昊天記神仙列伝
第一段 一期一会
「だ、誰か…た、助け…ウゲッ!」
  地べたを這い蹲る男の腹に鋭い蹴りが入った。衝撃の余り男は石畳の上をごろごろと転がり、胃の中の今日のおかずの成れの果てが口から吐き出された。
  相当の距離を置いて見物を続ける周囲からは、
「うぅわっ、モロやん今の」
や、
「ちょぉ、誰か止めたげな死ぬんちゃう?」
や、
「あのコ誰ぇ? むっちゃ強いやん」
や、
「しかしまぁ、ミナミで沙羅さんに楯突くやて、アイツええ度胸やな。俺やったらコワーてよーせんわ」
とのひそひそ声飛び交っていた。が、誰一人として止めに入ろうとはしなかった(合掌)。
  哀れで愚かな男はゆっくりと近づいて来る足音にビクッと顔を上げた。血と涙と吐瀉物にまみれた顔は正視に耐えぬ代物だったが、沙羅は冷めた無表情で見下ろした。怒りで紅潮している為か、右目の下にある長さ三センチ程の刃物傷は鮮やかな程に白く浮き上がっていた。
「人様にぶつかっといて『ボケッとすんな! ドアホッ!』やとぉ?」
  怒りも露な沙羅の言葉に男はビクッとして、慌てて土下座する。
「すすす、すんません、でした。いい急いでたんで、つい…うぎゃっ」
  へこへことアスファルトに額を擦り付ける男の顔に沙羅の爪先がめり込んだ。
「今の世の中すんませんで済んだら警察いるかいっ!!」
「っ…うぅ…」
  蹲る男の腹に蹴りをかまし、ゴロンと仰向けにすると沙羅は男の肋骨を踏み締めた。ミシミシッと厭な音と、男の絶叫が響き、周囲が固唾を飲む。あと一息で砕ける───時、
「おらぁっ、止めんかい! ガキがぁっ! 殺す気かいっ!!」
誰が呼んだのか、それとも騒ぎを聞き付けたのか警察官が水を差した。



「なんじゃい、まぁたお嬢かいな。ちょっとも大人しゅうせん奴ちゃなぁ」
  既に旧知と化している少年課の初老の刑事、松田が呆れた声を上げた。
「あたしが売った喧嘩やないで」
  何様のつもりか、偉そうに腕組み足を組み、ふんぞり返ってパイプ椅子に座っている沙羅は松田を睨め付けてそう言った。
「分っとるがな、そないな事。お嬢は今まで買い専門で売った事無いやろが。………ホンマに物の道理はよう分っとるのに、なんで加減っちゅーもんを知らんのや。そんなけ強かったら余裕カマして当て身一発ぐらいで収められるやろが」
  松田の言葉に沙羅は自信なさげに眉根を寄せる。
「そんなんゆーたかて、下手に色気出したらコケてまいそうやねんもん。それにやで、獅子は小物を狩る時でも全力出すってゆーやん。まあ何事に対しても全力投球っちゅー事で」
  にっこり笑って話をまとめてしまう沙羅に、松田は盛大な溜め息を吐いた。
「ホンマああ言えば上祐やな…」
「何それっ、ごっつ古いなぁ。相変わらず時代の波に乗れてへんのとちゃうか?」
「やかましっ。まあええわ、それよりも喧嘩の方はちょっと自粛してくれや。十七の身空で警察の常連やて、誉められたもんやないで。……それに鑑別所も、少年院も一回行ったらもう充分やろが。もっと自分を大切にせなバチ当たんど」
  沙羅の揶揄に松田は顔を赤くし、そして真顔で諭し始める。
「……心配してくれておおきに。でもな、そんなん相手にゆーてや。何回もゆーけどあたしから喧嘩売った事は一遍たりとも無いんやからな!」
  不愉快そうに唇をとがらせる沙羅に松田はガックリと肩を落として「そぉやねんなぁ」と呟いた。
「ああ、そうやお嬢。腹へってへんか? ワシ今から夜食でも喰おかと思とんのや」
「驕りやったら食べる」
「分っとるがな、そないなこと。んで、何喰うんや?」
  遠慮を知らない沙羅の言葉に苦笑して松田は店屋のメニューを渡す。
  沙羅は暫しメニューとにらめっこすると、メニューを返して邪気のない笑顔で注文する。
「うな重と言いたいとこやけど、給料日前やろし、カツ丼の上にしといたるわ」
「…おおきに」
  ………そうして和やかに食事を終えた後、少し世間話をして松田は沙羅を帰した。
「あのコが少年課ブラックリストのてっぺん飾ってるってゆー矢敷沙羅ですか。いかにもやさぐれてます、って感じですね」
  手を振って見送った大先輩の松田に、少年課に配属されて間もない穴師が話し掛けた。
「あれでも性格丸ぅなった方や。初めてここに来た時やて、飢えた獣みたいなギラギラした目ぇしとったんやからなぁ。ま、今でも時々そないなっとるけどな。………お前、飲まれんように気ぃつけとけや」
「はい、気ぃつけますわ。それはそぉと、松田さん。あのぉ……あのコ、大凪組の組長の情婦やて聞いたんですけど、………それ、ホンマですか?」
  興味津々という風な穴師の問い掛けに松田は、
「誰から聞いたんや、そんなもん」
と逆に問い返した。松田の剣呑な目つきに穴師は慌てて情報発信者を明かした。
「こ、交通課のお局様からです」
「ああ、あのいらん事しぃの、しゃべくりオババかい」
  松田は忌々しげに舌打ちした。
「あ、でも、ホンマなんですか?」
「ちゃうちゃう。確かにお嬢とあそこの組長は知り合いやけどな、お前が聞いたようなんとは全然ちゃうわ。お嬢の名誉と、お前の安全の為にゆっとくわ。去年の秋頃にな、お嬢あそこのチンピラ共とやりおーたんや。結果はお嬢の圧勝。その後事務所に殴り込みよったんや。『もーちょい下のモンの躾せぇ!』ってな」
「あ、それ嘘でしょ」
  ははは、やだなぁ松田さんたら。てな感じで笑う穴師に、松田は憮然とした調子で否定した。
「嘘やあるかい。そんな奴おらんわぁ、って思っとるやろーけどな、お嬢はホンマにやりよってん。そんでやなぁ、年頃の娘が単身で組事務所に乗り込むやてなんちゅう度胸や、ゆーて組長がお嬢をエライ気に入ってしもたんや。あそこのオヤジは今時珍しい任侠ヤクザやからなぁ。それからなんやかやとヨケーな世話焼いとるらしーで。お嬢がはうっとーしーて、たまらんてゆーとったわ。おっ、佳代ちゃんおーきに」
  松田は礼を言うと、入れてくれたほうじ茶を啜り、最早唖然と口を開け放っている穴師を見た。
「穴師。お前、あんましアホな噂を鵜呑みにすなよ?」
「は、はあ、分かりました」
  穴師もちびりと熱い茶を啜る。それで人心地が着いたのか、思い出したように松田に尋ねる。
「せや、全然忘れてましたけど、あのコ、保護者に連絡せんでいいんですか? それに何か処分とかも……」
「ん──。処分ちゅーてもなぁ……、なんせ相手は麻薬課の奴らが延々捜しとった指名手配中の売人やったしなぁ。どっちかゆーたら賞状出さなアカンのちゃうか?」
「でも、男の方は重傷ですよ? 前歯は全滅ですし、肋骨かて何本かヒビ入ってますし、内臓の方も検査の結果待ちですし……。もうこれは立派な傷害事件ですよ」
「ワシに免じて見逃し立ってくれ。それにお嬢とやりおうて死なんかっただけでもラッキーちゅーこっちゃな」
  松田は手をヒラヒラさせて話を終わらせようとした。
「本当に、それで、いいんですね?」
  一単語ずつ区切って確認する穴師に、松田は、
「お嬢に関してはええやろ」
とあっさり言って別の書類に手を伸ばし始める。
「そーですか……。じゃあ保護者の方に連絡を」
  保護者という言葉に松田は苦虫を噛んだ様な顔をして手を振った。
「アカンアカン。お嬢の親やったら呼んでも無駄や。実際お嬢が初めて補導された時でも来んかった。電話したら『あの子のする事と私は関係ありません。勝手に処分して下さい』って抜かしおったんや」
「んな、なんちゅう親ですか」
  少々過保護気味に育てられた穴師には考えられない事だったらしく、目をむいて聞き返した。
「………お前、紫村真理子っちゅー物書き知っとるか?」
「あ、僕、むっちゃファンなんです。あの人の書かはる話ってむっちゃ暖かーていいんですよぉ。今度全巻お貸ししましょか?」
  けどそれが何か話に関係あるのかと言わんばかりに穴師は首を傾げた。
「そのむっちゃ暖かーて、ええ話を書いてるのがお嬢の親や」
「えっ!? それホンマですか!?」
「ウソゆーてもしゃーないやろが。一遍、母親代わりにきた家政婦のおばはんがこぼしていきよったんや」
  その時を思い出してか松田は深い溜め息を付いた。
「ぼ、僕…ごっついショックですわ。あんなええ話書かはる人やから、ごっついええ人やとばっかり思てましたのに…」
  世の中みんな嘘吐きやぁ、と穴師はぼそりと呟いた。
「……何時やったか、お嬢がぼそっとこぼしていきよったんや。お嬢は今一人暮らししとるんやけどな、十四ん時……三年前に、顔見たないから出ていけってゆわれたらしいわ」
「そんな、それホンマのホンマですか」
  力無い問い掛けに松田は渋く頷き、顔を上げて驚いた。
「お、お前何泣いとんねんな」
  なんと穴師は滝のように涙を流していたのだ。
「だって、だってあのコ可哀想で……」
「……お前、もしかして『小公女セーラ』とか見て泣いた事あるんちゃうか?」
「分かりますかぁ?」
  ヂーンッと鼻をかむ穴師に松田は「分からいでか…」と呟いた。
「まあええわ。お嬢はこれからもちょくちょく来るやろから、よろしゅう頼むで」
「わっかりました!」
  すまなさそうな松田の頼み事に穴師は敬礼して応えた。
  が、この若い熱血刑事の熱意も空しく、沙羅はちょくちょくも来れない状況に陥ってしまうのであった。



  警察から解放された後、沙羅は家には帰らず、バイクで阪神高速4号湾岸線を南下し、二色の浜海水浴場に訪れていた。
(あ〜寒…)
  真冬の海と焚き火を前にして沙羅はブルッと体を震わせた。
  只今の時刻は草木も眠る午前二時。
  寒いなら家に帰ればいいのに、それよりも来なければいいのに、この少女は約二時間前から適当な流木に腰を降ろして、はぜる火と荒れ気味の海を見つめていたのだ。
(マジで寒いなぁ、でも帰る気せんしなぁ…。どないしょ)
  今現在、寒風吹きすさぶ真冬の海辺に来るような酔狂な輩は沙羅の他にはいない。
  誰もいない海岸で、寄せ集めた材木と常備しているガソリン(!)で盛大にキャンプファイヤーをして暖を取ってはいるが、心の中を吹き抜ける寒風には対処の仕様がなかった。
  沙羅は幼い頃から何かあると(勿論一人でだが)よく電車を乗り継いで、この海に来ていた。
  海に来ると何故かしら安心できたからだ。
  物心つく頃から衝突どころか接触さえもなかった母の代わりに、大いなる海に安らぎを求めたからかもしれない。
  だからこそ何も知らなかった頃は海を見て泣いた事もあった。
  何故父は自分を憎んでいるのだろうか。
  何故母は自分の存在を認めてはくれないのだろうか。
だが、それらの疑問は過酷な真実によってあっさりと解かれた。自分が母の浮気の結果であるという事実によって………。
  しかしながら沙羅はショックを受けるよりも安堵を覚えた。
  自分は理由もなく両親から疎まれているのではない。自分が不義の子であるが故に疎まれているのだ。
  子は親を選ぶ事など出来ない。
  では自分が悪い訳ではない。自分を生んだ母が悪いのだ。
  沙羅は無理からにではなく、心の底からそう思った。そして、それ以来沙羅は別人となった。自分を縛り付ける鎖を解き放ち、全ての柵を捨てたのだ。
  与えられる筈のない父母の愛情を求めて自分を偽る必要は無い。
  心を切り裂く父母の冷めた言葉に傷つく必要など無い。
  もう自分を殺す必要など無いのだ!
  そうして沙羅は本来の自分を取り戻した。
  常に周囲の反応に怯えていた目はだた眼前の一転を見据え、常に本音を押し殺し、中身のない上っ面な言葉だけを述べていた口は辛辣な真実を吐くようになり、常に涙を拭うだけの手は自分を守る為に他人を傷つけるようになった。
  ひたすら守りに徹するだけの消極的なの人間から『殺られる前に殺れ』をモットーとする攻撃的な人間へと沙羅は変化したのだ。
  勿論変化は内面的な物だけに止まらなかった。
  上辺だけのクラスメートから羨ましがられていた艶やかな黒髪は、これ以上はないと言う程に痛めつけられ、枝毛だらけの、まるで古ぼけたセルロイド人形の髪のようになってしまった。今は細い金茶の糸のように寒風に靡いている。
  また、沙羅の変化と共に矢敷家にも変革が訪れた。
  まずは両親の離婚。今にして思えば沙羅が生まれた時点で離婚しなかったのが不思議なくらい二人の中は冷え切っていたのだが、世間体がどーのとかで我慢していたそうだ。
  それはともかく勿論沙羅は母方に引き取られた。そして紫村真理子の文壇デビュー。
  元々現実逃避の気がある真沙子(真理子はペンネーム)は小説という暖かな夢の中に逃げ込んだのだ。
  その暖かな夢は世知辛い現代の人々に認められるもので、相次いでテレビ化や映画化された。
  一躍大作家の地位と財産を手に入れた真沙子は沙羅をひたすら避けるようになっていた。過去の仕打ちの復讐を恐れての事かもしれない。結果真沙子は、
「家もお金も用意したるから出ていって! 二度とあたしの前に顔出さんといてっ!!」
と言って、十四の少女にマンションを買い与え、多額の生活費を与えて追い出した。
  沙羅の方も願ったり、と言ってマンションに引っ越した。以来、人と交わる事なく一人暮らしを続けている。
  ………こうして今の沙羅が出来上がったのだ。
(キレーなお月さんやなぁ。……そろそろ帰ろか、火も小さぁなってきたしな)
「はぁ、どっこいしょっと」
  ババくさい声を出して沙羅は立ち上がると砂を掛けて火を消し、ジーパンのポケットに手を突っ込んでバイクのキーを取り出すと海に背を向けた。
(また腹減ってきたな…。何ぞ冷蔵庫ん中にあったやろか?)
  キーを弄びながらスペースの有り余った冷蔵庫に思いを馳せていた。その時、
「へっ?」
微弱な電流が円を巡らすように沙羅の周囲に走った。
(な、何やこれ?)
  最初はピリピリと肌を泡立たせるくらいだった放電が徐々に強まってきた。そしてその事実に気づいた沙羅は無意識に危険を感じて円から逃れようとした。が、急いだのが裏目に出たのか、沙羅は足下に転がっていた木に蹴躓いて前にのめり込んだ。
  上半身だけが円から抜け出した───。
  パシューン
  軽く何かが弾けて沙羅は一時の無重力状態を体験し、そしてケホッと血を吐いた。
「へっ?」
  突然の吐血と全く自由の利かない体の理由が分からず、ひどく惚けた表情になってしまった。
「ぃてっ」
  顔から砂に叩き付けられ、ワンバウンドして仰向けになった。その際現実離れした光景が沙羅の目に焼き付いた。
「ハレ?」
「─────?」
  沙羅の言葉に被さるように意味不明の言葉が響いた。だが、もはや沙羅の耳には届かない。
(今……、腹から何か…赤くて長くてブニブニしたものが伸びとった、ような……)
「───────!?」
  何者かが沙羅を抱き起こした。
  体は指先どころか瞼でさえも動かせなかったが、不思議な程に意識の方ははっきりしていた。故に抱き起こされた時に視界に入ったモノを沙羅は正確に認識してしまった。
(何や…、コレ見た事あると思たら腸やん。アレェ、これあたしのカラダやんなぁ? なんで足無いん?)
「──────────────────」
(あたしの……、あたしの腹から下は…どこ行ったんや?)
  強烈な事実を他人事のように思う沙羅の耳に漸く意味不明の言葉が届いた。
(喧しいなぁ、コラッお前。大阪弁しゃべらんかいっ)
  声の主が何かを沙羅に着せ掛けた。
(なんやコレ? 着物かいな?)
  ボヤケてくる視界が大きな手で塞がれた。
(コラお前誰や? 手ぇ邪魔や。どけぇ)
「──────────────────」
  相変わらず意味不明の言葉を紡ぎ続ける手の主に文句を言い(?)ながら、沙羅は腹部か妙に熱くなるのを感じた。
(何や、何か腹がむちゃくちゃ熱いやんか。燃えてんのとちゃうか!?)
  パキパキ ピチャピチャ メキメキ ピキピキ─────
  そんな擬音が熱と共に腹部から発せられ、次第に下方へと移動する。無い筈の腰へ、腰から腿、腿から膝、膝から足首、そして爪先へと……。
「─────────────────!!」
  声の主が何かを言い切った時、沙羅は微睡みに陥った。
(ありゃー? いきなり睡魔が………)
  そして沙羅の意識は闇の中へと垂直落下していった。



『──ック、お父さぁん、お母さぁん。こわい夢見たの。ヒック、こわいよぉ、お母さぁーん』
  真っ暗な廊下を、お気に入りのクマのぬいぐるみを抱き締めて、七歳の沙羅は父母の寝室の扉を叩いた。
『お母さぁーん、お父さぁー…』
『うるっさいなぁ、今何時や思てんのよ、あんたはぁ』
  忌々しげに声を荒げて真沙子が扉を開けた。
  沙羅はパッと顔を輝かせて真沙子を見上げたが、その不機嫌さに逆に怯えを強くしてしまった。
『何やのよっ。人夜中に起こしといてっ』
『あ、あの、こわい夢見て……』
『怖い夢見て寝られへんてゆーの?』
  つっけんどんな真沙子の言い様に沙羅は小さくこくりと頷いた。
『寝られへんのやったら電気付けて絵本でも読んどけばええやないのよ。あたしはねぇ疲れてんねんよ!?』
  言うなり真沙子は扉を閉めた。
  しばらくの間沙羅は扉の前に立ち尽くしていたが、再び涙をこぼしながら自室へと帰っていった。そしてその夜、沙羅はぬいぐるみを抱き締め、布団を引っ被り、声を殺して泣き明かしたのだった。
  …………
(なんで、こんなけったくそ悪い夢見なあかんねんな。もーちょいマシな夢やていくらでもあるやろが………)
  円く盛り上がった布団を前に、沙羅は腕を組んで幼い頃の自分を無表情に見下ろしていた。その頬には止めどなく涙が流れている。
(泣きなや。あんたが泣いてたらあたしまで泣けてくるやん)
  そう、これは別に沙羅が泣きたくて泣いている訳ではない。かつて経験した心の痛みが目の前の分身から具に流れ込んでくるのだ。つまりこの涙はこの手の痛みに対する条件反射だったのだ。
(泣いても無駄なんや。はよ諦め。そしたらそんな風に泣かんでも済むんや)
  だが幼い沙羅はその言葉を聞いて尚一層激しく泣き咽んだ。同じように沙羅の頬に幾筋もの涙が流れ落ちた。
(えっ?)
  見えない手が沙羅の頬に流れる涙を拭った。慌てて周りを見回すが、勿論誰もいない。
(あっ…)
  もう片方の涙も拭われた。
  驚く程優しげな手の動きに、優しくされた事のない沙羅の心は痛んだ。また涙が流れ出す。そして拭われる。
  不意に体が暖かくなった。まるで誰かに抱き締められているかのように。
(ものごっつ暖かい)
  未だかつて経験した事のない暖かさに、沙羅は生まれて初めて安らぎというものを覚えた。
  暖かな気分のまま周りを見回すと、景色は暗い子供部屋から光の世界へと一転していた。
  今までまるで無縁だった明るい世界に。
  見えない手が子供に対するように沙羅の背を撫でた。沙羅の心が喜びで満たされる。
(誰やの、あんたは………)
  目を閉じてその心地よさを満喫した沙羅はうっすらと目を開けた。
(……………おっとこ前やん)
  ぼやける目を凝らして見た者に対して、沙羅はそう評した。
  年の頃は二十五、六。完璧なまでに整った顔立ち。闇のような髪と瞳からすると東洋人らしかった。
  何故日本人では無いのかと言うと、服装が日本的ではなく、強いて言えば古代中国的な着物であると言う事と、目覚めた沙羅に気づいて、
「────?」
と言う意味不明の言葉を発したからだ。
(………その言葉、どっかで聞いたような……。どこやったかなぁ)
  沙羅の意識が過去を巡る。そして忘れ難い事実が思い出された。
「腸がっ、腹がっ、足がーって、── レ?」
  ガバリと飛び起きた沙羅は着せられていた着物の裾から見える、確かに存在する自分の足を発見した。
「アレッ!? アレッ!? アレェ──ッ!?」
  何の違和感もなく、実にスムーズに動く足に沙羅はすっかり混乱してしまった。
(夢見とったんか? それともキツネか何かに化かされとったんか?)
「────────────?」
「ん? どわっ!」
  ふと背後から発せられた言葉に振り返ってみると至近距離(鼻先三センチ!)に男の顔があった。
  振り向いて初めて沙羅は、自分が男の膝の上に横座りしている事に気が付き、慌てて立ち上がった。
  だが男は肩で息をしている沙羅を余所に、何かお経のような意味不明の言葉を低く呟きながら、掌で半透明な碧色の球を弄んでいた。
  意味不明の言葉と行動と、そして男の正体に沙羅が眉根を寄せていると、男の掌の球が唐突に割れた。
  奇妙な事に二つの半球は二つの真球へと変化した。
「ええっ!?」
  目を見開いて二つの球を見つめる沙羅に、男は片方の球を手渡した。
  沙羅は興味を以て球を受け取り、その硬さを確認した。球はどう考えても割れて丸まるような代物ではなかった。
「俺の名は晶。先ずは俺の前後を省みない行動で君を傷つけた事を深く謝罪する。申し訳ない」
「はあぁ?」
(いきなり何ゆーとんのや、こいつは)
  物凄く訳の分からない顔をしていたのだろう。男──晶は苦笑して事情を説明する。
「枝葉は末節させてもらうが、俺はある事情で祖国を離れて此界にやって来た──。んだが、界を越える際に起きた衝撃で君を傷付けてしまった」
「な、何を」
  晶の言葉に沙羅の脈拍が急激に速くなった。夢であったと判断した光景が蘇ったのだ。
「酷な話だが君は一度…死んだ。と言うよりも俺に殺された、の方が正しいのかも知れないな」
「ア、アホな事言いな! し、死んだもんが生き返るかいっ!」
  激昂して言葉を荒げる沙羅に、晶は哀れみの相で語る。
「それは尸解の術で黄泉返らせたから…」
「しかいっ? 蘇るっ? あんた、頭おかしいんとちゃうかっ!」
「……尸解の術とは文字通り死を解く術。死の理を解いて死者を生者にする為の仙術だ」
  怒気も露な沙羅の視線を真っ向から受け止めて晶は砂に『尸解』と書いた。
「そ……そんなん、信じられるかい…。あ、あたしが死んでるやて」
  沙羅の言葉にはもはや最初のような力はなかった。既に冷静な心の奥底では、最早あの放電現象から意識を失うまでの経過を事実として受け入れてしまっているからだ。
  そしてそれを察した晶は、
「君は死んでいる訳ではない。ちゃんと生きている。……本当にすまないと思ってる。言葉では言い尽くせない程に…。言ってくれないか? 俺に出来る事ならば…、死以外の事なら何でもさせてもらう」
真っ直ぐ沙羅を見上げて切に申し出た。
「………人殺しといて、自分死ぬのが怖いんか?」
  ゾッとするような低い声で沙羅は晶を見下ろして嘲った。
「………仙術は術者が死ねば効力を失う。つまり仙術で以て黄泉返った君は再び死者になってしまうんだ」
「! 術者て、あんた一体何者なんよ! 何でいきなり日本語喋ってるんよ!」
「……俺は此界とは全てを異にする世界で生まれ育った者だ。その世界で俺は仙人と呼ばれる存在になり、仙術を学んだ。言葉も仙術を使った。さっき渡した球があるだろう? ──そうそれだ、それが媒体となって言葉…いや、意志を伝えているんだ。けど……信じられるか?」
  怖ず怖ずとした晶の問い掛けに、しばらく考え込んだ沙羅は腹を括ったように、やけっぱちで頷いた。
「………おーっ! もー何でも信じたるがな。あんたが仙人やろーが、魔法使いやろーが、エイリアンやろーが何でもええ! なんしかあんたが死んだらあたしも死ぬんやろ!? ………精々あたしのために長生きしてや」
との沙羅の言葉に晶は沈黙で応えるしか出来なかったが、沙羅は言いたい事だけ言うと背を向けてしまったのでその表情まで伺い知る事は叶わなかった。
  沙羅は落ちていたバイクのキーを拾い上げるとそれを弄びながら、ず──っと気にしにしていた事を切り出す。
「あ、あのさ、ちょぉーっと聞くけどさぁ」
  切り出したはいいが話あぐねている沙羅に、晶は小首を傾げて続きを待った。
「もしやと思うけど、あんた、あたしに何もしてへんやろうな!?」
  沙羅が心配に思うのも無理はなかった。初めに沙羅が着ていた服は、腹と同じく、腰から下が消し飛んでいたのだ。沙羅自身は尸解の術で再生されていたが、如何せん、服の方まではそうも行かなかった。つまり晶が着せたであろう丈の長い着物の下はなぁ──んも無し、なのであった。そして意外にも身持ちが堅く、何よりも自分が可愛い沙羅としてはゆゆしき一大事なのであった。
「………………………………………………」
「………………………………………………」
  白々と沈黙が流れた。晶は言葉の意味が分からなかったのか、振り向いて自分を見つめる少女を見上げた。そして沙羅を頭の先から足の先まで眺めてポンと手を打った。
「大丈夫、君が心配しているような事は一切ない」
「絶対やな?」
「ああ、絶対だ。それに俺にも好みというものがあるんだぞ」
  安心させる為にか、晶は笑ってみせた。
「な……、なんちゅう失礼な奴ちゃ。花も恥じらう十七の乙女に向かって」
「乙女………? 誰がだ?」
「だ──っ! もうええっ」
  顔を真っ赤にさせて怒り出す沙羅に晶は久方ぶりに声を出して笑った。
(こんなに笑ったのは久しぶりだな、全く)
  耐え難い現実から逃げ出した自分と違い、受け入れ難い事実を受け入れ、気丈に立ち向かう沙羅に晶は羨望に近い好感を持っていた。だが、一時の事とは言え、心を晴らしてくれた少女に今改めて強い好感を持ってしまった。
「ホンマに失礼な奴ちゃなぁ。………もうええわ、なんしかあたしには何もしてへんねんやろ?」
「ああ」
「分かった。んじゃ、あたしは帰るわ。さっきもゆーた通り、死なんよーに気ぃつけてや。あたしゃ九十九までは生きるつもりなんやからな」
  言って沙羅は背を向けた。背後の晶がどの様な表情をしているのかも知らず、サクサクと歩いて石段を登り、止めてあったバイクにキーを差し込んだ。そしてバイクに乗り込もうとして、ふと晶と視線が合った。
「……………」
  しばらくじぃーっと見つめ合った後、沙羅はポリポリと頬を掻いて大きな溜め息を吐いた。するとキーを引き抜き、石段を降り、再度火を挟んで晶と向き合った。
「? どうした、何か言い足りない事でもあったのか?」
「あんたさ………、これからどうすんの?」
  晶の問いには答えず、沙羅は逆に問い返した。
  晶は何故そんな事を沙羅が聞くのかと不思議に思ったが、とりあえずしばらく考え込んでから、
「夜露さえしのげればどこへでも。後は霞でも喰って生きるさ」
と答えた。沙羅はその無計画さに(沙羅も無計画さでは他人に引けを取らないが)深々と溜め息を吐いた。
「とりあえずあんたはこの国の事、どれぐらい知ってるんや?」
「………俺の祖国とは言語が違う、ってところかな?」
「…………………」
  晶の言葉に再度深々と溜め息を吐いた沙羅は「しゃあないかぁ」と呟いた。
「うちおいでや」
「え?」
「だぁかぁらぁ、この国に慣れるまでうちに居候したらどうや、ってゆーてんねんや」
「………」
  晶はポカンと沙羅を見上げた。
「無理強いする気はないけどさ、あたしとしてはやな、出来ればあたしの目の届く範囲におってほしいんや」
「どうして…、どうしてそんな事を言ってくれるんだ?」
  呆然としている晶の問い掛けに、沙羅は口を尖らせて答える。
「あのな、この国っちゅーか、この街っちゅーか、なんしかここはむちゃくちゃ余所モンには住みにくーて、危ない所やの。そんな所にやで、言葉も通じんような奴放っぽり出してみぃ。一週間後には身元不明の死体になっとるわ。あたしはな、あんたに死なれたら困るの。だからやなぁ、せめてこの国に慣れるまで、あたしの目の届く範囲におって欲しいの。………ゆーとくけどな、あたしはあたしのための事しかせん奴やからな。間違ってもあんたのためにやったげてるやて思わんといてや!」
  後半部分はまるで早口言葉の如く一息で喋った沙羅は「どーやねんなっ!!」という風に晶を見据えた。
  一方晶はと言うと、
(何故この少女は自分の敵とも言える俺の世話を見ると言うんだろう?)
と不思議に思っていた。そして、
(きっとこの少女は大海よりも広く、水晶よりも澄んだ心の持ち主なのだろうな)
と物凄く誤った沙羅像を組み立て始めてしまった。そしてそして、
(あの自己本位な言葉も俺が気にしないようにと配慮してくれたんだな)
と物凄くお人好しな昊天王は沙羅の事を物凄く美化して評価してしまったのだ。
  ………彼は知らないだけなのだ。真実の沙羅が如何に凄まじい生命欲の持ち主かを。世話を焼くのも百パーセント(もしかしたら〇.一パーセントぐらいは晶の為かも知れない)自分の為だという事を。それを知るのは一体何時の事になるのやら。
  ともかく、沙羅の優しさに感動した晶は沙羅の申し出を喜んで受ける事にした。
「おっしゃ、んじゃ帰るからおいで」
  手招きして石段を登った沙羅はバイクに跨ろうとしてふと考え込んだ。
「………しゃあないなぁ。ちょっと向こう向いといて。こっち見たらあかんで」
  海の方を指差すと晶がそれに従ったのを確認してから沙羅は、着物をビリリと腿の辺りまで引き裂いた。そしてもう一方も引き裂く。無惨にも晶の着物は両サイドに深いスリットが入ってしまった。布が風に靡く度にスラリとした足が露になる。更に両袖を破いて、脚絆のように両足に、特に甲に厚く撒く。気休めかも知れないが、こんな物でも何もしないよりはマシだろう。
(こんな真冬に、こんなカッコで、しかも裸足でバイクに乗るやて………。家まで足、もつんやろか?)
  鳥肌をさすりながら沙羅は人目に付かない家までのコースを思い浮かべてバイクに跨った。それから見えないように、捲れないようにと細心の注意を払って布を捌く。
「よっしゃ、もーええで。乗りや」
  沙羅の呼びかけに振り返った晶は、剥き出しの沙羅の足を見て眉を顰めた。
「若い娘がそんな風に足を出すのはどうかと思うが………」
「………誰のせいやと思てんねんなっ。教育委員会のオッサンみたいなことゆーとらんで、さっさと乗りっ」
  片頬をひきつらせて沙羅が言うと、晶は溜め息を吐き、沙羅に倣ってバイクに跨った。
「そこに足掛けてそう。用意はええな? ほな、行くで」
「ちょっと待ってくれ。出発する前に君の名前を教えてくれないか?」
  言われてまだ自己紹介を済ませていなかった事に気づいた沙羅は、
「あたしは沙羅ってゆーんや。矢敷沙羅。『お前』以外やったら好きな風に呼んでくれてかまわんから。………えーと」
人差し指で空中に『沙羅』と書いて答えた。
「晶だ。宜しくお願いする。沙羅」
  同じく空中に『晶』と書いて改めて挨拶する。
「細かいルールは家に帰ってから決めるからな。んじゃ晶、しっかり掴まっときや」
  言うなりアクセルを蒸かして猛スピードでスタートした。
  振り落とされ掛けた晶は咄嗟に沙羅にしがみついた。
  容赦なく体温を奪っていく烈風の中、背中から伝わる晶の暖かさだけが沙羅に力を与えていた。
つづく