時は蓬莱の件より一月半が過ぎた霜月の十日余り一日。場所は瑞泉院ではなく、六条東洞院に在る忍君の邸、六条の宮。
ここ六条の宮は一昨々年に御薨去遊ばされた先の后の宮、承明門院様がご所有なさっていた御殿で、忍君が三位を除された折り、お祝いがてらに寿禄院様が地券の名義を忍君にお譲り遊ばされたのだ。………庶民とは贈り物のスケールが違う…。
その六条の宮で、俺はやっとこ帰ってきて、やっとこ一段落の着いた忍君の琴の琴に耳を傾けながら、盃を重ねていた。
今はこぉんなにのんびりしているが、忍君の俗聖宣言は出家宣言に勝ると劣らず京を席巻した。
それまでの俺は忍君を出家から思い留めた、と言う事で主上、東宮様は勿論、大勢の大貴族の方々から沢山の感謝と謝礼を戴いていたのだが、俗聖を唆した張本人、と一気に憎悪の的になってしまった。トホホ…。
が、根が楽観的な大貴族の方々は出家しないだけまし。これからゆっくり懐柔していけばいい。と険悪なムードは直ぐに収まった。
また忍君の考え通り主上も東宮様も時々の仏道修行を認める代わりに、位も官職もそのまま出仕せよ、と厳命を下された。こうなると、はっきり言って俗聖とは言えない。
まぁ、忍君が言うに、結婚さえ避けられればいい訳だから、詳細には拘らないんだそうだ。
しかし、忍君の件は収まる所へと収まったが、また新たなニュースが持ち上がっていた。それはと言うと………。
「まっさか、太政大臣様が桐壺の女御様のご後見なさった上に、姫君方を引き取られるとわなぁ」
宮中の最要職であり、東宮様の寵も厚い桐壺の女御様の後見役であり、東宮を補佐する東宮大夫でもある左大臣が廃人になってしまったのだ。この事実にそこいらの貴族連中が色めき立ったのは言うまでもないだろう。
今まで左大臣の権勢に怯えて入内を諦めていた上級貴族が、絶好のチャンスとばかりに後宮政治に乗り出したのだ。誰もが桐壺の女御様の没落を、世の乱れを予感した。そんな時にだ、太政大臣様が後見役に名乗り出たからさあ大変。先を競って入内を試みた方々には正に青天の霹靂だろう。
それはともかく、俺の言葉に忍君も「そうだな…」と呟く。
「父上は元来、お人好しな所がお有りだからな。それでも私が言い出さなければ、お思いつきにもならなかっただろうな」
切りの良い所で指を止めて、忍君は盃に浮かぶ月を飲み込んだ。
「ふーっ」
少し頬を上気させながら溜め息を吐くその姿は妙に色っぽかった。しかもこの冷気の中、かなり薄着なのだ。俺はただ単に狩衣の襟を解くだけに止まっていたのだが、忍君は小袖と指貫の上に袿を羽織るだけのラフ…、と言うよりもラフすぎる格好だった。
さっき「寒くないのか?」と尋ねたところ、「蓬莱の山荘に比べれば春も同然だ」と言う頼もしいお言葉が帰ってきた。
ま、それはさておき。この格好だと結構胸の有無が分かるのだ。故に少し俺はどぎまぎしながら酒を飲んでいた。………もしかして忍君は俺の事を男だと思ってないんじゃないのか?(しーん)
落ち込み掛けた俺は自分に喝を入れて気を取り直し、会話を続けた。
「何だってそんな事を………。あの姫達はあんたにとって敵の娘だろうに」
「親の悪行と子は関係ないさ。それに五年前にお亡くなりになった女御様の母宮は母上の妹宮でいらしたし、私自身女御様には童殿上の頃からよくお世話になってた訳だし………。まぁ言うなれば恩返しだな。うん」
忍君は自分自身の言葉に納得したように、うんうん頷いている。
「お世話になったって、具体的に言うと?」
「ん──、怪我した時に手当をして戴いたとか、遊びに行くといつもお菓子を下さったとか………だな」
「なるほど…」
そう呟くと俺はちびりと酒を呑んだ。うーむ、忍君に恩を売ると数倍になって返ってくるんだな。──よしっ、覚えておこう。
「母上も三の君を実の娘のように可愛がっておいでだし、とても生き生きとしていらっしゃる。私の考えは間違ってなかったようだ」
俺の馬鹿げた考えも知らず、忍君は心底嬉しそうに微笑んでいる。
「それに女御様が男の子皇子をお産み遊ばせば、それはそれで太政大臣家は左団扇だしね」
「なるほど…」
意外と打算的な面もあるのだ、この人ぁ……。
「桐壺の女御様と言えばさぁ」
「ん?」
「前々から聞きたかった事が有ったんだけど………。いいかな?」
「? いいけど?」
おどおどした俺の様子に忍君は怪訝に首を傾げながら頷いた。
「あ、あんたと、薄氷の君のカンケーって一体………」
そう! これがずぅっと俺の中で堂々巡りになっていた疑問なのだ。俺の頭の中はいけない想像で一杯だった。
「ああ、薄氷の君ね。勿論彼女は私が女だって事を知ってるよ。でも、お前が思ってるような関係じゃないから安心しろ」
「………」
全部顔に出ていたのか忍君はくすくす笑いながら話し始める。
「二年程前の事だったな。院のお使いで宇治のある寺に行ったんだ。その時月夜に誘われて川沿いを馬で駆けてたら、一人の女が橋の上から身を投げた」
「!」
「そう、それが薄氷の君だ。私は直ぐさま真友に助けさせて寺に連れ帰った。そして目を覚ました薄氷の君に事情を聞いたんだ。なんでも将来を誓い合った男が死んでしまって、その上、親が無理矢理に縁談を進めるから、思いあまって自殺しようとしたらしい」
「へぇ、あんな儚げな人なのに…。思い詰めると女って怖いなぁ」
苦笑して忍君は相槌を打つと続きを話す。
「ほっといたらまた自殺しそうなんで、私はこう言ったんだ。『私の恋人になってくれないか?』って。さて、薄氷の君はどう応えたと思う?」
「どうって、結局あんたの恋人になってる訳だから、OKしたんだろ?」
「はずれ。きっぱりと断られたよ」
「ええっ?」
驚く俺に忍君は指で×を造ってペロッと舌を出した。
「相手がたとえ主上だろうと気は変わらない、って。それを聞いて私は総てを打ち明けたんだ。その上でもう一度同じ事を言ってみた。薄氷の君はしばらく考えた後、何て言ったと思う? 『わたくし達はお互いを利用し合うのですね? 分かりました。そのお話謹んでお受け致します』って言ったんだぞ」
「へぇ、よく冷静にそんな事考えられたな」
「ああ、聡明な女性で助かったよ」
「えーとつまり、薄氷の君はあんたにとってノーマルだと思わせる為のカムフラージュで、あんたは薄氷の君にとって親から望まない結婚を強いられない絶好の風除けって訳なんだな?」
「その通り。どうだ、納得出来たか?」
「ああ………」
俺の中ではまだまだ聞きたい事があったんだが、さすがにそれを聞くと殴られそうなので止めておく事にした。
だが、黙っているとバカな事を口走ってしまいそうなので、話を変える事にする。
「そういやぁ、なんでいきなり六条の宮に越したんだ?」
「ん? ああ、新白砂殿が完成するまで瑞泉院が女御様の里内裏になるだろ? それに左大臣家の人間が結構うちに来たからな」
「つまりなんだ、瑞泉院の人口密度が増えて、余計な人間が周囲に出没するようになったからか?」
「その通り。一日でも早く新白砂殿が完成する事を祈ってくれ。それまで侘びしい一人暮らしなんだから」
深々とため息をつく忍君に俺は少し(贅沢な……)と言う風に眉を寄せた。
「いいじゃないか。こぉんなに綺麗で、こぉんなに立派で、こぉんなに由緒正しい御殿に住めてさ。俺なんかなぁ、どんなに頑張ったって陰陽頭だぜ? 父上からあの邸受け継いで終わりなんだぜ?」
あーっ、なんか卑屈になってる。言ってから後悔して溜め息を吐いた俺に、忍君は再び琴を爪弾き始めながら、
「そんなにここが気に入ったんなら、住めばいいじゃないか」
と実に事も無げにいったのだ!
「お、おいっ!」
「西の対も東の対も東北の対も空いてるからどこでも好きな対を選べばいい」
俺の焦った声にも気付かず、目を閉じ、妙なる美音を紡ぎ出しながら忍君は言う。
こ、こいつやっぱり俺の事、男だと思ってないんじゃ無いのか? それとも自分の事を女だと思っていないのか? それともそれとも、安全な男だと思われてるのか? あっ、………もしかして、誘って………なんてあるわきゃないっ! ああ、どれかって言ったら、三番目のような気がする…。
「? どうした? 複雑な顔をして…。あっ、もしかして迷惑だったのか? すまない、勝手な話をしてしまった…」
「違うっ、絶対に、断じて迷惑なんて事はないっ!!」
「そ、そうか? よかった。じゃあ、いつでもいいから移って来い。なっ?」
「………」
物凄く残念そうな忍君の表情に思わずああ言ってしまったが、………いいんだろうか? いや、俺は勿論厭じゃない。断じて決してそんな事はない! でもなぁ…。忍君の言葉に裏なんかないみたいだし、このままじゃ蛇の生殺し状態に陥るんじゃ………(しーん)。
一人悶々と思い悩んでいると、美しい琴の音が心に沁みて、思考は更に深く沈み込んでしまった。
「くしゅんっ」
不意に音が止まったかと思うと、忍君が一つくしゃみをした。季節は仲冬。冬真っ盛りなのだ。併せて夜も更けているので大概寒い。寒がりな俺としては皮衣の一枚や二枚や三枚、四枚程引っ被りたいくらいなのだ。そんな冷気の中、こんな薄着をしていればくしゃみの一つや二つ、当たり前だろう。
「もう少し着込まないと風邪ひくぞ?」
「みたいだな……。うーん…鈍ったのかなぁ。…くしゅんっ」
更にもう一つ。
「おいおい、大丈夫かよ。──おいっ、めちゃくちゃ冷たいじゃないかっ。まるで氷みたいだぜ」
何気なく触れた忍君の手は氷水に浸けてたんじゃないのか? ってぐらい冷たかった。
「お前の手は暖かいな…。まるで温石みたいだ」
忍君は子供のように無邪気な笑顔で俺の手を握り返してきた。………なかなか良い雰囲気じゃないか?
「そ、そう言えば、あのお姫様方はどうしたんだ? 姿が見えないけどさ」
俺は急に天敵の存在を思い出してしまった。
そう、あのお姫様方は復讐を果たして成仏するかと思いきや、ずっとこの世に居座り続けているのだ。
俺がさっさと成仏しろと言わんばかりの目線で理由を尋ねた時、お姫様方は口を揃えて、
「わたくし達の目的は復讐だけが総てではありませんわ。何と申しましても、わたくし達の最終的な願いは、忍(様)の幸福な生涯を
見届ける事ですもの。ね──?」
とほざきやがった。何が〈ね──?〉だ。何が。ったく、冗談じゃねーよ。
はっ、………いかんいかん、つい柄が悪くなってしまった。だが、その時のショックを思い出して憮然となった俺に気付かず、忍君は、
「それぞれ実家の方に帰っておいでだよ」
とあっけらかんと答えてくれた。
「へっ、実家ぁ?」
「うん、今までずっと私のお相手をして下さってただろ? だから桃生の宮様と大姫様は殆どご両親のお顔を御存知ないらしいんだ。当面の厄介事も片付いたし、皆様ご存分に羽を伸ばしておいでだよ」
「へ──っ。そーなんだ」
やった! 天は俺に味方したっ! 俺は心の中でガッツポーズを決めた。
「くしゅんっ!」
三度目のくしゃみ。俺は思いきって手を広げ、忍君を包み込んだ。
「こ…の方が暖かいだろ?」
下心の所為か上擦る声が情けない。
「………」
内心ビクビクしている俺の心中を透かし見るかのように、忍君は無言で俺の目を覗き込んだ。うわ──っ、誰かこの沈黙を何とかしてくれぃっ!
「………うん。暖かい」
漸くそう言ってくれると忍君はその細い身体を擦り寄せてきた(ホッ)。
「そ、そうか? よかった…」
「あっ、そう言えば宮様が………」
「えっ? あの姫宮が何だってっ!?」
一番の天敵が話題に出てくると、情けない事だが、俺の身体は条件反射で強張ってしまうのだ。
「何って…、
〈先の件ではよく頑張って下さいましたから、わたくし達からご褒美を差し上げますわ〉
っておっしゃってたぞ」
「ご褒美…?」
「ああ、何かは知らないけど、良かったな」
あどけない笑顔だ。………もしかしてご褒美って──。
「あの…忍君?」
「ん?」
「………」
き、聞けないっ。俺の事をどう思っているかなんて。
「どうしたんだ?」
覗き込むその顔はとても純粋で、とても無邪気で…。ちくしょうめっ。とてもじゃないが聞けないよぉっ。
「どうしたんだ時守、何泣いてるんだ? 頭が痛いのか? もしかして寒かったから熱が出たのかな? どれ」
「!!!!」
なんと忍君は熱を計るつもりか(それしかないが)額を突き合わせてきたのだ!
「俺って…、俺って、あんたにとって何なんだ?」
至近距離に迫っているその愛おしい顔に血が逆流してしまい、聞けなかった言葉がポロリと口をついて飛び出した。
額をくっつけたまんま忍君の目がまん丸になった。その瞳の中には情けなさそうな、自信のなさそうな俺がいる。
しばらくそのままで見つめ合った後、忍君は華もほころぶような艶やかな笑みを浮かべる。
「こんなのだよ」
──俺の唇に柔らかくて、そして少し冷たい唇がそっと重なった。
つづく