陰陽師 弐

春訪れて華咲き乱れ

がっこん。

驚きのあまり硬直し力が抜けた博雅の手から、ものの見事に瓶子が落下した。
そんな博雅の反応に晴明は溜め息を付きながら「やはりこうなるか・・・」と呟き、深雪は驚きのあまり目を見開き博雅を見る。
「・・・・・・・・」
「・・・・・ひろまさ、瓶子が・・・」
「勿体無いことをするな。・・・・おい、綾女」
「はい」
主の命で立ち上がり、綾女はするすると歩み寄り博雅の足元に転がった瓶子を拾う。
なんとか無傷だったらしいそれを主のもとへ運ぶと、もと居た場所へ静かに座る。
「・・・・な・・・ど、どうなって・・・・」
「どうした博雅」
「どうしたって・・・一体どういう事なんだ!!?」
「ひろまさ。どうしてだか深雪にもせいめいにも分からないんだ」
肩を震わせ激しく狼狽する博雅とは対照的に、晴明と深雪、その後ろに控えている顔馴染の式達はいたって落ち着き払っている。

博雅が晴明邸を訪れたのは実に五日ぶりだったりする。
帝の写経を納めるため、遠方の寺に赴いていた。今日になってようやく自分の屋敷に戻ってきた博雅は、愛娘の顔見たさにろくすっぽ休みもせずに瓶子をぶら下げやって来たのだ。
『愛娘』とは無論深雪の事を指す。数ヶ月前に一条戻り橋で博雅が拾った化生の童女である。常ならぬその姿を配慮し、屋敷の外には一歩も出していない。
「な、何故このような・・・」
「知らぬ。皆目見当がつかない」
「こうなったのも四日も前ですものね」
「最初は驚きましたけど、もう見慣れてしまいましたわ」
「博雅様もすぐに慣れますわよ」
のほほんと笑みまで浮かべる式達。博雅はいまだ仁王立ちしたままで,晴明の傍らに座っている深雪を凝視する。
違う。自分が知っている深雪とは、明らかに違う。
具体的に深雪の何処がどう違っているというのか。目に付くところから挙げてみる。

白銀の髪が見事に伸びている。華奢な手足がすらりと長くなっている。
成人のしるしである裳を纏っていて、少女らしさのなかに美しさが感じられる。
ついでに、座っている頭の高さが以前よりも大分高い。

―――わずか数日の間に、深雪は華やかな変貌を遂げていた。


一気に飲み干した杯を、勢いよく床に叩きつける。
博雅の荒々しい所作に顔を顰めながら、深雪は空の杯に並々と酒を注ぐ。
普段ならそこで一言「ああ、すまぬ」とでも言うところだろうが、生憎この時の博雅にはそのような余裕が無かった。
注ぎ終わると同時に杯を取り、再び一気に飲み干す博雅。やはり床に叩きつけられた杯に酒を注ぎなおそうとした深雪は、不意に感じる視線に手を止め顔を上げた。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
疑心暗鬼な眼で自分を見つめている博雅を深雪も負けじと見つめ返す。幾分か不機嫌の混じった瑠璃色の双眸に、博雅はようやく吾に返った。
「・・・・す、すまぬ・・・・・」
「いいかげんにしろ。人のことじろじろとみてて、いやになる」
「いや、本当にすまぬ。・・・・・その、どうしても信じられなくてな・・・・・」
「信じられぬのはいいが、じろじろ見るのをやめろ」
「・・・・・・・すまぬ」
顔を見なかった数日のうちに成長した深雪は、口調こそ変化は無いが明らかに声が大人びている。何処ぞの姫君が自分の傍に居るようでどうにも落ち着かない。

真っ向から見ることが出来ず、博雅は横目で盗み見るように深雪を窺う。
僅かに伏せられた目許。その長さに影を落とすまつ毛。変わらずに白い肌。
面影こそ残ってはいるが、その少女からは明らかな色香が漂っているのが分かる。
ついこの間まで自分の膝に乗って居眠りをしていた筈の童が、僅か数日目を離した隙に女性になろうとしている。
博雅はなんとも言えない複雑な気分になった。
「・・・まさか五日見なかっただけで、こんなことになるとは・・・・・・」
知らず重い溜め息が出て、それがまた博雅自身をへこませた。
いくら身体が成長していようと深雪の中身はまだ子供のままである。博雅がここまで沈んでいる理由が分からず、声をかけようにも何を言えば良いのか思いつかない。
ほとほと困り顔で博雅の顔を覗き込む深雪を見て、晴明は呆れたように言った。
「博雅、いい加減浮上したらどうだ。深雪まで暗くなってしまう」
「・・・・・・・深雪がか?」
「そうだ。―――好いた者が目の前で落ち込んでいたら、深雪も辛いだろう」
「好いた者?俺が?」
「当たり前だ。深雪が今こうして毎日平穏に暮らしていられるのは、博雅が助けたからだ。その恩人がそのように暗くなっていれば、深雪も心苦しいであろう」
そう言ってするりと手を伸ばし、晴明は深雪の頭を撫でる。
深雪は嬉しそうに晴明へ擦り寄り、白い狩衣の肩口に頭を預け微笑む。
初々しい恋人同士のようにも、年の離れた兄と妹のようにも、以前と同じく親子のようにも見えてしまう。
それはやはり、深雪の笑みに邪気が無いせいだろう。
外見年齢相応とは言えない明朗な笑顔。まさしく子供そのものの素直な感情表現。
思ったことを隠そうともせず、口にしなくとも全て顔に出てしまう。

―ああ、本当に心は何も変わっていないのだなぁ。

数日前と同じ柔らかな深雪の表情に、博雅はようやく心の靄が晴れた気がした。



眠気を誘う春の陽気。
誘われるままにうとうととし始めた深雪は、そのまま晴明の膝に伏せる。類を見ない希代の陰陽師・安倍晴明の膝を無言で拝借出来る者は、後にも先にも唯一人。
晴明の方も別段どうと言うわけでもなく、自分の膝にかかった重みをちらりと見ただけで酒を飲む。
誰も何も言わず、ゆっくりと静かな時間が流れる。
実のところ晴明は博雅に話したいことがあるのだが、それを切り出せないでいる。
表面上これといった変化を見せているわけではないので、博雅の方もその事に気付いていない。数刻前までの落ち着きの無さはとうに消え、始終笑みを浮かべながら肴をつまみ、酒を飲み、急激に成長した愛娘の寝顔を愛でている。
「―――やはり深雪は深雪だな・・・」
「そうか」
「ナリは成長していても、寝顔は少しも変わっておらん。なんだか安心したよ」
「・・・・・・・・・」
「晴明?」
「―――確かに寝顔は変わっておらんが・・・俺は正直まいっておる」
その言葉に博雅は晴明の顔へと視線を上げる。珍しく焦燥しきったような彼の表情。
その晴明の視線は、苦々しげに膝の上にある深雪の寝顔へと向けられていた。
「・・・・・毎日だ」
「・・・・・何がだ?」
「深雪はな・・・毎日俺と寝ておる」
「寝てって、眠ってるんだろう?それがどうしたんだ」
「分からぬか」
「何をだ・・・?」
話が読めず小首を傾げる博雅に頭痛を覚えつつ、晴明はなおも話を続ける。
「五日前の晩には、深雪はまだ童のままだったのだ。まさか翌朝には成長しているなんて思わんだろう、普通。だからその晩もいつもと同じように寝ていたのだ」
「うん」
「それがどうだ。朝になって目を開けてみれば、隣には共寝した覚えの無い妙齢の女の寝顔だ。最初から深雪だと知っていたとしても、あれは心の臓に悪い」
「・・・・・・・」
妙に切羽詰まった晴明の口調に、博雅はただ首を傾げる事しか出来ない。
「・・・そりゃあ、いきなり大きくなっていれば驚くのは当然だろう。俺だって驚いた。だが深雪は深雪だろう?何故今更になって晴明がまいるような事があるのだ?」
「―――博雅。お前は本当によい漢だな」
「は!?なんだ突然!!」
「とどのつまり、深雪は一晩のうちに成長しただろう。だが中身は変わっていない。心は童のままなのだ」
「ふむ」
「立ち振る舞いから考え方まで、以前と変わっていないのだ。だが子供のうちは問題のない事でも、ある程度に成長したらやめたほうが良い事もある」
「?まあ、そうだな」
「しかし深雪は何も変わっていないし解っていない。だから毎晩遠慮も無しで俺の部屋に来て、一緒に寝ようとするのだよ・・・・・・」
深々と重い息を吐き出し、晴明は自分のこめかみを人差し指で押さえる。
晴明の言わんとすることがやはりイマイチ理解できていない博雅は、遠慮も配慮もあったもんじゃない結論を導き出す。
「いいじゃないか。今までどおり、一緒に寝れば良いだけだろう」
「良くないっ!!!!」
間髪いれず言い返した晴明は力一杯に床を叩く。予想だにしない反応に博雅は吹き出しかけるが、どうにかそれをくい止めた。
「なっ・・・なんなのだ!深雪はお前と寝たいのだろう!?なら寝れば良かろう!!」
「良いわけがないだろう!このままでは蛇の生殺しだ!!」
「はあっ?」
「お前本当に分からぬのか!?よい漢もそこまでくると厭味だぞ!!」
「そりゃお前が勝手に言ってるんじゃないかっ!!」
「兎に角な、俺の身にもなってみてくれ!毎晩毎晩傍らで女が寝ているのだ! 妙齢のだぞ!? 赤の他人でもないのだ! 気が気じゃないのだよ俺はっ!!!」
「!!!」
ようやく晴明の言わんとすることが理解できたらしい。言葉を失った博雅は口に運びかけていた肴を落とし、見る見るうちに顔を赤くする。
あわあわと両手を漂わせ、鯉のように口をぱくぱくさせている。数十秒間言葉を捜し辺りに視線を彷徨わせ、ようやく思いついたように晴明に向き直った。
「・・・ってまさか晴明!お前深雪が気を許しているのをいい事に・・・・」
「するかっ! してたら今こうしてまいってはおらん!!」
「そ、それもそうだな・・・」
「その程度の道徳観念は俺にもある。理性だ! 理性で耐えておるのだ!!」
ここまで熱くなっている晴明を見たことが今までにあっただろうか。
まったくなかったとは言い切れないが、そうそうお目にかかれないのも確かである。
「ああああ〜くそっ!!」
苛立ちを隠すこともなく酒を飲み干し、意味のない奇声を上げる晴明。
余程煮詰まっているのだと悟り、博雅は遠慮がちに口を開いた。
「その・・・こう言っちゃなんだが。お前、溜まってないか?」
「今頃気付いたのか」
「―――。なら、適当な姫君に文でも出して通ってはどうだ?」
「・・・・・・・」
至極もっともな意見だろう。当時の恋愛様式というものは現代に比べ大分大らかである。気に入った女性と歌のやり取りをし、両者で想いが疎通された場合は男性の方が女性の屋敷へと通う。現代のような嫁入り婚ではなく、妻問い婚(婿入り婚)が主流であったし、一度に数人の相手のもとに通うことも珍しいことではなかった。
「適当と言っては通われる方の姫君に失礼だが、かといって深雪に何かあったら俺は困る。晴明、気に入っている姫君の一人や二人いないのか?」
「・・・・・・・・」
「お前はモテるだろう。言い寄る女人は幾らでもいるだろう。なら我慢せずともよいではないか」
「・・・・・・・・博雅」
「ん?」
「確かにな、その気になれば通える女人の一人や二人はいる。だが間に合わせで契りを交わしたところで、欲求は満たされても心は満たされぬだろう」
「む・・・そりゃそうだが」
実直で素直な博雅なのだから、晴明の言うことは十二分に理解出来る。しかし、だからと言って深雪に万が一の事があっては大問題なのだ。

どうしたものかと唸り始める博雅に、晴明は一条の光を差した。
「丸く収まる方法が無いわけではないぞ、博雅」
「!!本当か!?」
「ああ、簡単なことだ。・・・・深雪を博雅の屋敷に連れて行ってくれればいい」
「何ぃっ!!?」
深雪が晴明の屋敷で暮らしている理由は以前に述べたとおり、常ならぬ姿である事を配慮してである。晴明の屋敷に居るのは本人とその式神。しかし博雅の屋敷には多くの家人が仕えている。なるべく人目を避けるには、晴明の屋敷の方が断然都合が良いのだ。
「家人達にどう説明しろと言うのだ?人の出入りも多いのだ。深雪の髪色を見て良からぬ噂をたてる者が居ないとも限らん」
「それはどうにでも出来る。幻術を使えば、他の者には黒髪に見えるようになる」
「深雪が嫌がるかもしれぬぞ?」
「ならば博雅。俺が辛抱できず深雪を押し倒しても良いのか」
「駄目に決まっておる!!!」
「だったらどうにか言い包めてここから連れ出してくれ。でないと深雪の身の安全は保障できんぞ」
「・・・・・・分かった・・・」

それから一刻ほどして目を覚ました深雪に、博雅は何食わぬ顔で話を持ちかけた。
「深雪、お前この屋敷の外に出てみたくはないか?俺の屋敷に来ても良いぞ」
「行きたい!外に出ても良いのか!?せいめい!!」
「ああ、構わぬ。しばらく博雅のもとで遊んでこい」
「うんっ!!」
いともあっさり頷いた深雪に「怪我をしないための呪文」と偽って幻術をかけ、二人を送るための牛車を出してやる。晴明の心情など露知らず、牛車の中から嬉々として手を振る深雪。

穏やかに手を振り返す晴明が 陰で安堵の溜め息を付いていた事など知る由も無い。



あとがき
【第二段書いて早々お詫び】

やってしまいました・・・ロリ晴明さま・・・ああっ!!
本当は一話完結で深雪ちゃんも子供に戻す筈でした。
なのに何故こうなってしまったのでしょう?
謎は深まるばかりです・・・・(オイ)。すみません!
女の子は十二〜十四歳くらいで結婚前に『裳着の儀』
なる儀式をして成人となります。元服みたいなモンですね。
ちなみに結婚できるのは十三歳くらいからだそうです。
おっきい深雪ちゃんは現代の数え方で十五〜十六歳、
小さい深雪ちゃんは五歳〜六歳くらいのつもりで書いてます。
つまり大きい方の深雪ちゃんはもう婚期ってことですな!
相手は誰だ〜?(ヤメロ)
今回微妙にアダルティーな会話してる男衆でした・・・・・。
ペース早いぜ! 祝 第二段!

いやはや、読んでてドキドキしましたよ。
深雪ちゃん危うし! それとも、晴明様危うし!? そして博雅危うし!!?

うははは、一体博雅はどういう目にあっちゃうんでしょうな!?
仮にも(?)宮中の血統正しき大機族の彼が紫の上よろしく美少女を連れて帰ったんですからねぇ……。
ぷぷ、予想するだけで笑いが止まらない〜〜。

蓮美さん、毎度毎度の事ながら続きを楽しみにしております!
|| Back || Top || Next ||