあっさりと台所に向かってしまう。
……実は慣れきってるとか?
ちょっと困惑しながらもオレはリビングに向かった。
ちゃぶ台に所狭しと置かれた料理の数々に心が躍る。
ぐぅ〜〜〜〜……きゅるるるるる〜〜
我慢出来なくなってオレの席に座るが箸に手は付けられない。フライングしようものなら一週間ははじめちゃんの手料理は食べられなくなってしまう。
……今のオレってお預け喰らった犬みたいな凄い切なそうな顔してるんだろうなぁ……。
はじめちゃんまだかな?
って待ってたらはじめちゃんは「お待ちどおさま」と言って最後の器をちゃぶ台に置いた。
「さあ、召し上がれ」
「いっただきまぁ〜す!」
パンと手を合わせてから忙しなく箸を動かして腹を満たしていく。
いつもと同じで美味しいご飯。
はじめちゃんはいつももっと味わって食べろと怒るけど、こんなに美味しいと他の料理もすぐ食べたくなって、すぐに飲み込んでしまうのだ。別に味わってない訳じゃない。そんな勿体ない事しない。
そう伝えてもはじめちゃんはまだ不満そうだった。
でもこれは美味しすぎるはじめちゃんの料理の所為にしてしまおう。うん。
そんな感じで30分後には全ての料理が空になった。まだもう少し入りそうだったけど炊飯器も空だったからもう何もない。
「ごちそうさまでした!」
手を合わせたオレに「お粗末様でした」と言って見事に空になった食器類を見回した。
「もしかして、何も食べてこなかったんですか?」
「うん、夕方から食べてない」
だって帰ればはじめちゃんの料理が食べられるんだと思ったら仕出しのお弁当には申し訳ないけど食欲は湧かなかった。
「……無理しないで食べて下さいね。江藤さんってばお腹空くと本当に動けなくなるんですから。仕事に支障来すようなマネはやめて下さいね」
「……はぁい」
いつもこうだ、年下の彼女に言い諭される。でもその時になると綺麗に忘れてたりするオレ。正直ちょっと情けない……かな?
それでもはじめちゃんは機嫌良く開いた食器を台所に持って行っている。オレも残っていた食器を持って台所に向かう。
「これで全部だよ」
「あ、ありがとうございます」
「手伝うね」
「え、い、良いですよ! 疲れてるんだから向こうで休んでて下さい!」
え、だって休んでると眠くなるんだもん。せっかくはじめちゃんが居るのにすぐに寝るのは勿体なくてイヤだ。
「イヤだ、手伝う」
まるで子供みたいな態度にはじめちゃんが呆れてる。でもイヤなんだもんな。眠っちゃうのは。
「……分かりました。じゃあ水切りした食器を拭いて仕舞って下さいね」
「ん」
そうして色々しゃべりながらオレたちは後片付けを終えた。
二人でリビングに戻って、またちゃぶ台につくとはじめちゃんがお茶を煎れてくれる。なんか熟年夫婦みたいでくすぐったい。そしてさっきの続きみたいに今日有った事を話したりしてた。
……あの話しても良いのかな?
瑞希ははじめちゃんに怒られてこいって言ってた。あれは話し合えって意味なんだろうな。そう思って、同じくお茶をすすってるはじめちゃんに声をかける。
「ねえはじめちゃん」
「なんですか?」
「もしかしたら怒っちゃうような事聞いても良い?」
「駄目です」
「………………分かった」
もう何も言えなくてオレはまたお茶をすする。ミカンに手を伸ばす。
「………………やっぱり言って下さい。気になって眠れなくなりそう」
「え……いいの?」
「怒って気が済む程度の話なら良いですよ。もう」
何だか諦めを漂わせた投げやりな言葉に聞こえたけどまあいいか。
「あのねはじめちゃん」
「はい」
「例えばオレと瑞希が崖にぶら下がってたらはじめちゃんはどっちを助ける?」
「……何それ」
「ちなみに先に助けた方しか助からないんだって」
「……それをあたしに選べって言うの?」
「………………うん」
「………………」
はじめちゃんは見た目にも悩み出した。爪を噛んだり唇を噛んだり……。
悩み出してどれぐらいたっただろう。
「……ねえはじめちゃん」
オレの言葉に漸くはじめちゃんが顔を上げた。噛みすぎて下唇には歯形が付いてるし真っ赤に腫れている。なんだかこんなに悩ませた事が申し訳なく成ってきた。
「……何よ」
「こう言うのは駄目? はじめちゃんが選べないんならオレが選ぶの」
「江藤さんが……?」
「そうオレが瑞希を選ぶの」
「え?」
意味が分からなかったのかはじめちゃんは怪訝な顔をする。オレは少し笑ってちゃぶ台の縁に手をかけた。崖に見立てたんだけど分かるかな?
「こんな風にオレが自分で飛び降りる──……」
言ってオレはちゃぶ台の縁を押しながら、ゆっくりと目を閉じながらフワリと後ろに倒れ込む……。
まるでスローモーションの様にはじめちゃんの姿が遠ざかる。その目が見開かれていく。
「いやっ!」
ガチャン! ガン!
耳障りな物音の後、不意に抱き付かれた。感じた暖かさに驚いて目を開ける暇すらなく……。
ゴンッ
「いてっ!」
オレは床で強か後頭部を打ち付けてしまった。
「ったぁ………………」
あまりの痛さに目が開けられなくて、痛みが治まるまでそのままでいた。
重なり合った胸からは壊れてしまうんじゃないかって程のはじめちゃんの拍動が伝わってくる。物凄い荒い息をついている。
……これはどういう事なんだろう?
どうしてオレははじめちゃんにしがみ付かれているんだろう?
「は、はじめちゃん?」
「………………」
漸く痛みが治まってオレはパチリと目を開けた。
オレは天井を見上げてる。はじめちゃんはオレに重なるようにしがみ付いている。顔は肩に押し付けられてて全く見えなくて、首を捻ってもはじめちゃんの後頭部しか見えなかった。
オレははじめちゃんの顔を見るべく背中に回された腕を解こうとしたがはじめちゃんは更に力を込めた。
「はじめちゃん?」
「………………」
トントンと背中を叩いてみるが何も反応してくれない。途方に暮れてオレははじめちゃんの気が済むまでそのままでいることにした。
しばらくすればはじめちゃんの拍動が落ち着いてくる。
16拍子から8拍子、そして4拍子から2拍子へと落ち着いていった。
それから漸くはじめちゃんが身を起こした。
床に手をついて起き上がる。オレの顔を覗き込みながら起き上がるからポタリポタリと雫がオレの顔に振ってくる。
「はじめちゃ……」
バチン!
「あんたは何考えて生きてるのよ!」
「はじめちゃ……?」
驚いて起き上がろうとしたオレの胸倉を抑えて、はじめちゃんは渾身の力を込めてオレの頬をぶっ叩いた。
ぶっ叩かれた頬を抑えながらオレは呆然とはじめちゃんを見上げた。ボロボロ涙を零しながらきつくオレを睨み付ける。
「結局あんたは自分さえよければいいの!? 遺される人間がどんな気持ちになるかって考えた事あるの!?」
「………………………」
「いい加減にしてよ! あんたが…瑞希さんがいなきゃ生きてけないのと一緒で、あんたがいなきゃ生きてけない人だっているんだって簡単な事が何だって分からないのよ!」
掴んだ胸倉をガクガク揺さぶりながら血を吐くような表情ではじめちゃんはオレを怒鳴りつける。
「おかげさまで腹が決まったわよ。あんたと瑞希さんどっち選ぶって言ったらあたしは迷わずあんたを選ぶわよ!」
「!」
「分かってるわよ。あんたがそんな事、これっぽっちも望んでないなんか! これはあたしのエゴよ! どうしようもないあたしのエゴよっ。でも、でも…しょうがないじゃない……!」
はじめちゃんの嗚咽が酷くなった。
心底オレは驚いていた。
まさかはじめちゃんが瑞希と同じ選択をするなんて……。
それにはじめちゃんは……。
「……………はじめちゃんは…オレがいなきゃ生きていけないの?」
オレは恐る恐る尋ねた。
「あたしだけじゃないわよ」
はじめちゃんはぐっと口を引き結んだ後、押し殺した声でそう言った。
何だろう、そんな事言われたの初めてでドキドキした。
「本当に?」
「……嘘言ってどうなるって言うのよ」
強気な言葉だけど両目からは涙が止め処なく流れ落ちている。
オレはその涙を拭おうと手を伸ばした。
手が頬に触れるとはじめちゃんはそっと目を閉じた。
涙を拭った後、オレははじめちゃんの後頭部に手を添えてそっと引き寄せる。
抵抗しないはじめちゃんにオレも顔を寄せてそっと唇を重ね合わせた。
止まらない涙がまだ降りかかる。
オレは閉じられた目にも唇を寄せて舌で涙を拭い、もう片方の涙も拭った。
そしてもう一度唇を重ね合わせながら、そっとはじめちゃんを横たわらせた。覆い被さるようにしていっぱいいっぱいキスをする。
はじめちゃんも応えてくれる。
舌で唇に触れると一瞬力んだ後、小さく開いてくれた。奥で縮こまっているはじめちゃんの舌を絡め取って、息が出来ないくらいに吸い上げる。
「ん……」
鼻から抜けるような甘い吐息にオレの頭が真っ白になる。
もっとそれが聞きたくなってもっと深くキスをする。
混ざり合った唾液をはじめちゃんがコクンと飲み込んだ。
その様にいよいよオレの体が熱くなって、どうしようもなくはじめちゃんが欲しくなって、オレは少し身を起こした。
唇を繋ぐ透明の糸。
はじめちゃんの目は熱く潤んでいて、少し息が弾んでいる。
「はじめちゃん、いい?」
指先で顔の輪郭をなぞりながら、オレは掠れた声で尋ねた。
はじめちゃんは一度目を閉じた後、小さな声で呟いた。
「……無理」
「…………………………え?」
「もう、…………限……界……」
言いながらふぅっとはじめちゃんは意識を手放した。
え? えっ? ええっ!!!?
「は、はじめちゃん?? はじめちゃん!??」
ピタピタとほっぺたを叩いてみるが反応は全く無い。
なのにつーっと鼻血は流れ出してきて、オレは慌てて布巾を取って鼻に押し当てた。
抱き起こして呆然としながらも笑いが込み上げて来て、声を殺しながら、肩を震わせながら笑いつづけていた。
どうしよう。
と思った。
本当に、本気で困っていた。
オレがいなきゃ生きていけない、なんてはじめちゃんが言うとは夢にも思ってなかったから。
どうしよう。これでオレはさっきの選択肢を選べなくなってしまった。
二人を思って自分を切り捨てるつもりだったのに二人の為に自分の命を惜しんでしまう。
凄く、凄く困っているのに、オレの心の中は不思議な程に暖かかった。
こんなにも二人から愛されている事を思い知ったから。
今まで自分に気持ちだけしか考えてなかった自分が恥ずかしかった。
『大事なのは相手が自分をどう思ってるより、自分がどれだけ相手を思っているかだと思う』
大きな間違いだ。
相変わらずオレってバカなんだと思う。
何にも分かってない大バカなんだと思う。
────でも……………。
生まれて初めてオレはオレが愛おしく思えた。
瑞希に、はじめちゃんに愛されている自分を誇らしく思えた。
瑞希に出会えた事を、はじめちゃんに出会えた事をいつも感謝してきたけど、今日ほど自分の幸運に感謝した事はなかった。
「オレってすっごい幸せな奴だったんだな」
言葉にすると一層心が暖かくなった。
世界中にありがとうって言いたい気分だ。
だから……この先、二人のうちのどちらかを選ばなきゃいけない時など来なければ好いと思った。
一生そんな時が来なければいい。
大真面目にそう思いながら、オレはオレに感謝の言葉をかける。
ありがとう……って────。
おわり