「神獣白沢」
皆が気を利かせて水楼を出て行く中、晶

はその最後の人物を呼び止めた。とてもとても低〜い声音で。そしてビクリとした白沢がそろりそろりと振り返る。
「先程のお話からすると………神獣白沢も沙羅の事を御存知だったのですね?」
じっとりと横目で晶

は困り顔の白沢を見た。
「うむ…まあ、のぅ。儂は公主が、沙羅が産まれた時に女

娘々から沙羅の教師になってくれ、と頼まれた故なぁ。………その様な目で見んでくれ。儂とて真君には直ぐにでも教えて差し上げたかったのじゃぞ? じゃが…皆々様から沙羅の事は内密にとの厳命が下っておったのじゃ」
だが晶

の目つきは変わらない。
「儂は嘘が下手なのじゃ! 昊天国に行けば必ず真君に気取られてしまう。故にこの千年、儂も心を痛めてきたのじゃぞ! ……じゃから先日は嬉しくてしょうがなかった。最早真君に隠し立てする必要はなかったからな」
「結局今日まで秘密にしていたではありませんか」
だが晶

の嫌味は止まない。
「うっ………。ああっもう! すまぬっ! この通りじゃっ!」
とうとう耐えきれなくなったのか白沢はガバッと頭を下げた。
「………晶

は存外意地悪な性分のようじゃなぁ」
呆れたように沙羅が独言ちた。
「コレくらいの仕返しは当然でしょうよ。そうですねぇ? 神獣白沢。なにせ私も同じく、千年も苦しんできたのですから。尤も種は全く違うますがね」
にぃっこりと微笑み、問い掛ける晶

に白沢は「あうううう」と小さなうなり声を返した。そして俯き、硬く拳を握り締める。
何も事情を知らない者から見れば、大の大人が幼児を虐めいたぶっているようにしか見えなかった。
「…………」
「何ですか? 神獣白沢。言いたい事があるのなら、もっと大きな声で仰有って戴きたいですね」
「さ、沙羅と二人では間が持たぬからと言って、儂をいたぶるのは止せっ。儂はもう付き合いきれんっ!」
と、叫んで白沢は水楼から飛び出していった。とどのつまりは逃げたのである。だが、その言葉は正鵠を射ていたので二人は、特に晶

はぐっと詰まってしまったのだった。
そして遂に二人っきりになってしまった沙羅と晶

だが、勿論いきなり事を成せる筈もなく、お互い緊張した面持ちであらぬ方を見遣っていた。どうも西王母が言った『閨』の一文字がぐるぐる巡っているらしい。
そして白々と沈黙が流れ、お互いがきっかけを探っていた時、ふと晶

は思い出したように声を発する。
「沙羅」
「なっ、何じゃ?」
明らかに動揺している沙羅は、いきなりの呼び掛けにビクッと体を震わせた。
その様子に晶

は苦笑すると緊張を解きほぐす柔らかい笑みを浮かべて問い掛ける。
「沙羅は何故あの桃園に居たんだ? 蒼天公主ともあろうお方なら、お会いしなきゃならない方々は沢山いらっしゃるだろう?」
「あ、あぁ、何じゃその事かえ。………実を言うと妾は彼処で隠れておったのじゃ」
安堵半分落胆半分。そんな複雑な気分の沙羅は、複雑な表情で晶

の問いに答えた。
「隠れ、て? 何故」
言葉の意外さに晶

は小首を傾げて、詳細を求めた。
「………だって、瑤池に着くやいきなり母様が『今日はそなたの良人となる方もいらっしゃるのよ。楽しみにしてなさい』と、仰有ったのじゃぞ。いきなりそのような事を言われて『あい分かりました』などと言えるものか。少なくとも妾は了承出来ん。たとえ母様の命であろうとも受諾出来ん。妾の伴侶は妾と出逢い、妾が愛した者でしか成り得ん。故に妾はあの広大なる桃園に隠れていたのじゃ」
ふん、と鼻を鳴らして沙羅は腕組みした。確固たる意志の光が明灰の双眸に煌めいている。
生まれ変わろうとも、全く以て変わらない沙羅の心持ちに、晶

は心からの笑みを浮かべた。
「そうか……。で、どうして木の上なんかに?」
「うっ、そ、それはじゃなぁ、桃園を歩き回っている内に腹が空いてしまってのう。………周囲を見遣れば蟠桃がたわわに実っておるが、下の方に成っておる実は今イチ青臭い。故にしょうがなく、しょうがなくじゃぞっ、上の枝に登って実を食していたのじゃ」
「じゃあ、あそこに落ちてた桃の種は………」
「妾が下に落とした種じゃな」
「それに俺が足を滑らせたって訳か…」
やっと納得したように晶

はうんうんと頷いた。
「実を言うとあの時妾は眠っておったのじゃ。そうしたらいきなり木がドォンと揺れて、後は晶

も知っての通りじゃ」
沙羅はその時を思い出して小さく嘆息した。そしてクスッと笑って、椅子に腰掛けている晶

に近寄った。
「沙羅?」
「凄いと思わぬか? 妾は未だ見ぬそなたから逃れようと桃園に隠れておったのに、そなたと出逢ってしもうた。しかもあのような劇的な出逢いじゃ。これを凄いと言わずして何を凄いと言うのじゃ」
両手を大きく広げて沙羅は興奮気味に思いを述べた。返す晶

も大きく頷いた。
「確かに。俺達は出逢うべくして桃園にいたのだな」
晶

は沙羅の手を取ると軽く引っ張った。沙羅は晶

の前に跪くと、そっと目を閉じる。身を屈めて晶

は唇を触れ合わせた。
グゥオオオオオオ──ッ!!
まるで二人の口付けが合図であったかのように、瑤池を、昆侖山を揺るがす咆哮が響き渡った。
「こ、この声は…號閃っ!?」
晶

は慌てふためいて立ち上がると露台に出て、空を見遣った。
「!」
「………何という美しさじゃ」
遅れて露台に出た沙羅が目を輝かせてその光景を褒め称えた。
九天の西は昆侖山、天庭瑤池の空高く、舞う六体の白き神獣。
その昊天国の誉れ、六獣が春の陽光にその身を輝かせて主を祝福していたのだ。
「あの白竜は………? 妾を見ておるのかえ?」
見れば沙羅の言う通り白竜が動きを止めてこちらを、水楼の方を見つめていた。
その時、この空よりも蒼い白竜の双眸が沙羅を射抜いた。たった一つの思いを込めて、真っ直ぐに沙羅を見つめた。
「………

暉が…

暉があたしを祝福してくれてる?」
「沙羅?」
「あんなに、あんなに、あたしの事嫌っとったのに?」
沙羅の語り口に驚いた晶

は沙羅の両肩を掴んで、涙に濡れたその顔を覗き込んだ。
「沙羅っ、まさか記憶が……!?」
「全部……思い出した。──ゴメンな、自分
勝手な事してしもて……。やっぱ……怒ってる?」
沙羅が不安げに見上げると、少しほっとした晶

は厳しく目を眇めて見せた。
「怒っていないとでも思ったか?」
「………思ってない…。んじゃ、やっぱりあの…指輪は………捨ててしもた?」
半泣きの顔で力無く尋ねた沙羅に晶

はふっと微笑むと再び唇を重ね合わせた。そして首から吊り下げている守り袋を道衣の襟元から引っぱり出した。口を開けて取り出した中身はあの日の指輪であった。
正直言うと晶

は一度この指輪を谷底に捨ててしまった。だが、どうにも放っておけず、結局一人であの谷底から探し出したのだ。
「えーと、何て言うんだったかな……。ああ、そうだ」
少し目を閉じて記憶の中を探っていた晶

はポンと手を打つと、左手に沙羅の左手を、右手に指輪を取った。
「病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、全てを沙羅と分かち合い、沙羅と共に生きて行く事を誓います」
「………あたしも誓います」
晶

は沙羅の薬指に指輪をはめ、深く深く口付けた。唇が離されると沙羅は晶

の胸の中に飛び込む。
「もう二度と離れたないっ」
「それは俺の科白だろ? もう二度と離さない。もう俺から離れて行く事は許さない」
晶

も強く沙羅を抱き締めた。
やがて沙羅は顔をあげると強請るように晶

を見つめる。
「なぁ晶

、みんな呼んでもええ?」
「ああ、勿論だ。アイツらにも顔を見せてやってくれ」
「おおきにっ!! 號閃ーっ、

暉ーっ、天

ーっ、伯英ーっ、樂峯ーっ、粋珠ーっ!! みんなーっ、降りといでぇーっ!!」
両手を大きく振る沙羅に向かって六獣は歓喜の咆哮をあげながら、人型を採って歓声を上げながら舞い降りる。
「沙羅ーっ」
「沙羅ちゃーんっ」
「沙羅さーん」
「みんなーっ、元気にしとったーっ!?」
露台から身を乗り出さんばかりの沙羅の肩に手を回して、晶

も手を振った。
六獣に伸ばされる沙羅の薬指には千年の時を感じさせない指輪が煌めいていた。
おわり