それは神無月の晦の、戌の刻になるかならないかの時の事だった。
俺、賀茂時守は師匠の陰陽頭様から頼まれた書類に目を通し、返しの書類を書いていた訳だが、朝から書き詰め座り詰め。てな訳でいい加減疲れて休んでいると同僚が顔を出した。同僚って言っても、親子程年は違うんだけどな…。
「まだやっていらしたのか」
文机に山積みされた書類を見て、俺と同じく陰陽師であり、陰陽頭様の無二の親友でもある橘実近殿が感嘆に近い声音でそう言った。
「今日の仕事は今日中にやってしまいませんとね…。父…じゃなくて、お師様の事ですから、明日もまた膨大な量の仕事を寄越しなさるでしょう?」
俺が苦笑して答えると、橘殿は「その通り」という渋い顔で頷いた。
「どうも兼守様は内向きの仕事が嫌で嫌で仕方がなくていらっしゃる。お互い陰陽生でありました頃も、書類の方はよく儂の方に回ってきましたからのう」
橘殿の言葉に、俺が陰陽頭であり、師匠でもある父を情けなく思ったとしても、全然不思議はないだろう…。
「お師様の精神は童の頃から成長してらっしゃらないようですね…」
我が父のいい加減さに顔を赤らめていた俺に、橘殿は年長者らしく快活に笑って応えてくれた。
「はっはっはっ、そこがあの方の魅力でございましょう。鬼人をも魅了なさる兼守様故の。……与えられた仕事を他人に任せたりなどしない、そんな真面目な所を除かせて戴ければ、時守殿はやはりよく似ておいでじゃ」
「そんな…。私などまだあの方の足元にも及びません」
俺が謙遜を見せると橘殿は尚一層快活に笑った。
「さすがは親子ですな。お若い頃の兼守様と同じ事を言いなさる」
「ははは…、そうですか?」
「そうですな」
俺が複雑な思いを秘めた笑いを返すと橘殿は簀子に降り立った。
「さて、そろそろ帰るとしますかな。時守殿も早く仕上げてお帰りなされ」
「ありがとうございます。道中お気を付けてお帰り下さい。このところ夜盗などと物騒な輩が頻繁に出没しているそうなので」
俺の言葉に橘殿は手を振って応えてから帰っていった。その後ろ姿を見送って俺は仕事を再開した訳だが、結局仕上がったのは橘殿が帰ってから更に半刻程後の事だった。
『仕事を仕上げた!』と言う充実感があるにはあった。だが、『明日もこうなのかよ…』と思うと尋常でない疲れが湧き出して来てしまい、俺は深々と溜め息を吐いた。そして溜め息交じりに簀子に向かって声を発する。
「おーい、松風ー」
「こちらに」
未だ十にも満たないような童子が簀子に現れ出でた。
「邸に帰るから」
「承知致しました」
無駄の無い大人びた返答をして松風は薄闇の中へと姿を消した。
………とりあえず紹介しておくか。松風はああ見えても子供ではない。と言うよりも人でもないのだ。松風は俺が使役する式神の内の一体なのである。
こんな特殊な仕事をしているせいか、うちの邸は結構小鬼の類が出没する。奇々怪々な鬼共の所為で使用人は皆ビビッて暇を取る。その人手不足を式神達で補っているのだ。故に我が邸の人は俺と父上の二人だけなのである。
ちなみに俺が使用人代わりに使役してる式神はん十体。その中で主だったのが十二体。
今の松風を筆頭に飛梅、樺桜、藤波、菖蒲、牡丹、萩代、桂木、菊水、紅葉、霧雨、桐生と言い、皆、主である俺に対してとってもフレンドリーな良い奴らである。
さておき、松風はすぐに戻って来た。用意が出来たと言うので俺は筆やら硯やらを仕舞って陰陽寮を後にする。
今宵は晦、月影は無い。衛士の焚く火と松風が持つ手燭の灯りだけが辺りをじんわりと照らし出している。
そんな薄暗い大内裏の中、陰陽寮の門を出た俺は松風の先導に従って歩き出した。その時。不意に俺を呼ぶ声が耳に届いた。振り返って見ると久里の少将様が走り寄って来た。
「と、時守殿、貴殿、忍桜の宰相の中将様をお見掛けしなかったか?」
少し弾んだ息を静めながら俺に問い掛けてきた。
「忍桜の宰相の中将様を…でございますか?」
「そうなのだ。もうすぐ名対面のお時刻なのだが、どちらにもいらっしゃらないのだ」
かなり焦っているのか少将様は手にしている扇を忙しなく閉じたり開いたりしている。
さてさて、ここで話題の中心である忍桜の宰相の中将様の事を説明しよう。
忍桜の宰相の中将様とは、先帝の御代より信認厚い関白太政大臣・藤原護人様を御父君に、同じく先帝の女一の宮・涼子様を御母君に持たれる御方の事である。併せて頭脳明晰、容姿端麗、品行方正、冷静沈着等々と数多くの美徳を持ち合わせていらっしゃるという非の打ち所のない、御年十六歳のスーパーエリート様の事である。………当然俺にとっては雲上の御方である。
本名は藤原忍人様とおっしゃるのだが、彼の方に好意的な者は親愛の情を込めて童名の『忍君』、もしくは左近衛府所属&参議でいらっしゃる故に『忍桜の宰相の中将様』とお呼びしている。
しかしながら、人の世に於いて輝かしい光にうっとうしい陰は付き物。やはり忍君様に好意的でない者も結構いる。そういう奴らは『氷桜の君』などと呼んでいるのだ。
このあだ名、殆どやっかみなのだが、その分的を射ているのである。
と言うのも、忍君様は人見知りが激しくていらっしゃるのか、余程親しい人間以外話をなさる事がない。勿論、話し掛けられたりすれば返答なさるが、それはあくまでも事務的。限りなく素っ気ないものであった。
……少し弁明させて戴くと、お小さい頃の忍君様はこうではあらせられなかった。それこそ『氷桜の君』どころか『東風公(春風の君)』と謳われる程に明るく朗らかなご気性でいらしたのだ。……なのに忍君様が十三歳におなりになった頃か…? ある日突然『氷桜の君』になってしまわれたのだ。
しかしそれでも忍君様はそのご容姿のせいか宮中の女房、女官方から絶大な支持を受けているし、民草にはお優しくていらっしゃるから都中のアイドルでもあらせられる。
知り合いの女官なんかはあっさり振られたにも関わらず、
『あーん、それでもお慕いしてしまうのよぉ。だって、あんなにお若くて、お綺麗で、今時珍しいくらいに真面目でいらして、凛々しくて…。ダメよ、絶対に諦めきれないわ!』
だそうだ。
ま、ともかくだ。先も言った通り忍君様が俺にとって雲上の存在である事には変わりなく、その御方がどこにいらっしゃるかなんて、朝から仕事のしっ放しだった俺に判る筈もなかった。
だから俺はとりあえず『忍君がいらっしゃるのでは…』と言う所を挙げてみる。
「薄氷の君の所…」
「そこはいの一番に行ったっ!」
「そ、そうですか……」
………薄氷の君の所でないとしたら後はどこがあるだろうか?
あっ、失礼、薄氷の君とは桐壺の女御様にお仕えしている女房殿で、可哀想だが宮中一の嫌われ者である。と言うのも、なんと彼女は忍君様の恋人だからである。男連中には、忍君様の恋人なのだから物凄い美女、と専らの評判なのだが、俺は見た事ないので実際は判らない。しかし、例の女官曰く、
『あんなの全っ然大した事ないわよっ! 家の格だって大した事ないしね! 忍君様って風雅の趣味はとってもよろしくていらっしゃるのに女性の趣味は、はっきり申し上げてよろしくないわJ あれに比べたらあたくしなんて紫の上よ! 源氏の宮よJ』
と拳を振って力説してくれた。だが、それが九割方嫉妬によって脚色されている事は想像に難くないので、まあそこそこは美人なのだろう。
まま、それもさておき。そこでないとしたら一体どこにいらっしゃるのだろうか? 少将様の様子から察するに内裏の中は全部探し尽くしたようだ。………
「だぁーっ、わっかんねーよっ」
なぁんて事は言わないよーん。俺は努力して心底残念そうに眉根を寄せて俯く。
「申し訳ございませんが、少将様。わたくしは存じ上げません」
「………やはりそうか……」
少将様はがっくりと肩を落とした。かと思うと、ガバッと面を上げるや、俺の手を握り締めやがった。………あっちの趣味じゃないだろうなぁ。
「そうだ、貴殿、得意の占いで忍桜の宰相の中将様をお捜し申し上げてはくれまいか?」
言葉は要請だったが、口調は明らかに命令だった。内心ムッとしていたがそれを表に出す程俺は馬鹿でもガキでもない。やんわりと手を解くと口元だけを微笑ませた。
「占うまでもございません。菊水、忍桜の宰相の中将様をお捜し申し上げて参れ」
「承知致しました」
「ひいいいいぃぃぃっ」
唐突に現れ消えた異形の式神に、少将様は情けない悲鳴を上げ、腰を抜かしてへたり込んでしまった。俺が使役する式神の中で一番の強面の奴を呼びだした訳だが、功を奏したようだ。はっはっはっはっはっ、ザマーみろ。
「んななななっなっなに」
「只今のモノは私が使役しております式神で菊水と申します」
澄まして答えると少将様は我に返った様子で顔を赤らめてスックと立ち上がった。が、その時。
「お探しの忍桜の宰相の中将様は宴の松原の中奥においでです」
「ひえぇぇぇえぇっ!」
再び現れた菊水に、少将様も再び腰を抜かしてしまった。
「御苦労。少将様、お聞きになった通りでございます」
俺は菊水が姿を消したのを確認してから少将様と視線を同じくする為に跪いた。しかし少将様はてぇんで聞いていなかったのか、聞き返してきやがった。聞いとけよ、タコ。
「中将様は宴の松原の中奥においでだそうです」
「え、宴の…!?」
言うなり少将様の顔色はいよいよ真っ青になってしまった。
主上を警護する近衛の少将が情けない、と思う人の為に説明しておくと、『宴の松原』とは怪奇事件の絶えない大内裏に於いてでも、ナンバーワンを誇る鬼の出現ポイントなのである。昼でも薄暗いここは、当然雅やかなお貴族様には恐ろしい場所であり、それが陽も落ちた今なら正に百鬼夜行の真っ最中な場所なのである。
「えええ宴の、宴の………」
がたがたと震えだしたその情けない姿を見て、少しばかり気の収まった優しい俺はしょうがなく助け船を出してやった。
「少将様、わたくしすっかり失念しておりましたが、図書寮に用事がございました。通り道のついでと申し上げては大変失礼ではございますが、中将様に名対面のお時刻をお伝え申し上げましょうか?」
そう言ってやった時の少将様の顔は、今思い出しても笑えるくらいに滑稽だった。イヤ本当で。
「そ、そうか? そんなに言ってくれるのなら折角だから頼もうかなぁ。ははははは、では私は持ち場に戻るとしよう。さらばだ」
勢いよくブンブンと手を振って恥知らずな少将様は内裏の方へと消えて行った。
「俺…、そんなに言ったっけな?」
「私は一度しか聞いておりません」
呆れ顔で呟く俺に、無表情な松風は相変わらず無表情で答えた。
「まあ、いいや。俺は松原に行って来るからここで待っててくれ。すぐ戻る」
「承知致しました」
松風が差し出す手燭を受け取って、俺は陰陽寮と西院の間を抜けて内裏を横目に歩き、続いて真言院と木工内候の間を抜けて、宜秋門を横切って松原に足を踏み入れた。
途端に身を包む空気の質が変わる。
俺達陰陽寮に籍を置く者にとっては馴染みの、だが、一般人にとっては恐怖を誘う冷えた空気に。そんな怪しさを含む風が背中で纏めただけの髪を吹き上げる。
──忍君様はこんな寒い場所で何をなさっていらっしゃるのやら……。
俺は忍君様の整い過ぎた冷たい横顔を脳裏に思い浮かべた。
女性と見紛う程の線の細い美しいお顔。
そのお顔に、まるで翳りを作るかのように長く垂らされた前髪。
直衣を着ていらしても判る細いお体。
鈴を転がすような張りのあるお声等々。
正に現代貴族の風潮『たおやめ』をそのまま人間化した様な御方だ。到底このような場所に足を踏み入れるどころか、近寄りもしない、そんな感じの御方なのに。……人は見かけに拠らないらしい。
ともかく、俺は歩を進めた。木々の陰から奇声を発する鬼共を尻目に、俺はようやく中奥にたどり着いた。そして迫り出した木々の狭間に忍君様を見付けた訳だ。が、なんと、忍君様は片膝を抱き、その膝頭に額を預けて眠っていらっしゃったのだ。距離は五間ばかりあったが、それは間違いなかった。
………肝が据わってらっしゃるとゆーか、なんとゆーか。お風邪を召されますぞぉ。
呆れつつも動いていた足が止まった。忍君様の周りに人影が見えたからだ。注意しつつ距離を詰めると、人影は五人の女性である事が判った。五人の女性はまるでお守りするかのように手をつないで忍君様を取り囲んでいる。
…鬼?
明らかに人とは違う気配に、知らず俺の体は緊張した。
パキンッ
迂闊にも踏み締めた小枝が大きく音を立てて折れた。一斉に五人の女性は振り返り、そして俺の存在を認めると煙の如く掻き消え、同時に忍君様が目を覚まされた。
「……?」
僅かに寝ぼけ眼の忍君様は周囲を見回され、俺にお気づきになると驚いたように目を見開かれ、そして珍しく照れたようにはにかまれた。
何事も無かったかのように安堵の表情を装って跪き、俺は少将様の旨をお伝え申し上げる。
「忍桜の宰相の中将様、久里の少将様がお探し申し上げていらっしゃいます。只今、亥の一刻を過ぎた頃なれば、名対面のお時刻まで残り僅かかと存じます」
「──それで貴殿がわざわざ捜しに来てくれたのか。申し訳ない、つい眠り込んでしまったようだ」
立ち上がり、衣に付いた土埃を払い落として浮かべられた微笑みは『氷桜の君』とは思えない昔のままの暖かさで、それこそ暗闇の中に咲いた花のようだった。
──もしこの御方が女君であったなら、間違いなく入内なさって主上の(と言うよりも東宮様の方であらせられるかな?)寵を独占なさるに違いないぞ。
間抜けにもポカンと口を開けて見取れていた俺は、そんな馬鹿な事を真剣に考えていた。
「久里殿に頼まれてここに?」
「えっ? あっ、はいっ、そう…でございます」
「なるほど、久里殿は何よりも鬼が苦手と言うのは真であったか…」
「………」
少し小馬鹿にしているような薄い笑みを浮かべて忍君様は暗闇の中へと歩き出された。俺はノーコメントで先を歩まれる忍君様を先導する為に小走りで追い抜いた。
辺りは相変わらず鬼が飛び交ってはいたが、忍君様は(ただ単に御覧になられていないだけかもしれないが)スタスタと歩いていらっしゃる。
「時守殿」
不意に立ち止まられた忍君様は俺を呼び止めた。振り返った俺が「なんでしょうか?」と言うように首を傾げると、
「この事は他言無用に願いたい」
と、おっしゃった。
「この事…でございますか?」
「そう、私が時間も忘れて、この松原で居眠っていた事をだよ。………さすがに情けないからね」
問い返す俺に忍君様は頷き、照れ笑いをなさって再び歩き出された。
「そ、それは勿論ではございますが…、あのぉ、忍君様。一つだけお聞きしたい事がございますのですが…。よろしいでしょうか?」
「…構わない」
僅かな間を置いて忍君様はお許し下さった。
「忍君様はこの様な所が平気なご様子でいらっしゃいますが、鬼が恐ろしくはないのですか?」
陰陽師としての興味と、個人的な興味とが交錯した質問だった。
問われた忍君様は何故かほっとなさったように息を吐かれると、
「世の中には鬼よりももっと恐ろしい生き物がいるからね」
前を向いたまま、そう答えて下さった。そして俺は重ねて問い掛ける。
「鬼よりも…でございますか。それは何なのでしょうか」
「人だよ」
意外な答えだった。
「私にとってこの世で一番恐ろしいモノは鬼でも生霊でもなく、それらを生み出す人の心だよ」
諷じるように虚空を仰いで忍君様はそうおっしゃった。そしてちらりと俺を御覧になると、
「意外そうな顔をしているね」
面白そうにお笑いになった。
「え? あっ、申し訳ございません。ご無礼をお許し下さい」
俺は慌てて顔を引き締めると、片膝を付いて謝罪した。
「ははは、そんなつもりで言った訳ではないのだから謝られると私の方が困ってしまう。ほら、立ち上がって」
優しく笑って忍君様は手を差し伸べて下さったが、俺にしてみれば畏れ多くてお手など取れる筈もなく、恭しく両手でお手を押し止めた。すると忍君様はいたずらっぽい笑みを浮かべられたかと思うと、急に俺の手を取り、
「遠慮は無用」
「わっっ」
引っ張って強引に立ち上がらせた。こんなに華奢なお体のどこから、と思う程のお力だ。
………ん?
「………」
「し、忍君様。どうか…なさいましたか?」
おれは少し声を詰まらせた。と言うのも、俺の手を握ったまま忍君様は俺の顔を凝視していらっしゃるのだ。
な…、何だ? ○○中納言様や××の宮様(個人の尊厳により伏せ字とさせて戴く)の様なあちらの趣味は持ち合わせてはいないが、何故か俺の動悸は跳ね上がったまま収まらなかった。
自分でも顔が赤らんでいるのが判ったので、俺は手燭を心持ち遠ざけ、今度は詰まらせないように下腹に力を込めてからもう一度お尋ねする。
「忍君様、どうなされましたか。私の顔に何かついておりますか?」
「えっ? あ…いや、違うんだ。すまない。不躾な真似をしてしまった。許してほしい」
我に返ったように忍君様は慌てて俺の手を放され、勿体なくも頭を下げられた。俺は尋常でなく高鳴る鼓動を押さえつつ、
「そのような…、勿体のうございます。……忍君様、もしお悩み事でもおありでしたら、どうぞご遠慮なくおっしゃって下さい。不肖の身ではございますが、多少のお役には立てるかと存じます」
一息に言い立てて俺は忍君様のお答えを待った。だが忍君様は何かをおっしゃろうとお口を動かされただけで、結局言葉を飲み込んでしまわれた。
「何でもない。行こう。遅くまで引き止めてしまって本当にすまない」
とだけおっしゃると、何事もなかったかのように歩き出された。
俺には未だ忍君様が何か俺に尋ねたがっていらっしゃるのが解った。が、無理に聞き出せる筈もなく、手燭を掲げて先を照らしていた。
もうすぐ松原を抜けてしまう。あの五人の女性の事を聞くべきかどうか俺が悶々と迷っていると、忍君様は急に立ち止まって振り返られた。
「時守殿」
「は、はい」
「人を危めてまで手に入れたい幸せとは…、一体どのような物であろうか」
「は?」
おっしゃっている意味がよく分からなかったので、俺は頭の中で何度か反芻させてみた。
──忍君様は誰かの死を願っていらっしゃると言う事なのだろうか?
「そしてその幸せを手に入れた後はどうなるのだろうか」
続けておっしゃった後、忍君様は俺を見つめて答えを待たれた。
「……どのような幸せにしましても、他人を貶めたり、危めたりして手に入れたものなど決して長続き致しません。因果応報、人を呪わば穴二つ、でございますから」
忍君様の意図は分からなかったものの、とりあえず質問にお答えしてみた。
「そう…か」
忍君様はそう呟かれると考え込むように少し俯かれた。
「あの、…忍君様?」
「………時守殿」
怖ず怖ずとした調子で御様子を伺う俺に忍君様はぼそりと名を紡がれた。
「はいっ」
「どうもありがとう。とても参考になったよ」
無表情にそうおっしゃって忍君様は再度歩き出された。
何かお気に障ったのだろうか…。決して冷たい感じのする無表情ではなかったが、妙に気になる。だが先程と同じで聞けないまま今度こそ宜秋門についてしまった。
「時守殿、今宵の事はどうか忘れて……いや、貴殿の胸の内にでもしまって置いてほしい」
忍君様は俺と向き合われると先程のままの無表情でそうおっしゃった。
「御心のままに…」
俺が恭しく頭を垂れると忍君様は微かに、でも確かに微笑まれ、軽くお手を振って門の中へと姿を消された。
結局あの五人の女性の事も、急な無表情の訳もお聞きできなかったが、俺は久方ぶりに忍君様とお話しできた事が嬉しくてたまらなかった。
もう十年も前の事だ。きっと忍君様はお忘れになっていらっしゃるのだろう。あの時の誓いは勿論、俺の事も……。
……いかん、いかん。
俺は頭を振ってブルーになりかけていた気分を吹き飛ばすと、松風が待っているであろう太政官辺りまで戻った。のだが、松風は居なかった。
「松風、どうした? 松風?」
呼んでも出て来ない。どうやら待ちくたびれて先に行ってしまったようだ。
なんて奴だ。待ってろって言ったのにっ。…ちくしょうっ、確かにすぐ戻るって言ってからかなり経っちゃいるが、それでも主を残して言ってしまうなんて………。
かくして俺はとってもフレンドリーな式神達を毒突きながら、自家の牛車まで先導のないまま一人寂しく歩いて行ったのだった。
つづく