世間が新たな年を迎えようとしているこの師走。俺も年越しとは関係なしに忙しく、しかも秘密裏に働いていた。
何故かと言うとだな、下手すれば宮中をひっくり返すような大事件が発生してしまったからだ。
その大事件とは後宮の一角の桐壺で起こったのだった。
初めっからちゃんと説明すると、それは月が改まったばかりのある夜。例によって膨大な書類を片づけていた時の事だった。相変わらず、一人居残って仕事をしていた俺を訪ねて一人の男が陰陽寮に訪れた。
男の名は藤原真友殿。あの忍君様の乳兄弟であり、従者を務めている人物だ。
その真友殿は何故か桐壺の女御様の使いで参ったと言った。興味を覚えて話を聞いてみると、なんと、桐壺の女御様から内々の御依頼があるとの事だった。
「詳細は桐壺にて、子の刻においで下さい」
言って真友殿は帰っていった。
ちなみに今は亥の三刻。あと二刻ばかりか……。
しゃあない、忍君様が関わっていらっしゃるのは明白だ。大事みたいだが喜んで首を突っ込ませて貰おうじゃないか。
そう決意した俺はちゃっちゃと仕事を終わらせて子の刻を待ち、松風を伴って陰陽寮を出た。
「陰陽師が桐壺に出入りしたとなれば何かと噂が立つ、と若様がおっしゃいましたので、その辺はよろしくお願い致します」
と、よろしくお願いされた俺はぐるぅりと内裏の外周を回り、隠形の術を使って安喜門から内裏に侵入……、なんか言葉の感じがヤだけどとにかく内裏の内に入り込み、そしてそのまま桐壺の庭先に足を踏み入れた。松風は姿を消しているぞ。
さてこれからどーすっかな。
俺は首を巡らせた。すると階の陰にうずくまっている真友殿に気がづいた。良かった。ちゃんと待っててくれたんだ。
「あの〜」
「!」
術を解いていきなり現れた俺に驚いたのか(そりゃ驚くわな)、真友殿はとっさに太刀に手を伸ばして立ち上がった。
「ま、真友殿っ。私ですっ、賀茂時守ですっ」
辺りを憚って小声で俺は名を名乗った。
「………も、申し訳ございませんっ!」
「こちらこそ、すみません。驚かせてしまって…」
一頻り謝り合ってから、真友殿は気を取り直してほとほとと妻戸を叩いた。
「真友でございます。陰陽師、賀茂時守様がいらっしゃいました」
言葉に呼応して、カチャリと掛金が外され、
「こちらに……」
控えめな声が俺達を招き入れた。
「どうぞ」
「は、はい、失礼致します」
応えて俺は沓を脱ぎ、階を上り、未知の世界に足を踏み入れた。
知らない人に説明しておくと、ここ桐壺とは後宮の一殿舎で、今現在この殿舎の主が依頼主の桐壺の女御様であり、東宮敦徳親王様のお妃様でもあらせられる。
はぁーっ、ここが桐壺かぁ。
目だけを動かして俺は辺りを窺った。もはや多くの女房方は眠っているのか、俺と女房殿の衣擦れと(真友殿は表で見張りを続けるんだそうだ)、踏み締めた床板のきしむ音以外何も音はなかった。緊張しながら先導する女房殿に付いて先を進むと、前方にぼんやりと人影が見えた。更に近づいていくと、御簾から漏れる光と小さな燭台の灯りとでその人影が、円座に腰を下ろしていらっしゃる忍君様だと判った。
あ…っと、後ろにもう一人。見た事のない顔だが、気さくに忍君様に話し掛けているのと、忍君様が珍しく笑顔で応えていらっしゃる所から察するに、かなりの大貴族様のようだ。
容姿は極上。真っ直ぐ俺を見つめる目には、そこはかとない威厳に満ちていた。宿直装束を着ているから官位の方は判らないが、ま、大貴族には違いないだろう。………変だな。そんな大貴族を俺が知らないなんて……。
「よく参られた、時守殿」
忍君様が俺を見上げ、小声でそうおっしゃった。
「急な呼び立てに気を害していないかな?」
「滅相もございません」
平伏して応える俺に忍君様は、
「それなら結構。では早速本題に入らせて貰う。だがその前に此度の件は決して表沙汰にしないように願いたい。これは桐壺の女御様のご内意である」
とてつもなく厳かな調子でおっしゃった。故に俺としては、
「承知致しました」
としか答えようがなかった。
「………相変わらず忍は堅いなぁ。暗い仕事なんだから、話くらい明るくいこうよ。明るく。あっ、時守殿、私の名は藤原定幸。忍の親友だ。よろしく」
言って定幸様は手を振った。少々面を食らってしまった俺は、
「はぁ、こちらこそ」
と、頭を下げた。忍君様は不快そうに少し眉根をお寄せになっている。
「………と…、定幸様。少し不謹慎ではございませんか? 桐壺の女御様の大事というのに…」
「あら、忍様。わたくしも定幸様と同じですわ。明るくゆきましょう。明るく」
御簾の中から可憐なお声が投げ掛けられた。
「にょ、女御様っ!?」
「えっ!?」
驚いた忍君様のお言葉に、俺は更に驚いた。
なんてったって、女御様だぞ!? 東宮妃様だぞ!? その御方が直にお話になるなんて思っても見なかったんだ。
んでもって御簾の内でもお付きの女房が小さく諫めている声がする。
「いいのですよ、滝音に薄氷。それよりも皆様、御簾の内にお入り下さいませ。眠っている女房達が目を覚ましたら大変ですし、そちらはお寒いようですわ」
「それもそうだ。じゃあ、そうさせて戴きますか」
言うなり、定幸様はひょいっと御簾を掲げて身を滑り込ませた。
「!」
「滝音の君っ、薄氷の君っ、女御様に御几帳をっ。早く!」
「は、はいっ」
呆気にとられている俺をよそに、忍君様の小さいながら鋭いお声が飛んだ。女房殿…滝音の君(先程先導してくれた女房殿だ)と噂の薄氷の君が慌てて几帳をずらしているようだ。
………この定幸様って何者なんだ? 畏れ多くも東宮妃様の御簾の内に躊躇いもなく入っていくなんて……。
「まあ、忍様は本当に相変わらずでいらっしゃる事」
「………女御様、ここにおりますのは童ではございませんっ。もう少しお気を付け下さいませ」
渋面でそう諭しつけられる忍君に定幸様は御簾の内からおいでおいで、と手招きをする。
「女御様が良いって言ってらっしゃるんだから、いいじゃないか。ねえ、女御様」
「そうですわ。さあ、忍様も時守様もお早く御簾の内にお入りになって。お話が始められませんわ」
「………」
「………」
諦めたように忍君様は吐息をお付きになると、俺を促して御簾をくぐられた。
室内には俺と忍君様と定幸様と女御様と滝音の君、薄氷の君の五人だけ。噂の薄氷の君はめちゃくちゃ美人だぞ。
「ふふふ、では始めましょうか?」
「じゃあ、私から説明しても良いかな?」
定幸様の言葉に忍君様は小さく頷かれた。
「あのね、時守殿、実は女御様はどこぞの誰かに呪われていらっしゃるみたいなんだ」
「はあ」
「………驚かないね」
「申し訳ございません。わたくしが呼ばれたからにはその手のお話なのだろうと思ってましたし、ここは気が澱んでいますので……」
「あ、そうなの? それもそうだね」
素っ気ない言葉とは裏腹に定幸様はとても面白くなさそうだった。そんな定幸様に忍君様の低〜いお声が投げ掛けられる。
「定幸様………」
「分かってるよ、ちゃんと真面目にするって。……えっと、女御様のお話によると十日程前
から悪夢に魘されるようになられたらしい。悪夢の内容は遥か彼方から一人の鬼女を頭に、魑魅魍魎が押し寄せるものだそうだ。その鬼共は日を追う毎に近づき、そして昨日の夜、鬼女が目前まで迫って、女御様のお首に手をかけた。そこで女御様はお目を覚まされたそうだ」
「わたくし、いつものように夢で良かった、と安心しておりましたら、首にはくっきりと手の痕が残っておりまして、びっくりしましたわ。そしてわたくし、滝音と薄氷に相談してみましたら呪われいているかもしれない、と言われて二重にびっくりですわ。ほほほ」
几帳の向こう側で女御様が陽気にお笑いになった。ご自分の命を狙われていらっしゃるというのに、はっきり言って全っ然危機感を感じていらっしゃらないぞ。
「女御様…っ、もう少し真剣にお考え下さいませっ。どなたか知らない方から恨まれておいでなのですよ」
滝音の君も俺と同意見らしい。
「まあまあ、滝音の君。幸い今まで大事なかったのだから良いじゃないか」
「と…定幸様っ」
「どこの誰かってね、十中八九左大臣家の権勢を妬む者達の仕業だよ。だからね年頃の姫君のいるとこだろう。……って言ったら………右大臣に、それに綾瀬の大納言、二条の権の大納言、茅野の中納言、兵部卿の宮、そして弾正尹の宮って所かな」
「定幸様っ! 確かな証拠もなしに滅多な事をおっしゃらないで下さい!!」
いきなり実名がポンポンと出てきて、忍君様はぎょっとして定幸様を諫めた。が、当の定幸様はどこ吹く風、と言う風にあっけらかんとしたものだった。………もの凄い人だなぁ、この人は。
「時守殿、今の話は…」
「心得ております」
「ありがとう。………もう結構です。定幸様は黙って居て下さい。良いかな時守殿、とにかく女御様は何者からに呪われておいでだ。貴殿に頼みたい事は二つ。速やかに呪いを返えす事。そしてその相手の正体と居所をつかむ事。──その者達には私の方から釘をさして置きますから、あなた方はお手をお出しにならぬようお願い致します。宜しいですね?」
有無を言わせぬ調子で忍君様は言い切られ、女御様と定幸様をその目にとらえた。
お二方はともに物凄く不本意そうに、渋々頷かれた。
「時守殿、女御様のお話では大体子の刻を過ぎると眠り込んで夢を御覧になるそうだ」
子の刻って、今じゃないか………。
「分かりました。では皆様、心を鎮めてお待ち下さい」
俺の言葉に皆様は目を閉じて、その時を待った。
さてと、どーすっかな。話からすると夢の中の鬼女は今夜女御様のお命を奪うだろう。内密にと言われてる手前、呪いを実体化して消し去るなんて派手な事は出来ない。て事はヤだけど俺が呪いを受け止めるしかないなぁ………。そんでもってその間に松風達に居場所を探らせて、術者を襲わさせて………。これしかないなぁ。
しょうがなく決心した俺は、畳紙を取り出し、呪を書いて半分に割り、俺から近い所に座っている薄氷の君に差し出した。
「時守様、これは…」
「女御様にお渡し下さい。女御様への呪いをわたくしが引き受けます故、どうぞ女御様。御身離さずお持ち下さいますよう…」
「まあ、時守様。そのような事をなさって大丈夫ですの?」
「勿論でございます」
心配げな女御様に、俺は力強く頷いて見せた。
「松風」
「こちらに」
御簾の外に松風が姿を現した。俺以外の方々は、はっと息をのんで突然現れた童に注目している。
「呪詛が始まり次第、術者を探し出して、何としても呪詛を止めさせろ。後は俺が出る」
「承知致しました」
答えた松風はそのまま御簾の外に控えた。そして、俺は目を閉じて待った。すると、
「んまあ、こんな遅くまで、こんな小さな男の子を…」
少し憤慨したように、論点のずれた事を女御様はおっしゃった。
………どうも見かけに騙されていらっしゃるようだ。精神を集中させたかったが、児童虐待と誤解されるのは何とも不名誉な事なので訂正させて戴く事にした。
「女御様、恐れながら、松風は人の子ではございません。わたくしが使役しております式神でございまして、決して見かけ通りの童ではございません」
「しきがみ…?」
「わたくし共陰陽師が使役します鬼神を総称して式神と申します」
「まあ、そうですの。定幸様、忍様、わたくし一つ物知りになりましてよ」
「それはそれはよろしゅうございましたね、女御様」
「誠に………」
のほほんとした女御様のお言葉に、定幸様は同じくのほほんと、忍君様はやや疲れたご様子でお答えになった。
「それでは時守様、松風殿はどのような姿にもなれますの?」
「女御様……、今はそのような時では………」
興味津々と言った様子の女御様を、薄氷の君が控えめに諭しつけてくれた。本当に危機感の無い御方だ。ま、泣きわめかれるよりはマシだけどな。
「女御様、そのお話はまた日を改めては如何ですか? 時守殿も何かと精神を集中せねばならぬかもしれません」
忍君様の凛としたお言葉に女御様はうっと詰まってようやくお口を閉じて下さった。そして、再度目を閉じようとした時、時司が時を知らせる太鼓を鳴らした。遠くに「時、子二ぁーつ」と時を奏する声がすると、突然限りない悪意が俺に襲いかかった。
「! 松風っ!」
「承知!」
俺の声を受けて松風は術者の居所を探し出すべく姿を消した。
「時守殿っ!」
「お静かにっ!」
腰を浮かせて駆け寄りかけた忍君様を押し止めて、俺は襲い来る死への睡魔に抗する為に呪を口ずさんだ。
そうして幾ばくもなく睡魔は消えた。
「どうやら術者を発見したようでございます」
ほっと息を吐いて俺は固唾を飲んで見守っていらした皆様に申し上げた。
「あら、まあ、もうですの? 割にあっけないものですのね」
「そうですね。もう少し呪術合戦みたいなのに発展するかと思っていたんですけどね」
いかにも拍子抜けと言わんばかりにお呑気なお二方は呟いた。
「………」
「………」
「………」
もはや俺も滝音の君も薄氷の君も何かを申し上げる気力はなく、忍君様に至ってはただ額に指を当てて深く溜め息をお付きになるばかりだった。
ともかく俺達は松風の帰りを待った。しばらくすると松風は戻ってきて、孫庇の間に現れた。
「術者は?」
「小物の修験者が二、三人ばかり」
「場所は?」
「茅野の中納言邸でございます」
「ほぅら、私の言った通りだ」
定幸様は得意げに胸を張った。
「まあ、わたくし、中納言様に恨まれておりますの? ……礼儀正しいお方だと思っておりましたのに」
女御様は本当に残念そうに深々と溜め息をお付きになられた。かと思うと、キッと面をお上げになり、
「あの笑顔に騙されていたのかと腹立たしくてたまりませんわっ。今度お越しになった時には嫌味を言って差し上げますわよっ、わたくし!」
「その意気ですよ。女御様」
「と、定幸様、あまり女御様をお煽りにならないで下さいませ」
たきつける定幸様に滝音の君は控えめに、本当に控えめにお願いした。が、定幸様はそっちのけで嫌味の極意を伝授していた……。
「あ、あの」
「何かな? 時守殿」
「今から茅野の中納言邸行って参ります」
「私もゆく」
俺に続いて忍君様が立ち上がられた。
「私も…」
「もう大丈夫ですから、定幸様はお帰り下さい」
言われた定幸様は物凄くつまらなそうに鼻を鳴らして不平不満を述べる。
「そんな、忍。私だって奴らの戦く顔が見たいんだ」
「私はそんなつもりで行くのではございません。あくまで、脅しをかける為にです」
「脅しなら私の方が効果絶大だと思うけどな」
「定幸様だと効果絶大すぎるんです。………詳細は後日改めて必ずお教え致しますから、今宵はお帰り下さい」
「………分かったよ。しょうがない、忍の言うとおりにするか」
忍君様にビシッと諭し付けられた定幸様はわざとらしい溜め息を付いて立ち上がった。
「御理解戴き真にありがとうごうざいます。ですが、こっそりと後をお付けになるような真似はなさいませぬように。万が一にでもそう言う事がございましたら、わたくしめにも考えがございます事を努々お忘れ無きように…」
忍君様のお言葉に定幸様がビクリと体を強張らせた。どうやら図星だったらしく、定幸様は力無く、
「ははははは……」
と笑ってごまかした。
「全く………」
その様子を御覧になって忍君様は小さく吐息を吐かれた──時、締め切られた室内に憎悪にまみれた突風が吹き荒れた。
「きゃああああっ!」
「女御!」
音を立てて几帳が倒れ、咄嗟に定幸様は女御様を抱きしめて(オイオイ!)飛び交う調度品からお守りしていた。忍君様も同じく、薄氷の君と滝音の君の元へと走り寄って、袖で覆っていらした。
………独り身って淋しい……って言ってるバヤイではないっ!!
「止めよっ。止めぬなら問答無用で払ってしまうぞっ!!」
俺の一喝に突風は唐突に収まり、代わりに女が姿を現した。どうやら悪夢の先頭を切っていた鬼女のようだ。
どう言う事だ? 呪詛を中断させた今、どうして現れる事が出来る。この鬼女と呪詛は無関係なのか?
女御様の悲鳴やら、几帳の倒れる音なんかで、桐壺はざわめきに包まれてきた。
「松風、樺桜、騒がれたら面倒だから、起きてきた奴らは片っ端から穏便に眠らせろ」
「承知」
短く返答してから松風達は姿を消した。程なく桐壺は再び静寂に包まれた。
一方、長い黒髪を蛇のようにうねらせながら鬼女は俺を睨み付けた。
〈わたくしの邪魔をしおったのはそなたか?〉
「そうだ。お前は誰だ。何の為に女御様を苦しめる」
〈何の為だと? その女は、桐壺の女御様の女御は…わたくしの夢を、最も大切な方を奪い去ったのだ…〉
「夢? 大切な方? 誰だそれは」
〈わたくしの大切な方………〉
再び風が吹き始めた。鬼女の心が荒れ始めてるようだ。
〈許すまじ桐壺の女御、そして左大臣! わたくしから大切な、大切な東宮様を奪い去りおって!〉
「何? 東宮だと?」
気絶なさっている女御様を抱きかかえて、定幸様は伏していた面を上げた。
「そなた、東宮と面識があるのか?」
〈約束して下さったのだ! 幼き日にあの方はわたくしを后に迎えて下さると、あの方はおっしゃったのだ! なのに、なのにあの男が無実の罪の中にお父様を陥れたのだ!〉
「后に……。無実の……?」
「まさか…」
思う所があるのか定幸様と忍君様は顔を見合わせられた。
〈………お父様はとてもお優しいお方でいらした。そのお父様に、あの左大臣はよりにもよって、東宮様廃立を企てたなどと濡れ衣を着せおったっ!〉
血の涙を流して語る鬼女の話に俺は一つの事件を思い出していた。
あれは十年程前の事だったか。東宮様が未だ御元服を済まされていない時の事。皇女腹の弟宮基成親王様を東宮にとの陰謀があったのだ。結局その陰謀は陰謀に終わり、首謀者の右大臣様は死罪。他数人は流刑されたとか。
「今の話が真ならば、そなた、……もしや先々代の右大臣の末姫、竜田姫か?」
定幸様が目を見開いて女に問うた。
〈ほう…、わたくしを知っておるとは……。その通り、わたくしは先々代の右大臣、藤原篤匡が末姫。そなた、何者だ〉
「私だ、竜田姫」
「定幸様っ!」
「いいから忍。この者が竜田姫なのなら、私はどうしても伝えなければならない言葉があるんだ。分かってくれるだろう?」
鋭く制される忍君様に、定幸様は小さく微笑んで理解を求めた。その言葉に忍君様は唇を噛むと俯いて応える。
「………分かりました。あなた様の御心の儘に」
「では、女御を頼む」
言って定幸様は立ち上がった。
〈定幸など知らぬ。退いておれ。用があるのは桐壺なのだ〉
「竜田姫…、私だよ。分からないか?」
〈知らぬ〉
「そうか…、あれから十年も経ったんだ。分からなくても仕方ないな。………紫苑、逢いたかった」
〈! その呼び名、もしやそなた……、いいえ、貴方は…〉
明らかに動揺している鬼女は、口に手を当てて定幸様を見つめていた。
「そう、敦徳だ」
〈そんなっ!〉
「──えっ?」
今確かに敦徳と言ったぞ。ってぇ事はだ。とっ、東宮様ぁ!?
俺はグリンっと振り返って忍君様に真相を求めた。が、忍君様はただ頷くのみ。
マジかよ。マジで東宮様? だとしたら……あー、馬鹿な事言わなくて良かったぁ。
あらぬ方を見て、俺がほっとしている間も、東宮様と鬼女…竜田姫は無言で見つめ合っていた。
毒気と邪気の消えた竜田姫の表情は恐怖以外の何物でもなかった。
「紫苑………。 逢いたかった」
〈と、東宮様、わたくしは…〉
「何も言うな、紫苑。降りておいで、私の腕の中に。………あの頃のように」
東宮様は声を震わせる竜田姫を制されると、腕を広げられた。だが、竜田姫は涙を流して己の浅ましさを、そしてその浅ましさを東宮様に知られてしまった事を嘆くばかりで、東宮様の元に降り立とうとはしなかった。
「紫苑、降りて来てくれ。どうしても伝えたい言葉があるのだ! 頼む! 紫苑!」
〈………もはや東宮様に会わせる顔などございませぬ。どうか、どうか、わたくしの事はお忘れ下さいませ……!〉
竜田姫の姿が急激に薄れてきた。
「そんな事が出来るものか! 聞け紫苑! 私は今もそなたの事を……愛している!」
〈! と、東宮様……!〉
「!」
すっげぇー、アイのコクハクじゃないか。………て、ふざけてる場合じゃない。俺はすすすすすっと後ずさりすると忍君様の後ろに片膝を付いた。見遣ると忍君様はいたたまれなさそうにお二人を見上げていらした。
「紫苑の君…竜田姫は………東宮様の初恋の君なんだ」
秘やかに忍君様が呟かれた。肩越しに振り向かれると、驚く俺に小さく頷かれた。
「竜田姫の大姉上様は今上帝にお仕え申し上げていた宣耀殿の女御様でいらしたんだ。竜田姫は母君のご身分が低いからと女御様の女の童として宣耀殿に住んでいた。その時に東宮様とお知り合いになった。幼いながらもお二人は将来を誓われた。だが、あの陰謀事件により右大臣家は断絶。女御様は勿論、竜田姫も宮中から追放され、その後の事は何一つ分かっていなかった。………東宮様は竜田姫の行方を求めて八方に手を尽くされたが、結局分からないままで今に至っていたのだ」
「………」
このお呑気な東宮様にそんな過去が有ったなんて……。おれはしんみりと思い入ってお二方を眺めた。
忍君様が説明して下さってる間に、竜田姫は堪えきれなくなったかのように東宮様の腕の中に舞い降りていた。
「紫苑…、逢いたかった。お前の事を忘れた事など無かった。いつもお前の事を思っていた。今どこにいる? 元気に暮らしているのか? 泣き虫のお前の事だから泣き暮らしてはいないか? お前の事を思うと、自分の無力さが情けなくて仕方なかった」
実体のない幽の身を大事そうに包み込んで東宮様は囁かれた。
〈わたくしもお逢いしたかった…! わたくしも都を追われたあの日から、貴方様をお忘れした事などございませんでした。どんなに辛い日々を送ろうとも、東宮様の事を思い浮かべるだけでわたくしは幸せになれた〉
「紫苑………!」
〈………でも、東宮様が左大臣の姫君を妃に迎えられたとお聞きした時、わたくしの中に鬼が……芽生えてしまったのです。そして内に鬼を秘めたままわたくしは……〉
「紫苑?」
〈………〉
「紫苑! どこへ行く!?」
竜田姫は東宮様の腕から逃れ、ふらりと浮かび上がった。
〈わたくしは…どこにも参れません。女御様を憎む余り、女御様を疎ましく思う輩に手を貸し、女御様を苦しめてしまいました。………わたくしは最早どこにも参れないのです〉
涙を流す竜田姫の姿が薄らいだ。
「紫苑! 誰もお前を責めてなどいない。行くな。私のそばにいてくれ。いや、私の下に帰って来てくれ!」
「……お止め下さい、東宮様。それ以上竜田姫様を引き留めてはなりません」
「時守!! そなた何を…」
口を挟んだ俺を東宮様はギラリと睨み付けられた。だが、俺にはこれ以上竜田姫に未練を残させる事は出来なかった。それこそ、竜田姫を真の鬼にしてしまうからだ。そして俺はその通りに申し上げるしかなかった。
「東宮様……、竜田姫様は既に…」
「紫苑が、紫苑が既に何だというのだ」
「既に命数は……尽きていらっしゃいます」
「何……だと?」
〈………〉
東宮様はゆるゆると竜田姫を見上げられた。
「紫苑………、ほ…本当なのかっ!?」
〈………わたくし達は都を追われて東に逃れました。そしてその土地で慎ましく暮らしておりました。ですが一月程前、山賊に襲われて……死んでしまったのです〉
「う、嘘だ」
力無く頭を振る東宮様に、竜田姫は目を閉じて全てを語ろうとしていた。
〈心に鬼を育てたまま死んだわたくしは鬼となり、女御様を疎ましく思う念に引かれて都に参りました。そして術者に協力して本懐を遂げようと……〉
「………」
ガックリと東宮様は御膝を付いてしまわれた。
「東宮様、竜田姫をお見送り下さい。そして竜田姫の来世を祈ってさしあげて下さい」
「忍……」
忍君様は抱えていらしたお三人を寝かせると東宮様の御前に跪かれ、御手をそっと包まれた。
「大丈夫です。竜田姫はきっと来世でお幸せになられます」
「………………」
忍君様の御言葉に東宮様は瞑目なさった。
「………紫苑の、紫苑の望むままに……」
そして万感の思いを押さえて低く呟かれた。忍君様は柔らかく微笑まれると、竜田姫を見上げられた。
「お初にお目に掛かります竜田姫。私は左近の中将で藤原忍人と申します。東宮様から貴女の事をお聞きして、一度お話ししたいと思っていました。それがこの様な形となってしまい、大変に残念です」
〈………〉
「竜田姫、お聞きの通り東宮様は貴女の望むままにとおっしゃいました。………貴女は何を望みますか?」
戸惑う竜田姫を真っ直ぐ見つめて問われた。
〈わたくしは…、最早鬼と成り果てた身でございます。どこにも参る事なぞ出来ません〉
根が純粋なのか、竜田姫は女御様を呪い殺そうとした自分が許せなくなっているようだ。
俺は気の毒で仕方がなかった。俺が今まで浄化して来た鬼共は本当に救いようがない程、忌が忌がしくて、厚かましかったんだ。それに比べれば、なぁんて清らかな事か。
「竜田姫様、真実、浄土にいらっしゃりたいのなら問題はございません。貴女様は鬼などではございません。貴女様はとても清らかでいらっしゃいます。あとはご自分を信用なさって下さい。きっと道は開かれます」
〈わたくしが…浄土に?〉
「そうです。貴女様はご自分を許せずこの世に縛り付けていらっしゃるのです。さあ、目を閉じて下さい」
力強く頷いた俺を信用してくれたのか竜田姫は目を閉じてくれた。見届けて俺は印を組み、呪を紡ぐ。
「光が…見えますか?」
〈見える…。本当に光が見える〉
「ではその光を目指して下さい。きっと浄土に行き着く筈です」
浮かぶ竜田姫の体が仄かな燐光に包まれた。
「紫苑!」
「東宮様…!」
はっとして立ち上がりかけた東宮様を忍君のお声が制された。
〈東宮様…〉
やはり東宮様が気に掛かるのか燐光が薄らいだ。
「東宮様、堪えられませ」
「………紫苑、来世に再び見えようぞ」
御顔を上げられ東宮様は穏やかな御声でそうおっしゃった。どうやらご決心して下さったようだ。
〈東宮様……!〉
「大丈夫だ、私達の縁は深い。きっと来世でも巡り逢える。さあ、泣き止むんだ。笑顔で逝ってくれないと心配で夜も眠れないよ」
〈東宮様…、わたくし……〉
「早くお行き。そうでないと…」
お言葉を飲み込まれて東宮様は悲しいくらいに爽やかに微笑まれた。
「竜田姫、しばしのお別れです」
〈東宮様を宜しくお願い致します………。東宮様、いついつまでも健やかに…〉
忍君様に答えて、竜田姫は東宮様としばし見つめ合い、そして昇っていった。
「忍…」
いつまでも見送っていらした東宮様は空を仰いだまま忍君様に話し掛けられた。
「はい、何でございましょうか」
「紫苑が言っていた左大臣の陰謀とは…、本当なのだろうか。本当だとしたら私はこれから……」
振り向かれると東宮様はお気を失われたままの女御様を御覧になった。
「………それが真実であるかどうか、わたくしには分かりません。ですが一つだけわたくしにも分かる事がございます」
「それは……?」
「東宮様は竜田姫の分もお幸せに成られなければならない、と言う事です」
東宮様は忍君様の御言葉に目を見開かれた。そして、
「………そうだな…」
と頷かれた。
「………その通りだな。それが私に課された使命だ。すまん、忍。そしてありがとう」
「勿体ないお言葉でございます」
………こうして悲しい呪詛事件は幕を閉じた。
あの後お目を覚まされた女御様には当たり障りのない事情をお話しした。女御様は何かを感じ取られたようでいらした。が、お話しした以上の事はお聞きにならなかった。
忍君様からお聞きした話によると東宮様は物思いに耽る事が多くなられたそうだ。だがあの御方の御気質上、しばらくすれば元に戻られるだろうとの事だ。
そして問題の茅野の中納言様以下数人の公卿方は忍君様の方からどのような釘かは分からないが、とにかく釘を差され、翌日からどこぞの寺に駆け込んだそうだ。でも出家はしていないらしい。
そしてそして、俺はと言うとこの事件を境に東宮様や女御様から事ある毎にお召しを受け、いつの間にか専属陰陽師のようになってしまった。
………端からすれば大抜擢だろう。故にやっかみやら、当てこすりやら、果ては呪力比べを申し出る馬鹿者共がわんさかと出て来やがった。
名が売れるってのも大変なんだなぁ、と思う今日この頃であった。
つづく