天界は唯一の神女を除いて悲哀の気運に包まれていた。
天界の至宝、並びなき瑞華と謳われた神女・

妃が天河

水に足を取られて溺死したのである。
この麗神の死は天界のみならず、人界にも多大なる影響を及ぼした。何故ならば

妃の凄烈なる美しさに魂を捧げた神人は先を競って

水に身を投げ、死後

水夫人となった

妃に付き従い、また、心を奪われた神人は府抜けて仙人の如く深山に隠遁したからだ。
天界は見る影もなく荒れ果てた。
天乱るれば 即ち 地も乱る
天地開闢より定められたこの理により地は天の荒廃に引きずられ、天よりも脆く荒廃した。
地を治めるべき八天国諸王朝は一つ残らず断絶し、血で血を洗う乱世となった。
興っては倒れる役立たずな王朝と、そんな時代でもしぶとく生き残り、私利私欲に奔走する奸臣並びに権力者、そして汚れた大地によって活性化した妖に、八天に住まう無力な人間達は限界までに疲弊した。だが地の乱世の元である天の悲哀は拭い去られるまで長久の時を要した。その長久の悲哀から先ず初めに立ち直ったのは意外にも

妃の母神である女

であった。
女

は神族仙家を治める欽帝でもあり、人類の太祖神でもあるのだ。そして『このままでは人類は滅んでしまう』との次女神・秀妃の言葉に、元来慈悲深い女

は間接的な我が子である人類の為に悲しみを乗り越える事にしたのだ。そしてそれを見習い四方天帝が、次いで数多の神族仙家が悲しみを乗り越えた。
天の復旧は目覚ましいばかりに進み、ようやく地の乱世は終結を向かえた。
だが極限までに疲弊・劣化した人心が元通りには戻る筈もなく、相変わらず奸臣奸吏がく跋扈し、民は貧困に喘いだ。
勿論政を正し、賢臣賢吏を積極的に登用して、民の為に尽力する天王がいないでもなかったが、それらは八天中二天に過ぎなかった。
それでも乱世よりかはマシと言う事で民はそれを甘受し今日を生きた。
そして二千年の後、人は絶える事なく命の灯を灯し続けていた。
各天国も幾度もの革命放伐が行われ、乱世安寧を繰り返して人界を維持していた。
中でも九天の西は白帝・少昊のお膝元。昊天国は天界に勝ると劣らぬ繁栄を極めた。
驚くべきことに、この繁栄はたった一人の男の手に拠って成されたものであった。
男の姓はロ、名は

、字は晶

。長生不死の仙人である。
出自は天地大乱の際に断絶したロ王朝にまで遡る事が出来る。晶

はそのロ王朝最後の天王である覚王の長子だったのだ。が、諸事情により王位を蹴って登仙し、そして五等仙(天眞・昇神・山居・出家・在家)中、天仙でもある昇神仙の位に昇りつめたのだ。
しかし、仙人になって数千年後、気紛れに垣間見た故国の余りの荒廃ぶりに心を痛めた晶

は、天仙の地位も賞賛もかなぐり捨てて故国の復興に尽力した。
その結果が現在の昊天国なのである。
だがこの繁栄も一柱の神女によって断ち切られようとしていた。
黄溟公主・秀妃の手に拠って………。
「今何とおっしゃられたか? 黄溟公主様」
晶

は邪悪を纏いつつも神々しく神気を放つ麗神に問い返した。
「昊天国の命運は残り三年と申したのじゃ」
「何故っ!?」
「何故じゃと? 其の方、知らぬ訳ではあるまいな、欽帝を蔑ろにする民草の傲りを」
鮮やかに紅を引いた妖艶な唇を、端だけ笑ませて秀妃は語る。
一方晶

は怒気も露わに反論を申し立てる。
「何をおっしゃるか。我が昊天国の民は常に欽帝に敬意を払い、感謝の念を捧げてございます。それを言うに事欠き傲り高ぶっているなどと…。その様な中傷を受くる謂れはございませぬっ」
「黙りゃっ! 其の方、民草が昊天国こそが一天楽土と謳うておるのを知らぬと申すか」
「一天…楽土!?」
「そうじゃ、その言葉こそ確かな証拠。それでもまだ傲っておらぬとでもぬかしおるか」
秀妃の口から出た言葉は晶

を叩きのめした。
そもそも『一天楽土』とは、人未だ在らぬ神代より欽帝の御座所である鈞天の美称なのだ。秀妃の話が事実ならば傲りと取られても反論できないのあでった。
「母上様…いや、欽帝が寛容であらせられるのを良い事にお調子に乗りおってからに…」
「そのような事は決して…」
「無いと申すか? 荒廃を極めし大地を見事ここまで蘇らせ、鈞天に次ぐ長き平安を打ち立てた聖人の誉れ高き昊天王よ。決して無いと申すのか!!」
「ございませぬっ!」
胡乱げな目つきで問い詰める秀妃に晶

は毅然とした態度で答えた。それは一片の偽りもない真であった。
彼にとってこれまでの業績は過ぎし日の贖罪であり、為して当たり前の事だった。それだけが彼の自分に対する評価であった。加えて堕ちたと言えど昇神仙にまで昇った晶

に、その手の賞や傲りはてぇんで無縁なのである。
一方即答された秀妃は一瞬だけ忌々しげに秀麗な眉根を寄せた。が、腹に逸物あり、の笑みを浮かべる。
「なるほど、腐っても天仙だけはあるようじゃな………。──ではやはり、昊天国を滅するとしよう」
「公主様っ!」
「一度振り出しに戻るがよかろう。そして己らがどれ程思い上がっていたのかを思い知るべきじゃ。その後で其の方、再び国を興せばよいではないか」
残忍な笑みを湛えて秀妃はそう言い捨てた。
晶

は脱力したかのように跪くとガバリと叩頭する。
「御慈悲を、どうか御慈悲を…。昊天国の中にもその日その日をささやかに暮らす者も数多くございます。その者達の為にもお聞き届け下さいませ。後生でございます。どうか御慈悲をっ!」
「成らぬな」
が、その必死の願いをも秀妃はいともあっさりと却下してしまう。
「此度の昊天国は言わば見せしめじゃ。さぞかし今の、そしてこれからの昊天国……いや、八天国はこの事を肝に銘じるじゃろうなぁ」
「………」
晶

は『見せしめ』と言う言葉にギリリと歯を食いしばり、拳を握りしめた。その手からは血が黒光りする床に二滴三滴と滴り落ちた。
「刻限は三年じゃ。滅びはゆるりゆるりと近づきよる故、せいぜい無駄な足掻きをするがよいぞ? ホホホホホ……」
残酷なまでに艶やかな笑みを浮かべて秀妃は裾を翻し、背後に浮かぶ五色の瑞雲に昇る。
「………お待ち願います、黄溟公主様」
「ん?」
叩頭を続ける晶

から押し殺された声が発せられた。
秀妃は殺意にも似た怒気を孕む声音に興味を引かれたのか、その足を止め、優雅な仕草で振り向いた。
「何じゃ? 何ぞ申し開きたい事でもあるのかえ?」
「…はい、ございます」
「ふふん。ゆうてみよ」
「公主様が先程おっしゃった昊天国の命運……、不肖の命と取り替えて戴きたい」
「! なんと」
「この願い、是非ともお聞き届け下さいますように。何卒御願い奉る…」
晶

はこの傍若無人かつ残虐非道な神女を縊り殺したい衝動を押し殺して、床に額を押し当てて申し立てた。
当の秀妃はさすがに面食らったのか、しばし碧の瞳は真円になっていた。が、やがて小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「それ程までに民草が大事かえ? 己の命と引き替えても惜しくない程に? ──面を上げよ、昊天王よ」
命じられるままに晶

は床から額を離し、ゆっくりとした動作で上体を起こした。
その漆黒の双眸に宿る光は紛れもない怒気と決意。
「ホーホッホッホッ!」
途端に秀妃は弾けたように嗤い出した。
「よかろうて、昊天王よ。その願いしかと聞き届けた!」
言って秀妃は再び瑞雲から降り立ち、そして晶

の眼前まで歩み寄る。
「昊天王ロ

よ、立ちゃれ」
晶

は同じくゆっくりと立ち上がり、自分の胸辺りにも満たない小柄で傲慢な神女を無言で見下ろした。
「ふん、其の方が死ぬれば昊天国も少しはましにもなろうて。………なんじゃ? 妾を殺したくて仕方がなさそうじゃなぁ?」
「貴女様を殺したところで欽帝のお怒りに油を注ぐだけでございましょうよ」
パァンッ!
きっぱりと答えた晶

の頬を打って秀妃は憎々しげに睨み付けた。そして晶

の頬よりも赤く腫れ上がった己の手を見て、一層憎々しげに舌打ちし、
「貴様に安寧なる死などくれてはやらんっ。藻掻き苦しんで死ぬるがよいわっ!」
凶言を吐き捨てると乱暴に晶

の着物の袷を開いた。
見事なまでに鍛え上げられた逞しい胸が露わになると、晶

は微かに、だが確かに眉を顰めた。
そんな晶

を無視して秀妃は心臓と思しき辺りに唇を寄せた。
「!」
動かされる舌に耐え難い嫌悪感を覚えて晶

は思わず身を引いた──その時。
「なっ!?」
晶

の胸に深々と簪が突き立てられた。
正に目にも留まらぬ早業で、秀妃は己の髪を飾る簪を晶

の胸…、心臓に三度突き刺したのだ。そして徐に抜き取ると血に塗れたそれで再び髪を飾る。
それが合図のように晶

の体がぐらりと傾ぎ、コマ送りのように前のめりに倒れた。
背の半ばと腿の辺りで纏められた艶のある黒髪が蛇の群の如く乱れた。
「ぐっ……」
体中を駆け巡る激痛の為、細かく震えているその頭を秀妃は小さな足で踏みつける。
「愚かなる昊天王よ、その命の灯が消えるまで全てを呪って生きるがよいわっ」
最後に踵でニジニジ踏みにじると今度こそ踵を返して瑞雲に昇り、遥か彼方へと飛び去って行った。
激痛の余り黒い空間を七転八倒し、床に拳を叩き付けていた晶

の耳に、微かにだが呼び声が響いた。
──ぇい…
晶

の手が声の主を求めて虚空を彷徨い、痛覚とは別に意識が薄まり始める。
──ょう

…
「號っ……」
―晶

…
最後の気力を振り絞って晶

は手を伸ばす。
何者かの手に触れた。藁をも掴む溺者の如く、晶

はその手を握り締め、力の限り引き寄せた。
「晶

っ!?」
「!」
力強い声に導かれて晶

は目を醒ました。途端に痛みは消え去り、僅かながら気力が蘇る。目には見慣れた天蓋の天井と、自分が最も信頼を寄せる白髪金眼の少年。
「號閃……? お、俺は…ぅぐっ!」
「晶

っ!?」
「王っ!!」
「主上っ!!」×2
「ロ主っ!!」
「晶

様っ!!」
晶

は少年──晶

が號閃と呼んだ──の手を借りて身を起こそうとした。だが胸に強烈な痛みを覚えて再び寝台に倒れ込んでしまった。
その様子に、號閃を筆頭として六人の白髪の腹心達は慌てて主君の顔を覗き込む。
「…………! っっっっ」
だが、ややして晶

はふっと全身の力を抜くと起き上がろうとした。
「お、おいっ、晶

っ。無理しないで寝てろよ!」
詰め寄る腹心達に「大丈夫だ」と、手をふって、晶

は難なく起きあがった。
痛み自体は一分強程続いたが後には残らない。ただ、脈拍だけが名残のように速くなっていた。
「フ──ッ」
晶

は漸く緊張を解いて大きく息を吐いた。
「主上、どうぞ」
「ああ、ありがとう、

暉」
蒼眼の妙齢の美女が冷水を湛えた杯をさしだした。受け取って晶

はそれを一息に飲み干すと、人心地ついたようにもう一度大きく息を吐く。
「お前の気がめちゃくちゃ乱れたから心配して来て見れば…。一体どんな悪夢に囚われてたんだよ」
袖で額に浮かぶ汗を拭ってやりながら號閃が尋ねた。
「………かなり不吉な夢だったな……」
晶

は憮然とした相で呟いて、もう一度大きく息を吐いた。
「不吉…ですか。で、どのよう…」
「あの、樂峯哥哥、お話中申し訳ございません。少し気になる事がありますの。あの、晶

様。あの、貴方様の胸の辺りからとても穢れた厭な『気』がするのですが…」
のんびりとした口調の黒眼の青年に断りを入れてから七、八歳ぐらいの碧眼の幼女が晶

の胸、厳密に言うと心臓の辺りを示して尋ねた。
「胸?」
この中では一番に穢れに対して敏感な彼女の言葉に一同静かな緊張を以て晶

を注視する。
晶

は少し乱れてはいるものの、きちんと合わさっている袷を開いてみた。
「なっ!?」
一同は晶

の胸に為されている印を見て激しく驚愕した。それは親指の爪程の血色をした三つ珠印。その珠印が正三角形の三頂点に位置しているものであった。
………これこそが呪いの証なのだ。
「夢は夢でも霊夢と言う訳か……」
晶

は「参ったな…」と言うように天を仰いで額に手をやった。
「れ…霊夢だと!? 一体誰が…、何処の何奴がお前に呪いなんぞ掛けやがった!!」
「話すから………立ち話も何だし、皆座って聞いてくれ」
激昂して詰め寄る號閃を鎮めてから晶

は腹心達に着座を命じ、確認してから夢の内容を掻い摘んで話して聞かせた。
話を聞き終えるや、號閃と十六、七の紅眼の少女が内庭に飛び出した。
「號閃っ、伯英っ。何処に行くっ!!」
晶

の声に二人はキッと振り返った。
「申し上げるまでもございません。上帝に直訴致します」
「伯英っ」×4
「伯英姐姐!」
「俺ぁもう、あの女の我が儘には我慢出来ないんだよっ!

妃大姐が亡くなってから今まで、あいつのくだらねぇ自己至上主義のせいで何人顔を焼かれて殺されたっ!! 何人化物に化生させられたっ!! どーせ今回の事だって昊天国の美しさを妬んでの事に決まってんだっ!」
「號閃…」
號閃の言葉通り、秀妃は自分以外の美を決して許さない神女であった。

水夫人……

妃が存命中はその心中を烈火の如く猛り狂わせていたのだが、さすがに姐殺しは周囲の外聞が悪いので何とか抑えていたらしい。だが、その二番手に甘んじている間に彼女の劣等感は限りなく増大し、僅かにあった他を思いやる気持ちは綺麗に失せてしまった。
そして目上の瘤の死により、念願とも言える天上天下随一の麗神の地位を手に入れた秀妃は、その地位を脅かす者(物)に対して一片の情けを掛ける事なく滅し続けた。
それらから察するに、「一天楽土云々」も見事なまでの強さと美しさを、見事なまでに併せ持つ昊天国を滅する為の口実でしかないのだろう。
勿論その事は晶

にも判っていた。だがあれ以上図星を突いて、あれ以上怒らせてしまっては折角の苦労が全て水の泡になってしまう。だから黙っていたのである。
「そぉーなんだよなぁ。あの人のお陰でどれだけ俺の恋人達が迷惑被った事か……」
「天

っ! 貴様、この非常時になんて不謹慎なっ」

暉は戯けてみせた青年、天

を厳しく睨み付けた。が、天

はと言うと、
「冗談なのにぃ」
と、小さく吐息を吐いた。
「たとえ冗談でも程度があるっ! もっと時と場合を考えろっ」
「その通りです、天

哥哥。わたくし達が忠誠をお誓いした晶

様のお命に関わる事なのですよ。確かに貴方の恋人の方々は大変お労しく思います。ですが……」
「あ〜ごめんっ。すまないっ。俺が悪かったっ! このとーり! だからお願い、粋珠ちゃんっ!」

暉に引き継いで幼女粋珠が天

を諫め始めると、途端にびくりとして精一杯謝りだした。………どうやら粋珠の説教は長いらしい。
「天

哥哥、わたくしには貴方がわたくしと同じ仁獣であるとは、申し訳ありませんが、到底思えません」
「ははは……、俺ってば愛と主上の為に生きてる訳だからさ」
「確かに愛すると言う行為はとても高尚で大切な事ですが……」
「二人ともいい加減にしろよ、話に水差さないでくれ。粋珠もさぁ、説教続けたきゃ余所か後でやってくれ」
気勢を八割方殺がれてしまった號閃が盛大に溜め息を付いた。
助け船の到来に顔を輝かせた天

ではあったが、
「申し訳ございません、號閃大哥。では天

哥哥、お話は日を改めてという事に致しましょう」
との言葉にがっくりと肩を落とした。
「………。とにかくだ! 俺達は鈞天に行って来る」
無理矢理気を取り直すと號閃と伯英は空へ駆った。二人の姿が燐光に包まれるや、號閃は白く巨大な虎に、伯英は同じく白く巨大な鵬に変化した。
「呪詛撤回は不可能だろうな…」
二つの彗星を見送りながらぼそりと呟いた晶

の悲観的な言葉に残った四人は驚き、その顔を見つめて更に驚いた。
笑っていたのだ晶

は。
「主上………」
「いや、お前達の心遣いが嬉しくてな」
珍しく戸惑いの声を発する樂峯に、晶

は柔らかな笑みで応えた。
そんな晶

に粋珠は務めて明るい笑顔を向ける。
「晶

様、きっと大丈夫でございますよ。だって黄溟公主様はともかく、上帝はとても慈悲深い御方でいらっしゃいますから」
「だが麒麟程慈悲深くもあらせられん」
「晶

様っ……!」
「失言だった………。これからの事については二人が帰って来てからにしよう。お前達も休め」
咎めるような粋珠の頭を撫でて晶

は命を下した。
「分かりました。樂峯、天

、粋珠、下がりましょう。では王、御前を失礼致します」
「晶

様、健やかにお休み下さい」
「ありがとう粋珠」
心配げに粋珠が夢違えの印を切ると、四人は一礼してから退出していった。
ダンッ!
その気配が完全に遠のいた事を確認してから晶

は壁に拳を叩き付けた。
登仙時に五情(喜・怒・哀・楽・怨)を捨てた晶

ではあったが、荒れた故国を目にしたあの日から徐々にそれらの感情は元に戻りつつあった。そして今日、この時に怒が完全に復してしまったのである。
(何故だっ! 何故地が平和でいけないっ。地が乱れれば天も乱れるのだぞ!? 神々は乱心したか)
声に出せぬ思いを拳に込めて幾度と無く壁に叩き付けた。白壁に血の紅い染みと凹みが出来た。
(何故上帝はあの神女の暴挙を黙認しておられるのだ! 娘御だからか!?)
抑え切れぬ怒りを抱えたまま晶

は…、いや、六人の腹心達は眠れぬ夜を明かした。
「畜生っ! 話になりゃしねぇ!!」
咆哮と共に禁中の内庭に舞い降りた白虎は人型を取りつつ忌々しげに吐き捨てた。
次いで白い炎を纏う鵬・白雀が飛来し、優雅に舞い降りると、こちらも同じく人型を取り、そして大きく吐息を吐いた。
その咆哮を聞き付けて晶

や腹心達を始め、百官が姿を現した。
「號閃、伯英っ、首尾はどうだったの!? かなり長居をしていたみたいだったけど」

暉が不安に満ちた様相で尋ねると、伯英は俯いて首を振るばかり。
「どうもこうもねぇよっ!!
「上帝が…謁見をお許し下さらないの……」
「上帝が?」
激する號閃に代わって答えた伯英の言葉に晶

は小さく息を吐くと、『上帝』との至高の言葉に小首を傾げる百官を下がらせた。
「禁上殿堂に入るどころか、禁闕で締め出し喰らったんだぞっ!? それでこっちも意地になって丸二日

人と睨み合って、それでも音沙汰無しでさ。だからって今度は長から正式に頼み込んでもまるっきり同じだ」
「そんな…」
號閃の言葉に粋珠は気色を失ってふらついてしまった。倒れ込む寸前、天

は幼女を抱き上げていた。
「ああ……、天

哥哥。ありがとうございます」
「何の、気にしない気にしない。──で、とどのつまり、上帝は主上を、昊天国をお見限りになったんだな?」
「──………そう言う事に…なるな」
天

の問い掛けに號閃は渋々という体で答えた。
「二人とも御苦労だった。後はゆっくり休んでくれ」
「晶

!!」
「王!!」
だが晶

は背を向けるとそのまま宮殿の中へと姿を消してしまった。
「………

暉、あれから晶

の様子はどーなんだよ」
呼び戻す事も出来ず、その背を見送る事しか出来なかった號閃は留守中ずっと気に掛けていた事を尋ねた。
「それがどうも日一日と痛みが長引いてきているのよ。霊夢を御覧になったあの日から五日。水時計で計ってみたら確実に五倍の時間になってるの」
「それに主上の胸の印、あの一つが月のように欠けて来やがった」
「んじゃやっぱり一つで一年、三つで三年って訳かよ…。くそっ! 俺達にゃ何も出来ないのかよっ!?」
號閃は舌打ちして敷き詰められた玉を蹴った。皆も己の無力さを痛感させられて俯いた。
そして一月が過ぎた。
激痛は日が改まる毎に晶

を襲い、長くなり、今では三刻(四十五分)にもなっていた。
しかしながら晶

はこの痛みを声も上げずに耐えていた。そして痛みが治まれば今までと同じように執務をこなしていた。それもこれも自分で選んだ道だからである。それ故にどんな痛みでも、残り三年弱の命でも耐えられたのだ。
だがそんな晶

にも耐えられない事が一つだけあった。
腹心達の表情である。
純粋すぎる粋珠や、物事を深く考え込んでしまう

暉は勿論、常に陽気な號閃、伯英、天

、そして何事に対してものんびりおっとり構えている樂峯でさえも深く沈み込んでいたのだ。
幾度もの解呪が失敗に終わる度に六人は己非力さに打ちのめされていた。
晶

にとって掛け替えのない腹心達が思い悩むその姿は激痛よりも辛いものであった。
そして更に半月が過ぎた頃、晶

は一枚の詔書と二枚の親書を残して姿を消した。
詔書には天王位を侍中(宰相──昊天国では號閃達の事──の次位)の沈極宇に譲位すると記されており、御名御璽の施された文句の付けようがない詔勅であった。
ちなみに沈極宇とは晶

が保護する孤児院出身の青年で、字を斂意と言う。
斂意は十九歳の若さで殿試に合格した秀才で、先に記した通り現在は侍中を務めている。
忠義心厚く、武技にも通じ、晶

の信頼もすこぶる厚いのだが、クソ真面目なところが玉に瑕。彼のモットーが『自分に厳しく他人にも厳しく』であるが故に、不正に対して容赦がない。「情状酌量」も持ち合わせていない。だが、その唯一とも言える欠点を除けば、彼は人の上に立つに相応しい人物であった。
故に、百官も斂意を認め、天王位へと迎え入れた。そうせざるを得なかった。異を唱えるべき相手はいないのだから……。
そして青天の霹靂の如く天王位を与えられた斂意は当初それを固辞していた。しかしながら王命に背く訳にもいかず、徒に政を停止する訳にもいかず、結局譲り受けた。だが、それはあくまで真王が帰還するまでの仮王としてだった。
昊天下には急病故の譲位と発表された。
昊天国民は長く続いた繁栄の終わりではないかと不安を覚えたが、『六獣』──上帝が各天王の徳に応じて鈞天より遣わされた神獣──の存在に、とりあえずの化王を受け入れた。
これらが詔書に対する天王位交代劇であった。
一方、親書の方は腹心達と新王に対する謝罪と祝福が記されていた。
そしてもう一枚には新王への助言と、自分の命が続くまでは宜しく新王を補佐するように、との命が記されていた。
斂意はこの時初めて晶

の余命が幾ばくも無い事を知った。そして、彼が命を賭してまで守り抜いた昊天国の為に、同じく命を賭して治める事を涙して誓約した。
そして四ヶ月の月日が経ち、国勢が落ち着きを取り戻した頃、六獣達は斂意の依頼を受けて晶

の行方を探索し始めた。と言っても此界ではなく異界である。
何故ならば、もし万が一晶

が此界にいるのなら、たとえ四極の果てであろうとも、しかも姿を消した時点で探し出せたのだ。
しかしながら、尋常でない絆を持つ彼らでさえ気配を辿れないと言う事は、晶

は後を追えないようにと異界に身を潜ませた、という事なのであった。
六獣達は日に幾千幾万もの界を訪れた。
彼らにとって界を越える事は扉を開くに等しい容易な行為であったが、目的を達する事は不可能に思われた。と言うのも彼らの概念に於いて異界と言うモノは無限に存在するモノなのだからだ。
だが彼らは諦める事なく晶

を、唯一人の主を捜し続けた。広大な砂漠で特定の砂を一粒探し出すという気の遠くなる作業を投げる事なくし続けた。
そして、天

が奇跡とも言えるこの探索に成功したのは捜し初めて八百九十二日目の事。つまりあの霊夢の日から二年と八ヶ月が過ぎた頃だった。
つづく