その夜俺は夢を見た。遠い遠い昔の夢。
まだ母上が生きていらっしゃった頃の、そして俺と忍君とが初めて出逢った頃の夢を…。
父上はお忙しいお人で(今もだがな)、俺が父上の仕事に付いて行くようになるまでは母上と二人切りで留守を預かる事が多かった。
母上は一人息子の俺を持てる限りの愛情で育てて下さった。香合わせと箏の琴がお上手で、いつも一緒だったからか、俺も香と箏に関してだけは結構自負している。そして、失礼ながら『絶世の美人!』とはどうしても言えなかったが、心映えの優れた方だった。う〜ん、そうだなぁ、源氏物語で言うと『花散里の君』の様な方だな。うん。そしてそして陰陽師の妻でありながら鬼を見ると絶叫して気絶してしまうような、そんな方だった。
俺はそんな母上が大好きだった。って言ってもマザコンじゃないぞ?
だが母上は俺が八つの冬に亡くなってしまった。それも父上が仕事で京を離れていた半月ばかりの間に、風邪を拗らせて、なんともあっけなく、母上はお亡くなりになってしまったのだ。
俺は恨んだ。他人の命を救うためには日夜奔走していながら、己の妻を救えなかった父上を。そして何よりも誰よりも、窶れてゆく母上の手を、ただただ握り締めて泣く事しか出来なかった無力な自分を心の底から憎悪した。
母上の喪が明けるまで俺は母上のお部屋(東の対)に籠もり続けた。父上は相変わらず仕事を続けていたが、毎日帰ってくるようになった。今なら落ち込んでいた俺を心配して下さったからだと理解できるのだが、その頃は、
「何を今更…。今更毎日帰ってきたって母上はもういないんじゃないか」
としか思えなかったのだ。
そして時は流れ、母上の喪が明け、父上は俺を仕事に同行させるようになった。が、年齢的にも、精神的にもガキ過ぎた俺は、完全に父上に対して一線を画すようになっていた。
その頃の俺は完全に笑う事を忘れていた。父上に対してだけじゃなく、他の誰に対してもだ。
幼くして母親失った俺を哀れに思って優しくして下さる橘殿とかにもずっと心を開かず、ひたすらに「はい」と「いいえ」と「すみません」と「分かりました」だけで生活していた。でもな、これだけあれば結構まともに生活出来るもんだぞ?
まぁ、それはともかくとして、それ程荒んでいた俺の心を救ってくれたのが忍君だったのだ。
あれはある秋の日の、二条辺りの大邸宅。…確か中務卿の宮様のお邸での仕事の時の事だ。
仕事の内容は、惣領の君が遊び心でつまみ食いした町小路の女が、日毎夜毎に生霊になって現れ、祟るのでそれを何とかする、という実に情けないものだった。かなりの時間は掛かったものの、なんとか説得を終えた父上に、中務卿の宮様は食事を饗してくれた。惣領の君はどうしようもないドラ息子だったが、父宮は礼節を弁えた方らしい。ともかく、俺は滅多に味わえない豪華な食事に素直に舌鼓を打っていた。すると中務卿の宮様の若宮達だろうか、身なりの良いガキ共が俺の手を引くと、
「遊ぼう」
と言って来た。俺は別に遊びたくもなかったが、断る理由が見つからなかったので大人しく後ろについて行った。
橋を渡り、中島を越え、寝殿からは見えない所まで来ると、いきなり木の陰から数人のガキ共が殴り掛かってきたのだ。ガキ共は口々に、
「たかが陰陽師の子のくせに、すかして生意気だっ!」
などとぬかしやがった。最初のうちは相手の身分を思って身を躱していたのだが段々と腹が立ってきて、父上から無断拝借した呪符で恐ろしげな式神を喚んでやった。ガキの時でもこれぐらいは出来たんだ。思った通りガキ共は蜘蛛の子を散らすように泣き叫んで逃げて行った。衣の埃を払って一息吐いた俺も寝殿に向かおうとしたんだが、何だか父上に叱られそうな気がしたので(喧嘩の事よりも、呪符を無断拝借した事でだ)、とりあえず側にあった大きな松の根に腰を下ろし、言い訳を考える事にした。が、何も思い浮かばず、ただ空を漂う雲を眺めているうちに、俺はいつの間にか眠り込んでしまい、そして夢を見たんだ。
とてもとても幸福な夢を…。
母上がいらして、父上がいらして、俺がいて。父上呼び出した式神を見て母上が気絶して、慌てて介抱する父上を見て俺が笑って…。
「どうして泣いてるの?」
突然の声に驚いて目を覚ますと、目の前には下げ角髪を結い、品の良い水干を着た可愛らしい六、七歳の男の子が立っていた。男の子は目をパチクリさせている俺をまじまじと見つめて、
「どこかいたいの?」
と唐突に尋ねてきた。
「え?」
「だって、お兄ちゃん泣いてるもの」
いきなり何を、と小首を傾げている俺を指差して男の子はそう答えた。
「えっ?」
「どこかいたいの? ねえねえ、だいじょうぶ?」
言われて初めて俺は自分が涙を流していた事実に気付いた。男の子は心配そうに紅葉のような手を俺の頬へと伸ばしてきた。
「! 何でもないよっ」
俺は夢見て泣いていた事が恥ずかしくて、ぶっきらぼうに言い捨てると男の子を脇に押しやって駆け出した。
「お兄ちゃ──あっ!」
『あっ!』に驚いて振り返ると男の子は松の根に足を引っかけて見事にすっころこんでいた。
「ぼっ、僕っ、大丈夫っ?」
慌てて走り寄って抱き起こすと水干はおろか、可愛らしい顔までもがどろどろ。おまけに両手の平を擦り剥いていたのだ。
俺はあの鼓膜に響く幼児特有の泣き声を覚悟しながら顔や着物の泥を払っていた。が、男の子は歯を食いしばって痛みを堪えていたのだ。愛らしい目は涙で一杯だったが、それらがこぼれ落ちる事はなかった。俺は感心しながら男の子を抱き上げた。
「もう少し我慢しててね。すぐにお父さんとお母さんの所に連れて行ってあげるからね」
そして寝殿を目指して歩き出した俺に、男の子はふるふると首を振った。
「ここ、ぼくのおうちじゃないの」
「え? じゃ、じゃあどこ?」
「あっち」
男の子は西を指差した。疑問に思いながらも男の子の言う通りに進んでいくと、なんとでっかく穴のあいた築地がポッカリと姿を現した。俺は(いいのかなぁ)と思いながら、よいしょっと穴を越え、町小路に出た。
「こっちがぼくのおうちね」
男の子は正面の築地を指さした。
男の子が言うに行きは木に登って外に出たらしいのだが、帰りはそうも行かないので俺は門から入る事にした。言うまでもなくそれが常識だ。だが、その築地は延々と続いていて門は遥か彼方だった。聞いてみると東には馬場があるから門は北寄り造っているとの事で、南門に向かった方が早いんだそうだ。故に俺は二条大路出て、南の門番に事情を話して中に入らせて貰い、さり気なく造られた小道を歩き始めた。その間も男の子は手の平にふーふーと息を吹きかけている。
「僕、えらいね。怪我しても泣かないんだもんね」
…比べて夢見て泣いてる俺は何なんだ? 俺が話し掛けると男の子は顔を上げ、にっこり笑ってこう言った。
「だってぼくが泣いちゃうとね、おたあさまも泣いちゃうの。だからね? ぼく泣かないの。お兄ちゃんも泣いちゃダメよ。お兄ちゃんのおたあさまも泣いちゃうから、ダメよ」
舌っ足らずだが、言い含めるような言い方に俺はムッとなって立ち止まった。
「お兄ちゃんのおたあさまはね、ずっと昔に死んじゃったんだよ」
何故だか『どうだ参ったか!』と言う口調になってしまった。が、男の子はふるふると首を振った。
「ちがうよ。おとうさまが言ってらしたもの。人はね、死んじゃってもね、ずぅっとぼくたちを見まもってくれているんだよって、おとうさまが言ってたもの。ほんとよっ」
よっぽど俺が不審そうな顔をしていたのだろう、男の子は頬を紅潮させた。
「ほんとにほんとよっ! ぼくのお姉さまも、ぼくが生まれるまえにお亡くなりになっちゃったけど、ずっとずっとぼくのそばにいてくれてるの。今はいらっしゃらないけど、いつもはぼくのそばにいて下さるのっ! だからね、お兄ちゃんのおたあさまもね、ぜったいにお兄ちゃんのそばにいて、お兄ちゃんを見まもってくれてるの!」
真剣な眼差しで俺を見つめてこの幼子が言った時、俺は母上の最後の言葉を思い出した。
『ごめんなさいね、時雄。小さなあなたを遺して逝ってしまう母様を許して。…でも、これだけは覚えていてちょうだい。わたくしはいつまでもあなたの側にいて、あなたを見守っている事を。だから悲しい事があったなら、心の中にしまってしまわないで、わたくしにお話しして。決して一人で泣いたりしないで…』
そうだ、母上はこの幼子と同じ事言っていたのだ。なのに俺は父上を恨んで自分の殻に閉じこもっていた。
「そ…うだね。お兄ちゃん…、そんな大事な事…すっかり忘れてたよ…。ダメだなぁ」
涙がこぼれ落ちそうになって俺は慌てて空を仰いだ。
「お兄ちゃん?」
小さな小さな紅葉の手が頬に触れた。その暖かさが心の奥にまで染み込んで、凍て付いた感情を溶かしてくれた。
「何でもないよ…。そうだっ、僕のお名前は何て言うの? お兄ちゃんの名前はね、賀茂時雄………。ううん、時守……、賀茂時守って言うんだ」
「お名前? しのぶだよ。ふじわらのしのぶってゆうの」
「しのぶ…忍君、よしっ、今日のお礼にお兄ちゃん、忍君に約束するよ。いつか忍君がご元服なさったらお兄ちゃんは忍君お仕えするよ」
「きょうの…お礼? ぼく、お兄ちゃんになにかしてあげたっけ?」
いきなりの主従の誓約に忍君は混乱しているようだ。
「うん、忍君はお兄ちゃんを助けてくれたんだよ」
「?????」
呪縛から解き放たれた今、俺は何でも出来るような、何にでも成れるようような気がしていた。
そして、俺を呪縛から解き放ってくれたこの幼子に何かをしてあげたくて仕方がなかった。
でも今の俺には何の力もない。
この時俺は決心した。忍君にお仕えする為に立派な陰陽師になる事を。
きっと忍君は俺が命懸けで付いて行けるようなご立派な方に成られるに違いない。
きっと俺は忍君が必要とする人間になるに違いない。
そんな予感が俺の中を駆け巡っていたのだ。
「お兄ちゃんは忍君のために働いて、忍君のために生きるよ」
「?????」
一方的に誓って歩き始めた俺は遥か向こうに寝殿を見渡せる池の畔に辿り着いた。やっとだよ。そこは息を飲むくらい、それこそ隣の家なんか比べ物にならない程の広く美しい御殿だった。
俺は驚きながら平橋、中島、反橋を越え、涼しげな釣り殿を横目に寝殿の階まで行って、そこにいた女房に忍君の怪我云々を説明した。忍君は女房に連れられて東の対に消えて行った。手を振ってお暇しようとした時、なんと忍君の母上様の涼子様が珍しい唐菓子を下さったのだ。
涼子様はとってもとってもお優しく、お美しい方だった。どうも忍君はお母様似らしい。そして着替えと手当の終わった忍君や涼子様に見送って戴きながら、俺は瑞泉院と呼ばれるこの美しい御殿を後にした。
隣の邸に帰ると、あのクソガキ共が遠くから俺を睨んでいたが、俺が懐に手をやると慌てて逃げ隠れてしまった(ふんっ)。
その夜俺は久しぶりに自分から父上に話し掛けた。母上が亡くなって以来の事なので、父上はかなり驚いていらした。俺は昼間あった事を(あのクソガキ共の事もだ)話してから、
「──父上、母上は今でも僕の側にいて、僕の事を見守って下さってるんですよね」
と尋ねると、父上は盃を片手に少々間を置かれてから、
「──………うむ」
と答えて下さった。後日談だが母上はこの時安心なさって昇天なさったそうだ。
その日から俺は意欲的に勉学に励み、父上をお師様と呼ぶようになった。弟子として父上に仕え、宮中にお付きすると童殿上なさった忍君を見掛ける事もあったが、声は掛けなかった。忍君も俺の事など忘れてしまったように東宮様と御所中を駆け回っていた。だが、それでも構わなかった。あの日の予感はほんの僅かづつだが、日増しに強くなっていたからだ。
そして瞬く間に時は流れ、再会を果たしたあの日が来た時、目が覚めた。格子の隙間から漏れ入る光はない。夜は未だ空けていないようだった。
「ん……。もう、朝なのか?」
俺が身じろぎしたからか、忍君が目を覚まして身を起こした。ずっと彼女の枕になっていた為、酷く痺れていた腕が悲鳴を上げた。が、俺は耐えた。男ってけなげ…。
俺は白く細い背中に小袖を掛けてやり、自分の衣を整えてから格子を上げた。忍君も衣を整えると、立ち上がって格子に手を掛け、冬の星を見上げた。途端、肌を刺す冷気に触れて身を震わせる。俺が後ろからそっと抱き締めると忍君はコツンと頭を俺の胸にもたれ掛けさせた。衣を通して忍君の温もりが伝わって来る………。
俺は今宵の余韻を噛み締め、
ちはやぶる 神の斎垣を越えるとて
絶える命ぞ 惜しくもあらなむ
(立ち入る事の許されない神域を犯した罪で罰され、命を落としたとしても俺は後悔なんかしたりしない。我が人生に一片の悔いなぁ──しっ!)
と、詠んだ。一応、本っ当に一応、後朝の歌のつもりだった。
一方忍君は物凄くビックリしたように振り向いた。俺が歌を詠んだのがよっぽど意外だったみたいだ。失礼な。が、気を取り直すと、
契りきな 人の命の絶えるとも
千代に八千代に 縁は絶えじ
(約束してくれたでしょ? たとえ命が絶えたとしても永遠に二人の結びつきが絶える事はない、と。だからね、覚悟なさい。死んでも放してやらないからね)
って詠んでくれたのだ!!! 俺は感極まって更に強く忍君を抱き締めた。
「く…苦しい。時守、苦しいよ」
「あっ、すまんっ」
忍君の呻き声に俺は慌てて腕を緩めた。
「ふ──っ。で、時守。とりあえずこれからどうする?」
息を整えた忍君は俺の腕の中、俺を真っ直ぐ見上げて問い掛けた。俺がどんな答を返すのか、と楽しんでいるらしく、その声は弾んでいた。
「とりあえずあんたはどうしたい?」
俺が逆に問い返すと忍君はニッコリ幼い頃と同じ微笑みを浮かべて爪先立つと、軽く唇を触れ合わせた。
「とりあえず…。忍ぶ恋から始めよう」
俺も笑顔で応え、そしてもう一度、深ぁく愛し合ったのだ。
おわり