昊天記神仙列伝
第九段 蒼天公主
から炎帝に禅譲が執り行われて千年余りが過ぎた。
  晶は相変わらず六獣天王として世の賞賛と羨望を享けて政を為し、八天中の在位年数最長記録を日夜更新し続けていた。そして以前とまるで変わりなく日々を過ごしていた。
  だがそれは他人の目がある所だけだった。独りになると決まって愛しい者の面影を思い出して
いたのだ。
  億年にも思えるこの千年間。晶は気紛れのように時折夢の中に現れる沙羅との逢瀬を、唯それだけを生き甲斐にして生きてきたのだ。
  それは未来を見ていないと言う意味では死んでいるも同然だった。
  六獣は勿論、晶自身もそれに気付いてはいた。だが、どうしようもなかったのである。
  そうしてそんな退廃的な日々が延々と続く中、久方ぶりに白沢が昊天に訪れた。



「神獣白沢。お久しぶりですね」
「………そうじゃな、ほんに久しぶりじゃ」
  白沢はあの日以来人界との交わりを断っていたのだ。
「どうなさいましたか。お見受けしたところ御機嫌がよろしいようですが」
  ふと気付いたように晶が問い掛けると白沢は緩む己の頬を苦笑しながら頷いた。
「ふふふ、分かるか? そうじゃ、素晴らしく良い事があったのじゃ」
「ほう、それは一体…」
  重ねて問う晶の言葉を遮って白沢はさっそく本題に取りかかる。
「それは秘密じゃ。それよりも今日の儂は西王母様のお使いで参ったのじゃ」
  そして人の悪い笑みを浮かべたかと思うと、徐に居住まいを正す。
  少し唇を尖らせた晶ではあったが西王母の名に同じく居住まいを正す。
「巷は春爛漫。天もまた然り。今や瑤池の大蟠桃園は甘き桃の香に充ち満ちておる。して真君は瑤池で催される蟠桃会を御存知か?」
  との問い掛けに晶は形のよい顎に手を当てて記憶を掘り返すこと暫し。
「蟠桃会…、蟠桃………。あの三千年に一度だけ実を成すと言う、あの蟠桃ですか?」
「そうじゃ、そうじゃ。そして同じく三千年に一度だけ催される大宴、天界の数多の神族仙家が集まる蟠桃会に是非とも真君に出席して戴くように、との西王母様の思し召しなのじゃ」
  少し興奮気味の白沢は満面に笑みを浮かべて懐から西王母直筆の招待状を手渡した。
  恭しくそれを受け取った晶だが、その顔は怪訝そうだった。
「何故にそのような晴れやかな催しに私如きが?」
「人史以来、三人目の六獣天王であり、昇神仙極泉真君ともあろう者が何を申しておるやら。真君が行かずして、一体他の誰が行けようか」
  大仰に言って聞かせる白沢に晶は小さく困ったように微笑んだ。
「実を申しますと、このところあまり人の集まる場所は気後れするので控えていたのですが………。西王母様が是非と仰有るのなら喜んで出席させて戴きます」
「ほっほっほっ。行かぬと言うても、一服盛ってでも連れ行くつもりじゃったのじゃが…。手間が省けたわ」
「………何故にそこまでなさるのです? 蟠桃会の他に何か……?」
「それも秘密じゃ。では今宵はこれにて。蟠桃会に瑤池でお会いしよう」
  晶の問い掛けに先程と同じく人の悪い笑みを浮かべて白沢ははぐらかすと席を立った。
「おや、神獣白沢。お泊まりにならないのですか? もう房室も用意してございますのに。それに珍しい霊酒が手に入りましたので、ご一緒に如何かと思っていたのですが………」
「酔うたところで秘密の話はせんぞぃ?」
  残念そうに口を尖らす晶に白沢はニヤリと笑うと方壷に帰って行った。
  こうして白沢は嵐のように現れて、嵐のように去って行った。
  そんな白沢を心底残念そうに見送った晶だが、真実、白沢の逗留を望んでいた訳ではなかった。
  白沢と語れば話題は必ず沙羅の事になる。そう話し込むことによって、沙羅が過去の事象に成り果ててしまう事が晶には耐えられなかったのだ。それを敏感に察した六獣もこの千年間沙羅の事は一度たりとも話した事がなかったのだ。
(蟠桃会か………。あの方々には極力お会いしたくなかったのだがなぁ……)
  特に蒼帝。あの二人には、はっきり言って、全く会いたくなかった。だがそれも承諾してしまった今となっては詮無いことであろう。
(西王母様には失礼だが、挨拶が済んだら桃園にでも隠れていよう)
  我ながらの消極的な考え方に晶は自嘲を禁じ得なかった。そしてこのところ全く夢の中に現れてくれない恋人の事を思いやる。
(沙羅……、今何処で何をしている? 夢でしかお前に逢えないのに、夢にも現れてくれないなんて………。沙羅………、逢いたいよ。今すぐ。逢ってこの胸にお前を抱き締めたい………)
  治まらぬ胸の疼きを抱えたまま、忘れ得ぬ恋人の面影を心に焼き付けたまま永遠を生きるとしても、この思いを捨て去る事など出来ない、と改めて思い知らされた晶であった。



「すっげぇ──っ! 壮観だな、こりゃあ」
  常は男子禁制の聖地である瑤池に初めて足を踏み入れた號閃は目をキラキラさせていた。一方晶はと言うと、
「止めろ號閃。恥ずかしいから涎を流すな」
眉根を顰めて恥ずかしそうに小声で窘めた。
「な、流してねーよっ、そんなもんっ! 人聞きの悪い事言うんじゃない!!」
  思わずはっとして口元を拭う號閃に、晶は小さく息を吐くと、
「どうだか………」
言ってあらぬ方を見た。
「断じて違うっ」
  と拳を振る號閃を無視して晶は前後左右を見遣る。
「ところで天は何処に行った?」
「へ? 天なら後ろに──っていねーな。そう言やぁ樂峯も」
「樂峯は瑤池に務めているという妹君の所に行くと言っていたが、天は………」
「ま、当分の間帰って来ねーだろーな」
「だろうな………。ああ、あちらの方に西王母様がいらっしゃる。ご挨拶申し上げよう」
  人混みの中に西王母を見付けた晶は足を向ける。一方、西王母も晶の姿を認めると破顔して迎えた。
「よくぞおいで下さった、極泉真君」
「本日は尊き方々のお集まりにお招き戴き、真にありがとうございます」
「ほほほほ、今日は三千年に一度の蟠桃会。心行くまでごゆるりとお楽しみ下さいな」
「はい」
  艶やかな笑みにつられてにこやかに答えた晶ではあったが、西王母はその表情に浮かんだ僅かな翳りを見逃さなかった。
「………真君は未だ沙羅殿の事を………」
「西王母様……!」
  いきなりの禁句にぎょっとした號閃は小声で西王母を制した。
「いい、號閃。その通りでございます。私は未だにこの思いを断ち切れずにいるのです」
  未練がましい自分を笑って下さい。そんな風に晶は自嘲して肯定した。だがその双眸には狂おしいまでの恋情が燃え上がっていた。
  その強い思いに西王母は微笑み、ほぅっと息を吐くと脇に居た童女に小さく耳打ちした。童女は大きく頷くと彼方の方へと駆けて行った。
「?」
「真君はもう白沢からお聞き遊ばして?」
「は? 何を…でございましょうか」
  首を傾げる晶に西王母は「あらあら」と面白げに目を細めた。
「その御様子じゃ、白沢は内緒事にしているようですね」
「………何の事かは存じませんが、それは先日、神獣白沢が仰有っていた『素晴らしく良い事』の事なのでしょうか?」
  晶の問い掛けに西王母も白沢と同じく黙して、にぃっこりと微笑むだけであった。だがこの様子からして内緒事が、白沢の言った『素晴らしく良い事』であるのは間違いないだろう。
「ほほほ、今日はどうしても真君にお逢い戴きたい方が来ておりますの」
「どうしても? どなた様ですか? そのお方は」
「ほほほ、その者の正体は一目瞭然ですわ」
  そう言うと西王母は、どんなに晶や號閃が尋ねても、鉄壁の笑顔で黙したままだった。
  そしてそうこうしている内に先の童女が小走りで帰ってきた。が、その顔は困ったような、焦ったような複雑な表情をしている。
「どうしたのです? 祥翅。彼の方は見つかったのですか?」
「王母様、それがどちらにもいらっしゃいません」
  首を振る祥翅の眉が八の字になっていた。西王母はすぅっと表情を曇らすと、晶達をはばかってか、祥翅の口元に耳を寄せた。祥翅が何かを語る度にその相は硬くなってゆく。そして聞き終えた後、西王母は深々と溜め息を吐くと、何事かと怪訝そうにしている二人に向き直った。
「呼び立てておいて真に申し訳ないのですが、真君。こちらの不手際で、どうしても逢って戴きたい方がつかまりませんの。ですからその者が見つかるまで少々お待ち下さいな」
「はぁ………」
  と、応えた晶ではあったが待てど暮らせどその者は見つからない。そしてその間に噂好きな神人神女が枚挙して禁句を口にする。
  結局晶は禁句に耐えきれず、その場を號閃に任せて予定通り桃園に隠れている事にした。



(あ──、甘い………。なんて甘い空気なんだここは…。ふらふらする)
  あまりにも甘すぎる桃の香に酔っ払ってしまった晶は、驚くほど人気のない蟠桃園を夢現の状態で散策していた。
  実を言うと晶は瑤池に着いた時点で立ちこめていた桃の香に悪酔いしていたのだ。が、その発生地帯である桃園は濃度も密度も桁違いで、悪酔いを通り越してナチュラルハイになってしまった。
(ふん……。好き勝手人の心中に押し掛けて……。うっとうしい事この上ない。でも……、何故かこの薫りに包まれていると、どうでもいい様に思えてきた………)
  と、ぼんやりぼやぼやと散歩を続けていたその時。
「わっ!!」
  何か丸い物に足を滑らせて、晶は一際大きな蟠桃の幹に強か背を打ち付けた。衝撃を吸収して蟠桃が大きく揺れると───。
「お? おおおおおおっ!? 何じゃ!? 何事じゃ!?」
「ゲホッ、ゲホッ…!」
「こ、こらっ貴様っ。何を呑気に咳き込んでおるのじゃっ! 早う妾を助けぬかっ!!」
  一瞬だが息が止まってしまった晶は激しく咽せ返り、咳き込んだ。そんな晶に何処からか偉そうな女の声が投げ掛けられた。
「ゲホ……。え?」
  一頻り咳き込み終えた晶は滲んだ涙を拭いながら辺りを見回した。が、誰一人として視界に収まらない。ふと足元もとを見ると桃の種が四つ五つ転がっていた。どうやらコレに足を取られたらしい。
(誰の食い残しだ? 後片付けも出来ないのか?)
  憮然とした表情で再び辺りを見回した。
「───虚け者めがっ、何処を見ておるかっ! 上じゃ上っ! 妾は貴様の上におるのじゃっ!!」
「!?」
  晶はその声に二度驚いた。
  先ずはその声音。今も耳に残る恋人の声に驚くほど似通っていたのだ。そしてもう一つは………。
「………何を…しておいでか…?」
  としか晶には言えなかった。
  そう晶が見上げた所、かなり上方に黒髪の神女(あまりにも尊大な言葉遣いだから仙女ではないだろう)が大枝にしがみついてぶら下がっていたのだ。その情けない姿は晶が彼界で見知ったナマケモノそのものであった。
  当のナマケモノ神女は首を捻って晶の方を睨んでいるようなのだが、如何せん、結い上げても尚長い黒髪が簾に、迫り出した小枝が遮蔽物になっていてその顔は全く分からなかった。
「な、な、なにをしておいでか、じゃとぉ? 貴様の目は節穴かっ! おろ、おおっ!?」
「ウワッ!!」
  晶の間の抜けた問い掛けに憤慨したナマケモノ神女は、己の不格好さを棚に上げて怒鳴りつけた。──のが悪かったのか、ナマケモノ神女は手を滑らせて背中から落ちた。
「おおおお………お?」
  かなりの衝撃を覚悟して硬く目を閉じたナマケモノ(もうナマケモノではないな)神女はパチクリと目を開けた。
「ほへ? 痛くない………。それにあの男は何処に消えたのじゃ?」
  神女はふるふると頭を振って辺りを見回した。そんな神女に、晶は苦しげに言葉を発する。
「あ…あなた様の下に、おりますよ」
「ほへ?」
  見遣れば俯せになった晶は文字通り神女の尻に敷かれていた。
「おおっ、よくぞ妾を助けてくれたな男。誉めてつかわすぞえ」
「と…とても光栄です…。あの、どちらの神女様かは存じ上げませぬが、そろそろお退き下さいませぬか?」
  言われて気付いた神女はポンと手を打つと、軽やかに腰を上げて晶の手を取る。
「おお、すまぬな。すっかり失念しておったわ。ほれ、立ちゃれ」
「ああ、ありが…! っっっっ」
  起き上がり掛けた晶は胸に走った激痛の為に再び突っ伏した。
「なんじゃ? ………胸の骨を痛めてしもうたのか…? ………あいすまぬ。妾の所為じゃな」
  先程までの元気の良さは何処へやら。神女は怪我の原因が己であると分かるとしゅーんと縮こまってしまった。
  顔を上げる事も叶わない晶ではあったが、やはり沙羅によく似た(顔は分からないが)存在には甘いようで、苦笑して応える。
「お気に…なさいますな。それよりも人を呼んで……」
「人を呼ぶよりも妾が癒した方が早かろうて。しばしの我慢じゃ。気を楽にしておれ」
  言って神女は晶の背に両の手を翳して、気を込めた。優しく暖かな波動と共に、癒しの力が流れ込む。
「癒しの力…? あなた様は触媒も使わず意志の力だけで癒しを!?」
「そうじゃ、何故か妾は幼き頃より癒しの力を有しておった。言葉を発するよりも早くに為した程じゃ」
  幾許もなく呼吸は楽になり、晶は身を起こした。
「ありがとうござ………」
  言葉は中途半端な所で切れた。晶は瞳を真円にさせて目の前の神女を凝視した。
「何じゃ? そのように目を見開くと目玉がこぼれてしまうぞえ? それとも………妾の顔に何ぞついておるのかえ?」
  神女は乱れた髪や衣服を直し、ペタペタと顔を触ってみた。
「何もついておらぬではないか」
「………ら 」 
「ほへ? 何と申した? 妾の耳は乳母やほど遠くもないが、聡耳でもない故、もう少ぅし大きな声で話して貰わねば聞こえぬぞぃ」
  神女は首を傾げてそう言ったが、晶の耳には入っていないようだ。神女を見つめたまま、震える口で愛しい者の名を紡ぐ。
「沙…羅…?」
「ほへ? 何じゃ、そなた妾を知っておるのかえ? 如何にも妾は蒼天公主の沙羅じゃ。………じゃが、何処ぞで逢うた事があったかえ?」
「こんな、こんな事が………。本当に、本当に沙羅なのか?」
  現実を信じ切れない晶は頭を振り続けた。
  目の前の神女は年の頃は十八、九と、千年前に死んでしまった沙羅よりもやや年長者なのだが、その双眸は光の加減によって銀に輝く明灰色だった。
  そして神女……沙羅は不快を露にして眉を顰めた。
「嘘も真もあるものか。この世に妾以外の沙羅はおらぬ。母様がそう言っていらしたのじゃからな。無礼な事を申すで…」
「沙羅っ!!」
「ほへ?」
  気付いた時にはもう沙羅は晶の胸の中に閉じこめられていた。
「………… !? 何をするかっ、無礼者っ!! 離せっ、離さぬかっ!!」
  見知らぬ男からの不埒の振る舞いにカッとした沙羅は必死で抵抗し、その軛から逃れようとした。だが、
「沙羅、沙羅……沙羅」
が譫言のように沙羅の名を呼ぶ度に熱い吐息が耳に掛かってしまい、ゾクゾクと背筋が痺れてしまった。やがて自ら立っている事すら出来ず、ぐったりと晶の為すがままになっていた。
「あっ………」
  晶は沙羅の背中を支えて上を向かせると強引に唇を重ね合わせた。沙羅も力のこもらぬ両腕を晶の首に回してしがみついて口付けに応える。
長い長い時が過ぎて、漸く唇を離した二人は戸惑いの相でお互いを見つめた。すると沙羅は目を閉じて晶の胸にそっともたれ掛かった。
「そなたは誰なのじゃ? そなたと逢うのは今が初めてとゆうのに、何故に妾はそなたとの口付けをこうも懐かしく、喜ばしく思えるのじゃ? 教えてたもれ。そなたは誰なのじゃ?」
「私の……、俺の名はロ。字は晶。仙号は極泉真君」
  沙羅は身を起こすと真っ向から晶を見つめた。まるで心の底まで覗き見るかのように。
「しょうえい………晶。知っている。妾は確かにこの名を知っておる。でも、でも………分からぬっ。思い出せぬっ」
「沙羅、落ち着けっ! 落ち着くんだっ!!」
  心の底に広がる空虚の存在に沙羅は頭を振り乱した。そんな沙羅を晶は落ち着かせようと強く抱き締める。
「………そうじゃ。母様じゃ、母様ならこの空虚が何か御存知かも知れぬ」
  ふと己にとって絶対の存在を思い出した沙羅は熱に浮かされたように走り出した。
「沙羅っ!?」
  晶も追って同じく走り出し、やがて桃園を周り抜け、周りを見ずに人混みを駆け抜ける沙羅の後始末をしていた。
「母様! 母様はどちらにいらっしゃるのっ!? 母様!! ひゃっ!」
「! 公主様!! お捜し致しましたぞ。今までどちらにおいででしたかっ」
  余所見をしながら走っていた沙羅は一人の仙女と正面衝突してしまった。だが、その仙女は、沙羅の事を探していたらしく、ぶつかった相手が捜し人と知ると、ほっとしたように顔を綻ばせた。
「桃園じゃ。妾は急いでおるのじゃ。すまぬが詫びは後で……」
  言って沙羅は仙女の脇を擦り抜けようとした。が、仙女は慌てたように行き先を塞ぐ。
「成りませんっ。先程から西王母様が公主様をお呼びしていらしたのですよっ!? まずは西王母様の下に………」
「今は西王母様よりも母様じゃっ。母様はどちらにいらっしゃるのじゃ!?」
「ここにおりますよ、沙羅」
  剣幕の相で仙女に詰め寄る晶の背後で優しい声が掛けられ二人は振り返った。果たしてそこにいた者とは───。
「母様!!」
「女娘々っ!? え? 母様っ!?」
  そうそこにいたのは蒼帝伏羲の配偶神・女娘々その人であった。
  そして驚きを隠せない晶を余所に沙羅は女にしがみついた。
「母様、母様、変なの。初めて晶に逢った筈なのに何故だか懐かしいのっ。初めて触れた唇なのにとても嬉しいのっ!」
  赤裸々に叫ぶ沙羅に周りの神族仙家が距離をおいて見物を始める。
「………大丈夫、大丈夫ですよ沙羅。今から全てを話してあげますからね。………大丈夫、落ち着きなさい」
  感極まって泣き出した沙羅を女は心から愛おしそうに抱き締めてそう囁いた。そして呆然と立ち尽くす晶に目を向けると不意に破顔した。
「お久しぶりですね、極泉真君。──やはりあなた達は切ろうとも切れない、強い絆で結ばれているのですね。妾達が引き合わせる前に出逢ってしまうなんて」
「あ…あの、これは……一体。何故あなた様が沙羅の……」
「……………あちらの方に西王母様方がいらっしゃいます。参りましょう。全てはそれからです」
  言うと女は沙羅の肩を抱いて歩きだした。
  沙羅は訳が分からないと言う相で並んで歩く晶を見つめたが、晶とて真実を知っている筈もなく首を振る事しか出来なかった。
  そして歩くこと暫し。三人は西王母の下に辿り着いた。そこに居並ぶ至高の存在、女を覗く五方天帝と西王母、並びに夫君東王父、そして神獣白沢は沙羅とその後ろに佇む晶の姿に心底驚いていた。
「母様………」
「…………ここは他人の目が多すぎますね。場所を変えましょう」
  沙羅の囁きに我に返った西王母は先に立って歩き出した。行き先は宴の場から少し外れた水楼であった。
「おめでとうございます、女娘々。夢にまで見たこの日が漸く参りましたのね。妾も自分の事のように嬉しく思います」
「ありがとうございます、西王母様。妾もどんなにこの日を待ち侘びたことか………」
  円卓に着いた沙羅と晶を除く一堂は一様に微笑んで頷いた。
「あ、あの…母様?」
  話の見えない沙羅がおずおずと口を挟むと女はにっこりと微笑んだ。
「沙羅……、並びに昊天王・極泉真君。今こそ全てを明かしましょう。………沙羅、あなたは秀妃の事をどれだけ知っていて?」
「え? 秀妃二姐の事?………お噂ぐらいでしか……。あまり良いお噂はお聞きしないけれど……。でも噂は噂でしょう?」
  おずおずとした調子ながらも沙羅は悪名高い二姐を思い浮かべ、素直に答える。
「そうね……。でもあなたが耳にした噂の殆どは真実でしょうね」
「母様っ」
  この千年の間に、女は己の娘の所行をかなり客観的に受け止めるようになっていた。
「黄溟公主の所行は目に余る物があった」
「女娘々が母である事、そして上帝である事を逆手にとって、神族仙家のみならず、多くの人間を不幸に貶めた」
  突然に次いで少昊が不機嫌そうに言を紡ぐ。白沢も「その通り」と言う風に重々しく頷いた。
「妾達、仙籍に名を連ねる者全てが鈞天と蒼天に一線を画す程に、公主に……そして公主を養護する太皓伏羲、女娘々に対して不満は高まっていきました」
  過ぎた事だ、と西王母は笑ったが、生まれた頃から何暮れと無く懇意にしてくれた西王母達が、かつて父母の対峙者であったと言う事実に沙羅は驚きを隠せないで居た。
「妾…全然知らなかった……」
「ちゃんとお勉強しなくては駄目ですよ。聞けば白沢の目を盗んで下界に降りたりしているそうね」
「うっ………」
  窘められた沙羅は居心地悪そうにそっぽを向いた。そして少しばかり呆れ顔の晶と目が合うと今度は赤くなって俯いた
「まあ今は良いでしょう。それに秀妃の事やあの頃の事は周りが気を使って隠匿していましたし…」
が愛娘の為に助け船を出して余話を切ると、炎帝は断りを入れてから途切れた話を再開する。
「黄溟公主は最後の…結果的にはだが、獲物に昊天国に狙いを定めたのだよ。公主」
「昊天国? あの歴代三人目の六獣天王が治めてる天国?」
「そう、そちらの極泉真君が天王を務めている昊天国よ」
「! 晶があの六獣天王!? 昇神仙にまで昇っておいてあっさり堕位しちゃったあの!? ……だから聞いた覚えがあったのかしら」
  どうも沙羅の知識にはばらつきが多いようだ。西王母の言う通りもう少し勉強が必要だろう。とにかく今日の沙羅は驚きの連続であった。
  一方、素直に尊敬の相で見つめられた晶は少しばかり照れたようにはにかんだ。
「沙羅よ、昊天国とはどのような天国なのじゃ?」
「え!? え……と。それはそれは豊かな天国で、八天一の人口密度を誇っている。それに六獣が居るから天変地異が全くと言って良いほど無い。初代にして当代の天王は今現在九天一の在位年数。それから……」
  いきなり白沢に質問されて焦った沙羅は九天記・昊天国の下りを大雑把に暗唱した。
「その辺りで充分。秀妃が言うに、昊天国は豊かであるが故に、民の内に許し難い驕りがあったの。そしてその思い上がりを正す為に昊天国を滅ぼそうとした」
「黄溟公主は三年の猶予を以て昊天国を滅ぼすと真君に告げた。だが告げられた真君は自天国の命運と真君自身の命運を取り替える事にしたのだ」
「!」
  炎帝の静かな言葉に沙羅は目を見開いて晶を見た。晶はその視線を軽く受け止め小さく頷いた。
「真君はその後色々あって異界に渡った。その時一人の異界人を死に至らしめたとして尸解の術を施した。だがその異界人は死んではおらず、尸解の理に従って不死人となった。不死人は真君と共に界を越えた。………秀妃を倒す為に」
「二祖を!?」
「不死人は当時上帝であった女娘々に謁見する為に黄泉を渡った。その頃の天界は先に言った陣営によって完全に二分していた。我が革命を思い立つ程にな。だが見ての通り革命には至らなかった。黄溟公主が薨ったからだ」
  薄く笑む少昊に次いでが、炎帝が順に語り出す。
「黄溟公主の死によって、真君に掛けられた呪いは解けたものと思われた。だが、公主は死の直前新たなる呪いを真君に施した。その呪いはあまりにも強固で強力で、我ら天帝の知恵と通力を以てしても解けぬ物であった」
「不死人は我らに問うた。その呪いを解く術を。出来ぬのなら真君を黄泉返らせる術を」
「我は一つだけ術があると答えた。それは生者の命を死者に吹き込むと言う外法であった。だが不死人はそれを快諾した。愛する者の為に不死人は己の命を喜んで差し出したのだ」
「愛する………者? 父様、それって晶の、事ですか? 不死人は晶を愛していたのですか?」
  頷く伏羲に沙羅は困惑の色を濃くした。
「なら晶はどうだったの? 晶は不死人を愛していたの? なら、なら……妾は一体何なの?」
「沙羅は…、沙羅の前世が不死人なのです」
「ええっ!? では、では妾は二祖を死に追いやった異界人!? 妾は、妾は父様と母様の娘ではないの!?」
  女の言葉に沙羅は真っ青になって立ち上がった。姐殺しの事実に己の存在の拠り所を無くしてガクガクと震え出す愛娘を、女は走り寄って抱き締める。
「いいえ! そなたは妾の、妾と大兄の子ですよっ! 間違いないわっ! それに秀妃の死はどうしようもなかったの。遅かれ早かれ妾が譲位すれば少昊様から死を命じられていたのよっ。そなたの所為ではないわっ!!」
  力強い言葉ではあったが沙羅は眉を気弱な八の字にさせたままだ。
「では何故お教え下さらなかったのっ!? どうして今まで隠していらしたのっ!?」
  沙羅は激昂して言い詰める。女と伏羲は眼に強い愛情を乗せ、絞り出すように言の葉を紡ぐ。
「それは…そなたを失いたくなかったから………」
「え?」
「そなたは幼き頃から聡く愛らしく、妃や秀妃とは違う、皆を引きつける強い光輝を発し、長ずるにつけ輝くばかりに麗しくなった。………我らはそなたを深く愛しく想い過ぎたのだ……。真実を告げれば、そなたは前世の記憶を取り戻して真君の下に行ってしまうやもしれん。我らにはそれが耐えられなかったのだ」
「………ごめんなさいね、沙羅。そなたの、そして真君の心中思いやれば、直ぐにでも話して聞かせねばならなかったのに……」
  伏羲は千年の過去に思いを馳せながら愛娘を見つめ、女は涙をこぼして深く謝罪した。対して沙羅も涙を振り払うかのように、ブンブンと頭を振った。
「いいえ、いいえ! ごめんなさい母様、父様! 妾こそ、母様達のお心も知らず、自分勝手を言ってごめんなさい!」
  そしてしばらくその雰囲気に包まれてから漸く女が続きを話し出す。
「妾は不死人が自害してからずっと思い悩んでいました。不死人は真に幸福であったのか? 残された真君は最愛の者を失って生き行く事が出来るのか? それらの悲劇を引き起こしたのは他でもない我が娘ではないか、と。そして陰鬱に日々が過ぎる中、土神・犀渠が妾に指示を求めてきました。何事かと尋ねると犀渠は鬼籍に名を連ねぬ魂が冥府に訪れたと言いました。………驚くべき事に不死人の魂は自害した後、自ら冥府に向かっていたのです」
「此界の生き物は皆、人であれ、神であれ、妖であれ鬼籍に載っている。が、不死人は異界人。当然、不死人の名は鬼籍に載っていなかった。女は上意を仰ぐ犀渠から不死人の魂を預かった」
「………妾は死しても尚強く輝き続ける魂を捧げて誓いました。この魂を持つ者を産もう、と。そして妾は不死人の魂を抱いて大兄にお願いしました。どうかこの者を産ませて下さい、と」
「我も女と同じ事を思い悩んでいた故、全く問題はなかった。そして三年の後、そなたが産まれ出たのだ」
「父様……、母様……」
  その時の事を思い出してか、女は母親の表情を尚一層強くし、伏羲は嬉しげに目を細めた。
「あの……、皆様」
  それまで沈黙を守っていた晶が声を発した。その声音はどことなく不機嫌であった。
「今までのお話から致しますと、沙羅…いえ、公主様は千年も前にお生まれになっていらしたのですね?勿論、不肖とても公主様の御生誕は存じておりました。ですが………」
「………何故今の今まで沙羅の存在を伏せていたのか、と想ってらっしゃるの?」
  西王母の問い掛けに晶ははっきりと頷いた。
  もしこの事を知っていたのなら、あのような退廃的な千年間に一体何の意味があったのだろうか? 一日千秋の思いで日々を過ごしてきた晶にとって千年は長すぎたのだ。晶は誰の目にも明らかに憤慨していた。
「その理由も先に申した通りだ」
「………公主様があまりにも愛しくていらたからで?」
「そうだ」
「不肖が公主様のご正体を知れば、奪い去りに来るやも知れぬからで?」
「そうです。そして妾達は真君を試させて戴いたのです」
「試す?」
「そう。たかだか千年の間に真君の思いが途絶えてしまえばそれまでの事。我らとて愛しい我が子をおいそれと手放したくはなかった故な」
  憮然とした相の伏羲に、晶は頬を綻ばせた。全ては愛娘を二人も亡くし、最後の愛娘を……沙羅の幸せを想う親心故だったのだ。自分の大切な者をこれ程までに愛しく想われて嬉しくない筈があろうか。晶の胸は感謝の気持ちでいっぱいだった。
「ありがとうございます。大皓伏羲、女娘々。………で、皆様方の不肖の評価は如何でしたでしょうか?」
「………満点を付けぬ訳にはいくまい。我らが引き合わせるまでもなく、そなたらは巡り逢い、そして愛し合ったのだから………」
  致し方ない、そんな風に苦々しく伏羲は頷き、大仰に息を吐いた。
「父様……母様……」
「………幸せにおなりなさい。そなたは真君と結ばれる為に産まれてきたのですから」
「母様……!」
  目尻に涙を滲ませる女に、沙羅はぎゅっとしがみついた。
「母様、母様、母様……!」
「あらあら困った子ね。急に童子のように甘えたりして」
  だが女も幼子に接するようにその頭を撫でた。するとが腕組みをしながら戯けて問い掛ける。
「抱きつく相手が違うておるのでは?」
「せ、様!?」
「そうじゃそうじゃ、千年ぶりの逢瀬じゃ。照れることもあるまいて」
  続いて少昊がはやし立て、炎帝が席を立つ。
「では今まで隠匿しておった詫びに、ここは二人だけにしてさしあげよう」
「おほほほほ。真君ご安心なさって、この水楼には閨もございましてよ」
  西王母の『閨』と言う言葉に二人は顔を真っ赤にし、伏羲は苦虫を噛んだように顔を顰める。
「大兄、参りましょう。沙羅を慈しみ、育むと言う妾達の役目は終わったのですわ。今からは真君が妾達の代わりに沙羅を守って下さいますのよ。………さあさ、笑んでくださいませ。沙羅が気にしますわ」
  微笑む女に言われて渋面の伏羲はぐっと詰まった。意志の力で以て渋面を毅然とした相に変え、伏羲は晶を見遣る。
「昊天王極泉真君。其の方に我が娘は過ぎた者だ」
「大兄っ!!」
  このめでたい席に何を、と女が厳しい声で制した。だが、言われた当人は、
「その通りです」
と至極当然のように肯定した。
「だが………、其の方に出逢ってしまった以上、其の方でなくば沙羅は喜ばぬ。其の方でなくば沙羅を幸福に出来ぬのだ。──我が娘を宜しくお願いする」
  言って小さく頭を下げて、次に愛娘を見た。
「沙羅よ、妃と秀妃の分まで幸せになるのだぞ」
「父様……!」
「泣くでない。何も今生の別れなどではないのだからな。真君に愛想を尽かしたならば、何時でも蒼天に、泰山に帰って参れ」
  伏羲は優しく沙羅の涙を拭って遣ると、晶が眉を顰めるような事を言って外に出た。そして後を追って来た女に、
「千年と言わず、万年にしてやればよかったわ」
と愚痴をこぼしたが水楼の二人には聞こえる筈もなかった。
つづく