──あたし、岡野はじめ。19歳。大学1回生。
今日は比較的早く帰ってくるからと江藤さんに請われてご飯作りにきてたりする。
さっき「今から帰るね」って電話があったからもう少ししたら仕上げにかかろう。
ふぅ─────っ。
前に一度なし崩しで泊まってからこの家に泊まる事が増えたなぁ。
……一線は超えたこと無いけど。
「それでもいいよ」
って言ってくれる江藤さん。
「そばに居てくれるだけでも嬉しいから。オレ」
本当に嬉しそうに言ってくれたから、あたしはこうして泊まりに来る事が出来る。
ほんの数日前、江藤さんの誕生日だったけど……。結局何も無かったのよねぇ。……いや、悪いのはあたしなんだけどね。
ふぅ─────っ。
ああー完璧にトラウマになってるわ……。
『…ひょっとして今さわってんの、胸? ケンコウ骨じゃなくて?』
そりゃ確かにあたしの胸は無いわよ……。
仰向けに眠ったりしたらそれこそお盆のように真っ平らよ……。
「だからって骨と間違えるかっ !!? 普通っ!」
……一人で叫んでる自分が情けない。でもこんなの本人に言えないし……。
大学の知人は「彼氏に揉んで貰えば?」なんて恐ろしい事を笑って言い出すし……。それが出来ないから相談してるんじゃない! 使えない奴め!
せめてこの胸が人並みだったら……。
せめてこのそばかすが薄ければ……。
せめてこの髪がもう少し柔らかだったら……。
自信持って江藤さんの胸に飛び込んでいけるんだけどなぁ。
ふぅ─────っ。
仕上げに掛かろ。ため息つくのも飽きたわ。
えーと、お味噌汁はオッケー。お魚は……そろそろ焼き始めようかな? 煮物を器に遷して……御浸しはこの小鉢……じゃ足りないか。んじゃこっちの器に入れて……。
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:
よーし、後はオーブンで20分!
ふぅ─────っ。
……まだなのかな? 江藤さん。
やることが無くなると途端に思い出しちゃうのよね。…ちっ。
あーあ、あたしは一体いつまで江藤さんの2番目なんだろう?
……考えるだけ無駄なのかな? そんなこと。
あ、落ち込んできた。……ちょっと、休もう。
大きなビーズクッションに倒れこめば不思議に眠気が湧き出てくる。
……いいや、寝ちゃえ。帰ってきたら分かるし。
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◇ ◇ ◇
:
:
ピンコン
:
:
ん? 今…なんか鳴った?
:
:
聞き間違いか……眠……
:
:
ピンコン
:
:
…………………聞き間違い……じゃない!?
慌てて玄関に向かって鍵に手を伸ばした。だけど一瞬早く扉は開かれてしまった。
「あ……」
「あ……」
あたしも江藤さんに釣られて目が丸くなった。
「……チャイムで起きたの?」
「は、はい」
う、やっぱり眠ってたのバレてる?
「ごめんなさい! ちょっとウトウトしてました!」
「だろうね、涎の後付いてるよ?」
「えっ!?」
嘘! 最悪! そんな顔江藤さんに見られるなんて!
こちとら泣きそうになりながらごしごしと袖で口を拭ってるのに江藤さんは少し意地悪な笑みを浮かべて顔を近づけ「う・そ」と言いやがった。
「! っ〜〜〜〜。何だってそんな嘘をつくのよ!」
「だって二回も期待外れ喰らったんだもん」
さも当たり前のように訳の分かんない事言わないでよね。ったく。
「はぁ? 何よそれ」
「ん? 一つめはいつもの『お帰りなさい』がなかった事。二つめは眠ってたらキスして起こそうって思ってた事」
「な、な、な……何を考えてるのよ。あんたは……」
多分あたしの顔は真っ赤なんだと思う。だけど江藤さんは相変わらずの涼しげな顔色で、
「何ってはじめちゃんの事だけど?」
と臆面もなく言うもんだから、正直力が抜けちゃった。
「………………」
なんだってこの人はこうなんだろう?
照れとか恥じらいってモノが無いのかしら?
今更……だよね。あたしは大きく溜息をついた後、「お帰りなさい」と言った。やっぱり言い慣れなくて、照れてしまうのが情けないんだけどね。
「ただいま」
江藤さんもいつもの笑顔で応えてくれた。
あたしの大好きな笑顔。安心出来る笑顔に照れの為に肩に入っていた力が抜けていくのが分かる。
そしていつも通りそぉっと抱きしめてくれる。これも大好きなんだけど、抜けた力が一瞬戻ってきちゃうのよね……情けない。
いつになったらビクつかずに済むのよ。全く。自分自身に呆れながら江藤さんの背に手を回すと江藤さんは頬をすり寄せて、少し腕に力を込めた。
密着した胸から心音が伝わってくる。穏やかな鼓動にうっとりと仕掛けるけど……。はっ、胸! ま、またなんか言われる!?
チーンッ
て、天の助け!
「あ、出来た」
正に渡りに船ってこの事なんだろうな。あたしは平静を装って江藤さんの腕を解いて台所に駆け込んだ。……江藤さんの顔は見ないままで。気配を伺えばノテノテ歩いてきているのが分かった。
ぐぅ〜〜〜〜……きゅるるるるる〜〜
ぶっ……。今のお腹の音? ……お腹空いてるのかしら? 急がなきゃ。
「お待ちどおさま」
最後の料理をちゃぶ台置けば完了。待ってた江藤さんはまるで犬っころみたく唇を噛んで料理を凝視してた。よしよし。躾が行き届いてて良い感じだわ。
「さあ、召し上がれ」
「いっただきまぁ〜す!」
パンと手を合わせるや否や、江藤さんは忙しなく箸を動かしてる。
……もう少し味わって食べてくれてもバチは当たらないんじゃないの?
「ごちそうさまでした!」
「お粗末様でした」
そんな感じで30分後には全ての料理が空になった。だけどまだ食べたそうにしてるのは何事よ!
「もしかして、何も食べてこなかったんですか?」
「うん、夕方から食べてない」
あんた自分でお腹すいたら動けなくなるの分かってるくせに……。ったく、何回言ったら分かるのかしら。
「……無理しないで食べて下さいね。江藤さんってばお腹空くと本当に動けなくなるんですから。仕事に支障来すようなマネはやめて下さいね」
「……はぁい」
いつもこう。その場の返事はきちんと返してくれるんだけど、いざその時になると忘れてしまうみたい。
……まあ、それだけあたしの料理を楽しみしてくれてるって事なのかな? へへ。
そう思うとやっぱり嬉しくなって気分が浮き上がってくる。
鼻歌を交えながら開いた食器を持って台所に向う。
「これで全部だよ」
「あ、ありがとうございます」
「手伝うね」
「え、い、良いですよ! 疲れてるんだから向こうで休んでて下さい!」
って言うか一人の方が捗るのよ。
「イヤだ、手伝う」
そんなあたしの気持ちも知らないで江藤さんはぷーっと頬を膨らませる。
……あんたもう22でしょ? 子供みたいな顔しないでよ。
大体そういう顔されたら強く出られないのよ、あたし。
「……分かりました。じゃあ水切りした食器を拭いて仕舞って下さいね」
「ん」
それからあたし達は色々しゃべりながら後片付けを終わらせた。
二人でリビングに戻ると江藤さんは自分の場所に腰を下ろす。あたしはその向かい側なんだけど座ってお茶を入れて江藤さんの前に置く。
嬉しそうに「ありがとう」って言ってくれるのがなんか少しくすぐったい。
それからもさっきの続きみたいに今日有った事を話したりしてたんだけど、しばらくして江藤さんがあたしの顔色を伺いだした。
……こういう時って碌な事言わないのよね。この人──。
「ねえはじめちゃん」
ほら来た。何なんだろう。うっ……嫌な予感。
「なんですか?」
「もしかしたら怒っちゃうような事聞いても良い?」
「駄目です」
「………………分かった」
すると江藤さんは何でもなかったみたいにお茶をすする。用意していたミカンに手を伸ばしてる。
何なのよ! 一体! 気になるじゃないの! くっそ! いつもこうよ。
「………………やっぱり言って下さい。気になって眠れなくなりそう」
「え……いいの?」
「怒って気が済む程度の話なら良いですよ。もう」
ため息をつきながらそう言うと江藤さんは「えーと」と話し始める。
「あのねはじめちゃん」
「はい」
「例えばオレと瑞希が崖にぶら下がってたらはじめちゃんはどっちを助ける?」
「……何それ」
一瞬、何を言われたのか分からなくなったあたしは江藤さんの言葉を頭の中で繰り返した。
江藤さんと瑞希さんが崖に……?
「ちなみに先に助けた方しか助からないんだって」
さらに江藤さんは何の気なしに追い討ちを掛ける。
この男、自分がどれだけ自分が残酷な事を言ってるのかって自覚はあるんだろうか?
無性に腹が立ってきて、あたしは押し殺した声で尋ねた。
「……それをあたしに選べって言うの?」
「………………うん」
少しは自覚があるんだろうか? 頷いた江藤さんの声音は少し低かった。
でも今はそんな事問題じゃない。
あたしは選ばなきゃならないんだ。たった一人を。江藤さんか瑞希さんかを……。
普通なら何も考えずに恋人を選ぶべきなんだろう。
でもあたしにとっても瑞希さんは掛け替えのない人。
本物の恋ではなかったにしろ結婚を考えた程憧れ恋焦がれた人。
今だって、大切な人である事には変わりない。
そんな人を見捨てる事が出来るの?
でもだからって江藤さんを見捨てられるはずがない。
想像しただけで胸がズキンと痛む。
思わず涙が込み上げそうになってギリっと唇を噛み締めた。
どっちを選ぶの? どっちを選べばいいの?
江藤さん? 瑞希さん?
どっちを選べば後悔しないですむの?
ううん、どっちを選んでも後悔するに決まってる……!
「……ねえはじめちゃん」
答えが出ないまま、どれだけ悩んだんだろう? 悩みすぎて頭がクラクラしてるあたしに江藤さんが静かに声を掛けた。
「……何よ」
「こう言うのは駄目? はじめちゃんが選べないんならオレが選ぶの」
「江藤さんが……?」
「そうオレが瑞希を選ぶの」
「え?」
この人は笑顔で何を言ってるの?
呆然としているあたしをよそに江藤さんは少し笑ってちゃぶ台の縁に手をかけた。
な、何をする気?
「こんな風にオレが自分で飛び降りる──……」
言って江藤さんはフワリと後ろに倒れ込む……。
一瞬、景色が一変した。
江藤さんの背後には何もない。ただただ真っ暗な闇が広がっていた────。
「いやっ!」
ガチャン! ガン!
気が付いたらあたしは江藤さんにしがみ付いていた。
ゴンッ
「いてっ!」
まるで全身が心臓になったみたいに指先まで大きな音を立てた拍動を感じる。
「ったぁ………………」
あの時と一緒だ、受験の時と──。あの時も江藤さんは何の躊躇いも無くビルから飛び降りようとした。
「は、はじめちゃん?」
腕の中の江藤さんが身動きする。
離せば居なくなりそうな気がしてあたしは腕に力をこめた。
「はじめちゃん?」
結局江藤さんは瑞希さんを選んだ。
あたしじゃなくて瑞希さんを。
何を傷つく必要があるのよ。
最初から分かってた事じゃない。
あたしは江藤さんの”異性”で一番大切な人で、瑞希さんは性別問わずに一番大切な人なんだって。
恐らく、江藤さんは瑞希さんを選んで欲しかったんだと思う。
だけどあたしがぐずぐずしてるから、自分で瑞希さんを選んだんだ。
瑞希さんさえ生きていればそれでいい人だから──。
選ばれなかった自分が悲しくて、悲しくて、悲しくて──。
あたしを選んでくれなかった江藤さんが憎くて、憎くて、憎くて──。
涙が止まらない。
あたしはゆっくりと身体を起こした。
涙で曇った視界に江藤さんのきょとんとした顔。
その顔に涙がポタリポタリと落ちていく。
「はじめちゃ……」
バチン!
「あんたは何考えて生きてるのよ!」
「はじめちゃ……?」
起き上がろうとした江藤さんの胸倉を抑えて、あたしはありったけの力を込めてぶっ叩いてやった。
江藤さんはぶっ叩かれた頬を抑えながら呆然とあたしを見上げてる。
「結局あんたは自分さえよければいいの!? 遺される人間がどんな気持ちになるかって考えた事あるの!?」
「………………………」
「いい加減にしてよ! あんたが…瑞希さんがいなきゃ生きてけないのと一緒で、あんたがいなきゃ生きてけない人だっているんだって簡単な事が何だって分からないのよ!」
幾らあたしが叫んでも江藤さんはただ呆然としたままだった。
どんなに叫んでもあたしの声は江藤さんには届かないの?。
こんなに江藤さんを憎く思った事なんか今までなくて、あたしはもう自分が押さえられなかった。
「おかげさまで腹が決まったわよ。あんたと瑞希さんどっち選ぶって言ったらあたしは迷わずあんたを選ぶわよ!」
「!」
「分かってるわよ。あんたがそんな事、これっぽっちも望んでないなんか! これはあたしのエゴよ! どうしようもないあたしのエゴよっ。でも、でも…しょうがないじゃない……!」
そう言い切った時、初めて江藤さんが目を見開いた。
「……………はじめちゃんは…オレがいなきゃ生きていけないの?」
「あたしだけじゃないわよ」
素直に答えるのも業腹だったからあたしは押し殺した声でそう言ってやった。
「本当に?」
「……嘘言ってどうなるって言うのよ」
強気な言葉を返したって涙が止まらないのが悔しい。
その悔しさを両目に力を込めてあたしは江藤さん睨み付けていた。
「……………………」
それまでされるが侭だった江藤さんが手を伸ばしてきた。
江藤さんの手が頬に触れた。
その温かさが例えようもなく心に染みて、もっと感じたくて目を閉じたら、優しく涙を拭ってくれた。その手が後頭部に回ったかと思うと軽い力で引き寄せられた。
抱きしめてくれるのかなって思ったらキスされた。
凄く、凄く優しいキスだった。
涙はずっと止まってなかったけど、今流れてる涙は悲しみの涙じゃない。
たったキス一つで幸せな気分に成れるなんて、なんてお安い人間なんだろう。
悔しく思いながらもあたしは江藤さんのされるが侭になっていた。
気が付けばあたしは床に寝かされていて、江藤さんを見上げていた。
今度のキスは何故かしょっぱくて変な感じだった。でも、キスを重ねる内にそんな事はどうでも良くなっていった。
もう頭の中は真っ白で今何をしているのかも、これから何が起こるのかもあたしには分かってなかった。
分かっていたのはただ一つ──。
もう何も出来ない──だった。
だから江藤さんが、
「はじめちゃん、いい?」
と尋ねても何がいいのか全然分かんなくて、でも何も出来ないのは分かってたからとりあえず 「……無理」 って答えた。
「…………………………え?」
もう考える事すら億劫で……。
「もう、…………限……界……」
そこであたしの意識はフェードアウトしたのだった。
◇ ◇ ◇
:
:
何だろ、暖かーい。
余りの心地よい暖かさにスリスリと擦り寄ったら、
「ん……。はじめちゃん、くすぐったいよ……」
って声が返ってきた。
:
:
ん?
今の声の主は……江藤さんよね?
そぉっと目を開ければ、至近距離に江藤さんの顔があった。
本当に至近距離。ちょっと口を突き出せばキスしてしまうくらいに間近に迫った美麗な顔!
「!!!!!」
でも江藤さんは眠たそうに薄目で狼狽してるあたしを見てる。
「……もう少し寝てようよ? ね?」
とか言って、ちゅっとキスしたのよこのバカは〜〜!
また意識が遠のきそうになったけど、ある事実があたしの意識を掴んで離さなかった。
「え、江藤さん?」
「ん〜〜〜〜? なにぃ〜〜〜〜?」
「あ、あ、あたしどうしてパパパパパジャマ着てるの!?」
確かに気を失ったけど服は着替えてなかったわよ!
「どうしてって……。そんなのオレが着替えさせたに決まってるじゃん……」
「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
おお乙女の一大事を目ぇ閉じて眠たげに言うな!!!
ししし、しかも……。
「ブブブブブラ、ブラ、ブラ……」
「ああ……あれね。なんか……息苦しそうだったから外したよぉ」
「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
あああ欠伸混じりに言うなボケ──っ!
あたしが口をパクパクさせてたら江藤さんがうっすらと目を開けた。「……何も見てないし、何もさわってないよ……」
「……………………え?」
「オレ…すごく…我慢……したもん。だから……すごい疲れた……。お願いだから……もう少し……寝かせて……」
江藤さんはカクンと落ちるように眠ってしまった……。
「……江藤さん?」
応えの代わりぎゅうっと抱き寄せられて頬摺りされた。
……一体何なんだろう?
ついさっきまでバクバク言ってた心臓は不思議な程に落ち着いている。
我慢したもん
そんな風に言って貰える程のモノじゃないのに、そう言って貰えたのがすごく嬉しくて、嬉しくて──。あたしも江藤さんの胸に擦り寄った。
もう、江藤さんの一番なんて関係ない。
一番でなくてもいいじゃない。
こんなに大切に思われてるんだから。
こんなに大切に思ってるんだから。
いつになく幸せな気分であたしはもう一度目を閉じた。
明日の朝はとびきりの朝ご飯を作ろうと心に決めて──。