陰陽師 弐

随身・俊宏 白雪の君に心奪われること

「俊宏どの、とのがお戻りになられましたよ」
御簾の向こうから声をかけられ、俊宏は手にしていた筆をぱちりと置いた。
「博雅様が?こんな早くお戻りに?」
「はい、牛車で。・・・・・それでその・・・・」
「?」
「その・・・女人をお連れになっているんです・・・・」



俊宏は走る。
それを見た女房達はあからさまに顔を顰めるが、そんな事には構っていられない。
懐から扇が抜け落ちる。それにも気付かない。
「俊宏どの、扇が落ちましたよ」
「俊宏どの?」
「俊宏どの―っ!?」
山彦のような家人達の呼び声もこの時の俊宏の頭にはまったく入ってこなかった。

長い渡殿を駆け抜け、車宿に辿り着く。見慣れた主の後姿を見つけ、俊宏は思わず大声を出していた。
「博雅さま――――っ!!!」
「おおっ!!?」
反射的に振り返った博雅に、深呼吸しながら詰め寄る。随身と主という立場の差はこの二人の間に存在しないらしい。
「ど・・・どうしたんだ俊宏」
「どうしたもこうしたもありません!どういう事ですか!?」
「へ?」
「とのが・・・・にょ、女人をお連れになったと・・・っ」
「あー・・・・」
返事とも取れぬ曖昧な言葉になおも口を開きかけた俊宏だったが、割って入った声に思わず言葉を失った。
「―――ひろまさ・・・?」
「おお、起きたか深雪」
「――――!!」

咽喉の奥が張り付いてしまったのかと思った。
主である博雅の背後にある牛車。その簾が僅かに揺れ、顔を出した少女。
不意に吹き抜けた微風に煽られ流れる髪。

(――――美しい・・・・・・)

「・・・もうひろまさの屋敷についたのか」
「眠っていたから、あっという間だろう」
ご丁寧に手を取って、牛車から下ろしてやる。深雪はするりと地に降り立ち、風に乗るような軽い足取りで俊宏の前へと進み出た。
一切の言葉を忘れてしまったように黙っている俊宏の顔を小首を傾げて覗き込み、にっこりと笑って言った。
「どうかしたのか?」
「え・・・あ、の・・・・・・」
「ん?」
「・・・・・っ・・・・」
「深雪。この者の名は俊宏という。俺の随身だ。――俊宏、こちらは深雪だ。ちょっと事情があってな、何日かうちの屋敷に居ることになった」
「――深雪様、ですか」
「としひろか。よろしくな」
呼び捨てでも悪びれる様子がなく、無邪気な笑顔でぺこりと頭を下げてくる。
三人よりも幾らか離れた位置にあった牛車が、ごとりと動き出す。先導しているのは葉常である。
「ご苦労であったな。葉常どの」
「いいえ。それでは、これにて失礼させていただきまする」
「はつね、またな」
「はい――深雪様、くれぐれも博雅様にご迷惑をおかけしないよう・・・・」
ゆるゆると歩き出した葉常の後を追うように、牛車は真っ直ぐに進む。
やがて遠のき姿が見えなくなると、三人はその場を後にし寝殿へと向かった。



女房達は御簾の中から三人の様子を窺っている。
自分達の主である博雅が連れ帰ってきた少女に視線は釘付けだった。
『面が細いわね』
『唇も紅を引いたようですわ』
『変わった色の瞳をしていらっしゃる』
『なんとまあ初々しげなこと・・・』
口元に当てた扇の陰でひそひそと言葉を交わす。渡殿を歩く若い主。その後ろを早歩きで追う見目麗しき少女。数歩遅れて主の随身である俊宏が歩いている。
「ひろまさの屋敷はせいめいの屋敷より大きいな」
「まあな。それに晴明の屋敷はなんというか・・・」
「『破れ寺』?」
「そう、破れ寺のようだろう。庭も手入れをしていないし」
「草がぼうぼうだけど、みゆきはきらいじゃない」
「ふむ。・・・俺も嫌いではない」
やんごとなき血筋の殿上人、源博雅朝臣。そんな彼が子供相手に平然と呼び捨てにされている光景など滅多に見られるものではない。それだけではなく、少女の口から出た言葉の中にはあの希代の陰陽師、安倍晴明と思しき名もあった。
かたや従三位・右近中将。かたや陰陽師・天文博士。至極当然とばかりに彼等の名を呼び捨てにしているのだから、よほど親交の深い付き合いをしているのだろう。
そんな二人の会話が何一つ頭に入らない俊宏。自分の前を歩く少女をぼんやりと見つめたまま呆けていた。時折そよぐ風に乗って、なんとも言い難い芳しい香りが鼻を掠める。
たまらず小さな溜め息を付くと、それを聞きつけた深雪が歩を止め俊宏を振り返る。
「としひろ、どうしたんだ?」
「!?はっ・・・いいえなんでもありません!!」
「・・・・・・」
「本当になんでもありませんので、お気になさらず」
「・・・うん」
ドングリまなこの俊宏の顔をしばし見つめ、どこか納得がいかないような表情をしながらも背を向け歩き出す。人知れず胸を撫で下ろした俊宏も、また二人の後について歩き出す。
そのまま妻戸に差し掛かったとき、深雪は唐突に止まり足許を見る。
「どうした、深雪」
「これ―――」
忘れ去られた浅葱色の扇があった。またも呆けていた俊宏は、それを見るなり吾に返る。
「あ・・・私の扇」
そういえば車宿に向かって走っている最中に誰かに扇がどうとか言われたような気がしないでもない・・・・。
反射的にそれを取ろうと一歩踏み出すが、それよりも早く深雪が動いた。
「・・・・・・」
「はい。としひろのだろ?」
持ち主よりも先に身を屈め、深雪は浅葱色の扇を拾い上げる。客人であるにも関わらず、家人の物である扇をあっさりと拾い上げたのだ。
「――すみません」
「?べつにいいよ、これくらい」
どんな見返りも求めていないその言葉に目を見張ったまま、俊宏は受け取りざまに深雪の手に視線を送る。
白く細い手首。力を入れれば容易く手折れてしまえるのではないか・・・・。
なにやらぼんやりと思いを馳せている俊宏にはまったく気付かず、深雪は再び博雅の後に続いて歩き出した。

寝殿の一角に足を運ぶ。そこは博雅の宝とも言える多くの楽器が収めてあった。
目新しいものを見つけ興味津々といった表情で、深雪はいそいそと中に駆け込む。
爛々と瞳が輝いているのが傍目にもわかった。
「ひろまさ、ひろまさ、これはなんだ?」
「ん?ああ、和琴だよ」
「こっちのは?」
「篳篥(ひちりき)だ。その上のは竜笛」
「いろいろあるなー」
「そんなに珍しいか?」
「はじめて見た。せいめいの屋敷は本ばかりで楽器なんかない」
ずるずると衣を引きずりながら部屋の端から端まで見てまわる。そしてまた同じ位置まで戻るなり、丁度目線の高さの棚にある一本の竜笛に目がとまった。
胴の部分に二つの葉があり、一方は赤く、一方は青い。鬼の笛、“葉二つ”である。
深雪はおもむろにそれを手に取り、手触りを確かめるように撫でる。
眼の色が違った。
見えない何かを見定めるかのように、両の手で握る葉二つを見つめている。
「―――深雪様?」
「深雪?どうかしたか」
「・・・・・この笛・・・変わってるな」
独り言のような問い掛けに、博雅は深雪の手にある物を見た。
「・・・・・ああ、それはな、“葉二つ”というのだ」
「葉二つ・・・・」
「とある方と俺の笛を交換したのだ。返そうにもなかなか会えなくてな」
「そいつはヒト以外のものか?」
ごく普通に尋ねる深雪に博雅はこれでもかと目を見開き、俊宏はそんな主の反応に眉を寄せて間髪入れず言い募る。
「との!どういう事ですか!?」
「!!えっ・・・いや・・・・」
「この笛、ここにある他の物とちがう。『氣』が混じり合ってる」
「「氣?」」
「ヒトとはちがうな。ヒトよりもっとごちゃごちゃしてて、でもわかり易い」
「「・・・・・・」」
深雪は葉二つを手にしたまま、部屋中に安置されている数々の楽器を見渡した。
心地良い春風を堪能するように目を細め、心底嬉しそうな笑みを浮かべる。
「みんな、ひろまさの氣が通ってるんだ。ひろまさは、どれも大切にしてるから」
「・・・・・・・・」
「でも、この笛だけちがう。ひろまさと、ヒトじゃないやつの氣が通ってる」
「・・・・・そう、なのか?」
「うん」
笛を握る手を差し出すと、それを博雅が受け取る。過ぎた日のことを思い起こすように視線を遠くに投げ、ぽつりと言った。
「―――コレはな、宿直の晩に朱雀門で出会った鬼の物なのだ。そこで共に笛を合わせ、そして俺の笛と取り替えて・・・それきり会っていない」
「鬼のなのか」
「うん。鬼のなのだ」
「ふ−ん・・・・・」
一人困惑する俊宏を尻目に、深雪と博雅はなにやら深々と頷き合っている。
大体にして何故この少女にそんな事が判ったと言うのだろう。
俊宏も葉二つを吹いたことがある。
博雅が宿直から戻るなり「吹いてみてくれ」と言ってきたのだ。言われるままに吹いてはみたのだが、ついにはピーとも音は出せなかった。
その後も博雅の命で笛の上手な男童を探し回ったりと、はっきり言ってはた迷惑な事ばかり思い出される。まさか鬼の代物だとは思いも寄らなかったが・・・。

葉二つを吹き始める博雅の傍らに座した深雪に、俊宏は遠慮がちに声をかけた。
「―――深雪様」
「?ん」
「深雪様は何故、葉二つのことがわかったのですか?」
「だから、ひろまさとヒトじゃないヤツの氣が混じってるから・・・」
「いえ、ですから。その・・・氣、がどうとかいうのを、何故わかったのですか?」
「それか。――みゆきはな、そういうのが見えるんだ」
「見える?」
「そうだ。物だけじゃなくて・・・生きているものぜんぶ、みんなちがう氣を持ってる。ひろまさとせいめいの氣もちがうし、としひろだってちがうぞ」
「・・・・・・・(?)」
「いつも見えてるわけじゃないけどな。見ようとしなきゃ何も見えないから」
「・・・はあ・・・・」
あどけなさが残る物言いに、とりあえず理解できたふりをして頷いておいた。例え同じ説明を晴明がしたところで結果は大して変わらなかっただろう。

無心に笛を吹く博雅の耳には深雪と俊宏の声は入っていない。二人の存在自体とうに忘れているのかもしれない。
御簾の向こうは既に夕闇色に染まっている。三人のいる部屋の中は燈台のおかげで
まだ仄かに明るい。
気付かれない程度に顔を向け、俊宏は密かに深雪に見入った。

妖艶とはまた違う、華やかで清涼な色香。
振り向かずにはいられない美しさ。
もう数年経てば、おそらくは鬼をも魅了する美姫となるのではないだろうか。



「きれいだなぁ」
「は・・・」
「ひろまさが吹いてるの、はじめて聞いた」
「・・・そうですか――」
「音もきれいだけど・・・ひろまさは氣もきれいだ。やわらかくて、あたたかい」
「そうなのですか?」
「そうだぞ。せいめいの氣は――よくわからないけど、やっぱりきれいだ」
「・・・・・・」
「好きなんだ。せいめいの氣も、ひろまさの氣も。優しいのがわかる」
赤い闇に溶け込むような輪郭に俊宏は目を凝らす。僅かに窺える表情は、無邪気で朗らかな微笑。
その横顔から視線を逸らせずにいる俊宏に、深雪はふと向き直る。
瑠璃色の双眸が愉しげに和んだ。
「としひろの氣も、きれいだぞ」
「・・・・・え・・・」
「心がきれいだから、氣もきれいなんだ。哀しいとき、氣は曇る。心がよごれると氣も澱む。としひろも、せいめいも、ひろまさも、心がきれいなんだな」
お世辞でも戯言でもないのだと、俊宏は不思議と納得した。他の者が言ったのなら、こうも素直に心に響いてはこないだろう。
どこかたどたどしい少女の言葉が己の内にゆっくりと染み入るような気がする。

しばらく逡巡した後に、俊宏はぽつりと呟いた。
「――――あの」
「・・・なんだ?」
「その・・・・私は、氣というものが目に見えないし、そもそもどういったものなのか、殆ど理解できませんが・・・・・」
「うん」
「ですが・・・・・・貴女の氣とやらも、それは綺麗なのだろうと・・・思います」
「――え?」
「・・・・・・・」
顔が熱くなるのを感じ、俊宏は俯いてしまう。
不自然な沈黙が俊宏の肩に重たくのしかかり、辺りには博雅の笛の調べだけが響く。
とてつもなく気まずい空気。しかしそれは深雪によってあっさりと一蹴された。
「としひろ」
「―は・・・・はい?」
必死に平静を装いつつ顔を上げると、自分を見つめている少女の姿がある。
少女の眼に小馬鹿にするような色はなく、満足げな笑顔を浮かべていた。
「ありがとうな、としひろ。嬉しい」
「あ・・・・っいいえ!」



漆黒が空を覆い始める頃、主の奏でる楽の調べの中で。

――――随身俊宏。白雪の如く無垢な少女に心奪われしこと――――



あとがき
【思うところ】
博雅の随身、俊宏はコミックに出てきます。
どんぐりまなこで可愛いので、私的に結構好きです。
主にズケズケと物を言いつつ世話を焼く彼・・・。
博雅にとって小舅のような存在なのですね〜。
しかし晴明出てきませんでしたね〜。名前だけ・・・。
ところで博雅の位が困りものです。映画では従四位下
でしたが原作では従三位。晴明も原作では陰陽博士、
映画では一介の陰陽師です。ややこしい・・・。
基本は映画の方で考えてますけど、所々私の好みで
原作やコミック入り混じりです。笛の名前も映画→
葉二つ、コミック→葉二、原作→葉双。
・・・どれかひとつに統一していただきたい。んはー。
俊宏さんの春……ですね? 果たして花は咲くのやら〜〜

しかし博雅はともかく晴明は「他人に取られるくらいなら〜〜」と強硬手段に及びそうでコワイです……。
深雪ちゃんも無邪気に色香を放ってはいけません。ダメです。
血迷う男どもがたくさん出てきてW親父が神経性胃炎になってしまいます。

はてさて次回はどうなる事やら〜〜〜。

博雅の笛の名前……。へぇ〜全部違ってたんや、全然気づいてませんでした(笑)。
わざわざバラバラにする意図が何か有るんでしょうか? ねえ?
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