陰陽師 弐

安倍晴明 数多の殿上人を制すること(下)

突然ではあるが、現代にはあらゆる略語が飛び交っている。
誰でも一度は耳にしたことがあるだろう“セクハラ”。これもその類と言える。
(セクシュアル=ハラスメントの略。Sexual harassment)
セクハラとは性的嫌がらせ・・・ボディタッチ、差別的言動等を意味するが、早い話セクハラを『受ける側』がそれを「セクハラだ!」と思えば、どんな些細なことでもセクハラということになる(らしい)。
肩を叩くだけでも、その日の体調を伺うだけであっても、その言動に僅かでも不快感を持つ者がいれば、それは既にセクハラの域に達してる事となる。

“セクハラ”どころか、横文字も略語もまかり通らなかったご時世。
人と鬼とが共に息づく、雅なる闇の時代。
月を愛でようと集った(←表向き)殿上人たちに取り囲まれる少女がひとり。
その少女の名は深雪という。
てっきり御簾越しの拝見と思っていた殿上人達は、思いがけず姿を現した少女に心躍らせていた。
檜扇で形ばかり顔を隠し、やんわりと無邪気な笑みを浮かべている深雪。
あまりの邪気の無さに知らず目尻が下がり、それと同時に闘争本能が燃え上がる。
そんな殿上人とは反比例して顔を青ざめさせていく博雅は、心の底から悲鳴を上げ親友の到来を待ちわびていた。

「深雪どのはほんとうに白い肌をしておられますな」
「目も不思議な色をしておられる」
「いやいや、紅梅の襲ねがよく似合うておりますよ」
「それになんとも芳しい香りが――」
どさくさ紛れに鼻息荒く深雪ににじり寄る殿上人達。身の危険というものを知ってか知らずか相も変わらず笑みを絶やさない深雪。本人がまるで自覚していないだけで、現代ならばセクハラ容疑により即行で書類送検である。
見るに耐えなくなった父・博雅は顔を引きつらせたまま何気なく間に割って入る。
「し、式部卿宮様!どうぞ御一献!!」
「うむ・・・頂くか」
したたか酔っているらしく、緩慢な動作で腕を持ち上げ注がれた酒を飲み干した。
博雅は気付かれぬように深雪を自分の影に隠し、我が子を守る親鳥のようである。
が、背後に隠した深雪のもとへいつの間にか別の殿上人が迫っていた。
「ふむ・・・深雪どの・・・なんとも美しいものよ・・・」
「『美人は三日で飽きる』など、深雪どのには無縁の言葉でしょうなあ・・・」
「見れば見るほど磨きがかかった麗しさだ・・・」
「のう深雪どの。・・・・すまぬが一度、吾の名を呼んでみてはくれまいか?」
「・・・・名前を?」
「そう、名前を。“頼政様”と呼んでおくれ」
したたかどころではないほどに酔っているらしく、シラフでは到底面と向かって頼めないような事を真っ向から要求している。
やはりよく分かっていない深雪はあっさりと承諾し、お得意の笑顔をつけて言った。
「はい。――頼政さま」
「おおっvvv(悦)」
「待たれよ、頼政どの。それは抜け駆けと言うものでしょう」
「その通り。頼政どのが言わせるのなら私とて――」
「いやいや、先に私が」
「何を言う。順番だ、順番!」
「ならば公平にまずは私から・・・・」
「「何処が公平だっ!」」
ぎゃんぎゃんと騒ぎ始める者達がいれば、ただ静かに酒を煽り視線を送る者もいる。
その視線の先には無論のこと深雪が居るわけであり、そしてやはり深雪はその視線の意味に気付くことなく笑みを浮かべる。
重い胃痛を誤魔化しながら懸命に愛娘を保護しようと頑張る父。とうに顔色は無いに等しい。

数刻が経ち宴も佳境に入った頃、不意に一人の公卿が思い出したように手を打った。
「そうそう、忘れるところであったよ。――これ、弘通!」
「はっ」
控えていた一人の従者が立ち上がり、傍らに用意してあった方状の箱を持ってくる。
底の浅い、大きめのそれを静々と深雪の前に置く。
可愛らしく小首を傾げて尋ねる深雪に、公卿はなんともだらしない笑みを見せた。
「開けてもよろしいですか?」
「うむ、構わぬよ。気に入っていただければ良いのだが・・・」
ふにゃふにゃと顔を綻ばせながら(天然)蓋を取ると、撫子色の練り絹が入っている。
淡く優しげなその色に、深雪は感嘆の声を上げた。
「昨夜の宴で深雪どのを見た折に、この色は良く似合うのではないかと思ってな。丁度手持ちの中にあったのだよ。貰っていただけるかな?」
・・・丁度なんて言っておいて、どうせ大急ぎで用意させたんだろうに。
自分の貫禄をそこまで見せ付けたいんかオノレは。
内心で毒づく面々だが、やはりそのようなことにはちーとも気付かない深雪。
素直に喜びぺこりと小さく頭を下げた。
「待て待て、深雪どの。たしかに撫子色もよく似合うが、私が持ってきた襲ねもよく似合うと思いますぞ」
「何を言う。私の持ってきた衣の方がずっと似合う」
「勝手なことを申されますな!私が深雪どのに一番似合う反物を持ってたぞ」
「いやいや、それよりも私の持ってきた唐紅の方が・・・・」
(せ―いめ――――いっ!!!/半泣)
もう誰にも止められそうに無い殿上人たちの勢いに、博雅は人知れず声にならない叫びを上げ続けた。

ちい、と細い声をあげ、カヤネズミは晴明邸の庭に駆け込んだ。
ひとりで濡れ縁に座し杯を傾けていた晴明は、その声に視線を庭へと投げる。濡れた黒い瞳で晴明を見上げ、カヤネズミは再び、ちい、ちい、と声を上げた。
小さく頷き肴につまんでいた鰯の骨を放ってやると、素早く身を宙に跳ね上げそれを咥え取る。そして叢へと姿を消した。
「どれ・・・そろそろ仕上げに行くとするか。蜜虫、あを子、着替えを用意してくれ」
「「はい」」



「よう、博雅。そのようなところで何をしておるのだ?」
「晴明!?やっと来たかっ!!」
白の直衣に身を包んだ晴明が博雅邸に到着すると、渡殿を右往左往している屋敷の主が目に入った。晴明がやって来るのを今か今かと待ちわびていたらしい。
常と変わらない飄々とした態度で訪れた親友の姿に思わず安堵の息が漏れ、それと同時に沸々と怒りにも似た感情が湧きあがってくる。
「お、お前なあっ、どうしてもっと早く来ないんだ!?」
「何を怒ることがあるのだ?こうしてちゃんと来たではないか」
「それはそうだが、もっと早く来てくれよ!胃に穴が開くかと思ったんだぞ!!」
「案ずる事はない。穴が開いたらこの晴明がよい薬を調合してやる」
「いらんっ!!!」
何はともあれ博雅は早足で先導し宴の間へと向かう。その後に晴明が続いた。
足をもつれさせながら駆け込む博雅とは対照的に、晴明は実にゆったりとした足取りで進んで行く。そうして宴会の場へと辿り着くと、晴明は悪酔いした殿上人達を冷めた目つきで見渡した。
「――お楽しみのところ、お邪魔させていただきます」
「・・・何者だ?おぬし」
「陰陽師の安倍晴明と申します」
「陰陽師!?何故このような席に陰陽師などが――」
「いえいえ。私はただ迎えに来ただけですので、すぐに失礼させていただきます」
「「迎え?」」
「はい」
山のように群がっている殿上人の合間、囲まれている少女を真っ直ぐに指差した。
「その者を・・・深雪を迎えに参りました」
ピシリ。
空気に亀裂が走り、途端に体感気温がマイナスにまで下降した。
おどろおどろした瘴気が室内に溢れ、殿上人達の表情は十人十色。
呆気に取られる者。杯をひっくり返す者。顔色を無くす者。青筋立っている者。
無論その空気に気付かない少女ではあるが、何故か表情が曇っている。
にんまりと確信犯の笑みを浮かべ、晴明は殊更ゆっくりと両手を伸ばし深雪を呼ぶ。
「―――深雪。ここに来なさい・・・」
呼ばれた深雪は勢いよく立ち上がり、石化した殿上人の間を通り抜け晴明のもとへと向かう。そうして深雪も両手を伸ばし、しっかと晴明に抱きつく。
何処からともなく上がる悲鳴を綺麗に無視して、晴明は自分のみぞおち辺りにある少女の頭を丁寧に撫でる。
気を抜けば魂が飛んでしまいそうになるのを必死に堪え、殿上人のひとり、式部卿宮がわなわなと震える指を二人に向けた。数刻前に鼻息荒く深雪ににじり寄った張本人である。
「ど・・・な、なに・・・何故、だ、抱きつき・・・っ」
「これはこれはお見苦しいところを・・・。―――深雪・・・・?」
「・・・・・・」
がっちりと両腕に力を篭め抱きついている深雪は顔を上げない。
何処となく様子がおかしいと晴明は感じる。細い両肩が震えていた。
「深雪?どうしたのだ?」
「・・・っ・・・う〜・・・」
「!!?」
泣き出した。突然の事にさしもの晴明も思わず硬直する。
泣かせたことがないわけではなかった。
何も言わず早朝から参内した折、混乱して泣きじゃくったことがある。
泣いていたことがないわけでもなかった。
人知れず涙を流していた寝顔を見たこともある。
だが、こうして泣いている場面に直面したことは一度もなかったのだ。
晴明は自分の混乱を周囲に悟られぬよう、相変わらずの表情でさり気なく深雪の顔を覗き込んだ。晴明の傍らで立ち尽くしていた博雅も深雪の様子に気付き、そろそろと覗き込む。
「深雪?・・・一体どうしたのだ」
「・・・て〜・・・」
「「手?」」
深雪は生白い手の甲を二人の前に出し、なんとも情けない顔で言う。
「手ぇ舐められたよぉ〜っ」
「「んなっ・・・!!」」
核爆投下。
博雅だけに留まらず晴明まで驚愕に貌を歪めた。
深雪の言葉の意味を幾度となく反芻し、晴明は漸く我に戻る。

―舐めた?深雪の手を・・・手の甲を。っの白ブタどもが・・・っ!!(←ブタに失礼)

この出来事により後に源博雅は次の諺を教訓として胸に刻んだ。
『さわらぬ神に祟りなし』。

がちゃり、と食器の擦れ合う音が響いた。
何事かと博雅がそちらを見やれば、ひとりの公卿が肩を揺らし荒い呼吸をしている。
顔面蒼白、次第に呼吸も侭ならなくなってきたのか、苦しげに悶え手をばたつかせている。深雪の右隣を占領していた者である。
「がっ・・・・う゛う゛・・・・」
途端に大きく顎を仰け反らせ、その公卿はばったりと仰向けに倒れてしまった。
しかも泡を吹いている。
ぴくりとも動かない公卿に全員が表情を失い、博雅と深雪は大きく口を開け放ち、晴明に至ってはいつの間にか広げた蝙蝠の陰で善からぬ笑みを浮かべている。

それは地獄絵図の描き出しでしかなかった。

腑抜けのような声を上げながら部屋を飛び出そうとした一人を横目で一瞥し、晴明は密やかな声で短く呪を唱える。
勿論それに気付いているのは晴明のすぐ側にいる博雅と深雪だけである。
「・・・・・う゛・・・ぐえぇ〜・・・」
二人目の犠牲者。深雪の背後を固めていた者、なんと正三位の大納言である。
(品の欠片もない声だな・・・まるで潰れたカエルだ)
一人目と同じく仰向けに倒れた大納言を冷めた目で見つめ、心中で囁いた。博雅と深雪は信じられないものを見るような目で晴明を盗み見ている。
不意に顔を上げた晴明はそれまで以上に冷めた、凍て付くような瞳でひとりの公卿を見やる。
セクハラ大王(たった今命名)―正四位下、式部卿である。

晴明の視線の意味に気付いているのかいないのか、式部卿は徐々に顔色を悪くして後ずさる。腰が抜けているらしい。
明らかな怯えの表情を揶揄するように、晴明は小奇麗で妖艶な笑みを見せる。
三人目の犠牲者決定の瞬間である。
一歩踏み出せば、式部卿は数歩分後ずさる。更に数歩踏み出せば、式部卿も更に後ろへ後ろへと後ずさる。周囲から冷静な目で見ればかなり滑稽である。
小娘と見紛うような微笑を浮かべつつ、実に低い声で晴明は問うた。
「式部卿宮様。少々お伺いしたき事がございますれば、お答えいただきたい・・・」
「ひゃ、ひゃひっ?(何っ?)」
「あの者・・・深雪の手の甲をお舐めになられたのは、貴方様で?」
「!!・・・ち、ちがっ」
「ほう。それでは・・・頼政様」
深雪の左隣に座していた民部卿、頼政を振り返る。深雪に「名前を呼んでくれ」と頼んだ者である。突き刺さるような視線に大きく身震いし、頼政は顔を左右に振る。
「違う!私ではない!深雪どのの手を舐めて揉んでいたのは私ではないぞっ! 全部・・・し、式部卿宮どのだ!!」
「・・・・・・・・・・“揉んだ”?」
落雷発生。
火に油を注いだ頼政の発言により、式部卿は更に寿命を縮めることとなった。
「式部卿様」
「・・・ひいっ!」
「しばしの間――ごゆるりとお休みくだされ・・・・」
静かに蝙蝠を翻すと同時に式部卿の身体が大きく揺れ音を立てて倒れ伏す。
やはり泡を吹いており、顔は既に土気色をしていた。
晴明の背後で硬直していた博雅は、やっとの事で声を出す。
「せ、晴明!お前なんてことをっ・・・」
「まだ済んでおらん」
「まだ済んでないのか!?」
「ふむ。害虫駆除はこれからが本番だ」



「・・・すごいね・・・・・」
「・・・すごいな・・・・・」
何処か恐怖の入り混じった感嘆の声に、晴明は満足げに笑った。
三人の足許には意識を失った殿上人が山ほど寝転んでいる。その全員が青色やら土色やらと非常に悪い顔色をしている。
時折呻き声が耳に届く。悪夢でも観ているようだ。
「次に目を覚ました時にはもう深雪の事は綺麗さっぱり忘れておる。あと三日はこの調子で起きるのも侭ならんだろうがな」
「しかしな、晴明。どうやって彼らを屋敷まで帰らせるのだ?大体この人数が一度に俺の屋敷で卒倒したなんて、あまりにも聞こえが悪い」

結局、晴明はその場に居た殿上人を一人残らず卒倒させた。
一人ずつ倒れさせるのは面倒になったのか、四人目からは効率良く事を進めた。
不思議なことに晴明が蝙蝠を翻し風を送っただけで、誰もが顔を苦痛に歪め倒れ伏してしまった。
口が裂けても言えないが、悪魔の所業としか思えない。
「それは大丈夫だ。―――おいっ」
「はい」
呼ばれて姿を現したのは数多の女人。狩衣や十二単衣、水干や唐風の衣装を纏っている。その中にはいつだったか見かけたような顔もある。晴明の式である。
「やる事は分かっているな?・・・・行って来い」
静々と部屋に散った式は、それぞれの足元に伏せている殿上人から数本の髪を引き抜く。おもむろにそれを自分の手首に巻きつけると、どうしたことか、彼女達の面相は髪の持ち主である殿上人とまったく同じものに変化した。
一人の殿上人につき一人の式が変化し、衣の絵柄や色までしっかりと真似ている。
軽く会釈をすると音もなく部屋を出て行く。
何食わぬ顔で牛車に乗り込み、従者を引き連れそれぞれの屋敷へと帰って行った。
「あとは簡単だ。寝静まった頃に本物の方を別の式に連れて行かせる。そのまま入れ替えておけば、朝には家人が気付く。主の容態が優れぬとな」
自分の式を殿上人に見せかけ代わりに屋敷へと帰す。そして寝静まった頃に本物と入れ替える。そうすればどこの家人も「眠っている内に主の具合が悪くなった」と思う
だろう。
ぱちん、と音を立て蝙蝠を閉じ、晴明は博雅を振り返る。
「これで一件落着だ。全て解決、万万歳だろう」
「・・・う、うむ」
「もうすっかり夜も更けてしまったからな。今晩はこの屋敷に泊めてもらうぞ」
「・・・・・うむ」

どうせ泊まるのなら、と二人は小さな酒宴を催した。
見事な月明かりが降り注いでいた。
向かい合って杯を傾ける二人の間に座し、深雪はそれぞれに酌をする。
慣れない宴での疲れが出たのか、目を擦り頭を揺らし始める深雪に僅かな苦笑を浮かべ、父親二人は春の宵を愛でていた。

桜が、自身の重さでちらちらと舞っていく。
あまりにも凡庸な平穏は、研ぎ澄まされた精神を鈍らせる。



すぐそこにまで迫っている非常さに、気付かないほどに。



あとがき
【予想外の長さにびっくり】

“舐めた”“揉んだ”の予期せぬ展開に晴明父も咄嗟の対応(対応って…)に出たようですね。
本当はもっと生ぬるい手段を考えていたでしょう。
因みに殿上人達からの貢物は全て晴明様が丁重に譲り受けました(くすねたの間違い…)。
次回からは…あの、ひょっとしたらもの凄い事になるかもしれません。ひょっとしたらです。
私的にはアリな展開ですが空也さんはどう思われるか今から不安…首切られる(リストラ?)。
ですがその前にほんわり物を書きたい…。

“光源氏”及び“若紫(紫の上)”が発動するやも。
シリアス書きたい症候群も発病中です〜。
「舐める」に「揉む」……。なんてイヤ〜ンな響きなんでしょう!

許せません! 汚れ無き深雪ちゃんに不埒な振る舞い!
やぁですね〜、オヤジって。極刑に値する行為ですよ。セクハラって。
陸海の会社時代の同期(♂)も上司(♂)からセクハラ受けてましたわ。
まあ、それがきっかけで何処か遠くに飛ばされましたがね。

とにかくいけません、セクハラは!

てな訳でザマーミロです。エロオヤジ共。
天に代わって晴明様がキレてくれて良かったです。

……深雪ちゃん、消毒は大事よ!
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