「晴明様。博雅様がお見えです」
「博雅が?独りでか」
「はい。・・・・なにやらご様子がおかしいのですが」
お馴染みの濡れ縁へと出てみれば、成る程、確かに普段とは違う様子の博雅が座している。酷く緊張した面持ちで、気まずそうに晴明を見上げていた。
「どうしたのだ博雅。深雪はおいてきたのか」
「う・・・うむ」
「何かあったのか」
「ああ、あった。・・・それで困ったのでここに来た」
「?」
優雅な仕草で博雅の正面に腰を下ろすと、いつの間にか式が用意したらしい瓶子と杯を取る。石のような博雅とは対照的に柔らかな所作で自分の分の酒を注ぎ、それをゆっくりと口に運んだ。
「―――晴明、実はな」
「ふむ」
「その・・・な・・・・・見られたのだ・・・」
「何をだ」
強張った顔をそのままに視線をさ迷わせ、数秒の間を置いて晴明を見つめる。
「昨夜、俺の屋敷で殿上人が集って宴を催していたのだ。とはいっても、俺は単に場所を提供しただけなのだが」
「それで?」
「揃いも揃ってほろ酔い気分、宴もたけなわって時にだな――見られたのだよ・・・」
「・・・だから何をだ」
より一層顔を強張らせる博雅にイヤな予感を覚えつつも、晴明はいつもの無表情で話の続きを促した。
博雅はずいと身を乗り出し、泣く直前のような情けない声を搾り出す。
「深雪を、だ。その場に居た殿上人の殆どが深雪宛の文を寄越してきたよ・・・」
目の前に積まれた物の山に深雪はあからさまに眉を顰めている。
色とりどりの扇。
文箱。
幾重にも折り畳まれた色鮮やかな和紙。
それらは全て、今朝までに届いた深雪宛の『恋文』である。
「・・・・扇なんてこんなに必要ないじゃないか・・・」
それらに篭められている殿方たちの想いなど、深雪にはまったく通じていない。
数本ある内から一本の扇を抜き取り、おもむろに開いてみる。
流れるような文字で慎ましやかな恋心がしたためられているのだが、深雪にはそれが難解な謎賭けやトンチとしか受け取れない。
他の姫君方なら思わず頬を染めてしまうほど情熱的な求愛も、物を知らない少女にとってみれば意味も不明な単なる和歌である。
「こんなのあってもな・・・ジャマだなー・・・捨てちゃだめなのか?」
他人の心の機微に疎いわけではない。しかし色恋沙汰というものにとんと縁のない生活をしていた為、それをいかに扱うべきなのかまったく分からない。
『恋』というものを、『焦がれる』ということを知らない。
頬杖をつきながらぼんやりと文の山を眺めていた深雪に、御簾の向こうから声がかけられた。俊宏である。
「深雪様、宜しいですか?」
「へ?」
「先ほど式部卿様より使いが参りまして、深雪様宛に文を――」
「としひろ」
「はい?」
「聞いていいか?」
「―――はい」
ちょいちょいと手招きをして、文箱を持ち廊下に膝をついていた俊宏を呼ぶ。
僅かに躊躇いつつ俊宏は御簾を巻き上げ中に入り、示されるまま円座に座った。
「なんですか?」
「としひろ、これは取っておくものなのか?」
「は?」
「これだ、これ。この扇とか文箱とか・・・・残しておく方がいいのか?」
「それはまあ、そうでしょうね」
「・・・・ジャマなんだけどなぁ」
深雪にしてみれば素直な心境を述べただけだったのだが、それを聞いた俊宏は驚きに目を見開き、悲しげに顔を伏せた。
「深雪様・・・そのようなことを仰られないでください。昨夜の宴で深雪様を垣間見られた程度でも、皆様方はこうして文を送られるほど焦がれていらっしゃるのです。それを邪魔などと―――」
「・・・・・・『こがれる』?」
「そうです。皆様、深雪様に恋い焦がれていらっしゃるのです」
「恋・・・」
身に覚えのない、『恋』というもの。それがもたらすモノを、深雪は知らない。
(「わからないことはひとに聞きなさい」ってせいめい言ってたよな・・・)
恋を知らない。なんなのか分からない。
―――ならば今ここで知っておきたい。
深雪の中の知的好奇心が、『恋』という項目に当てはめるべき事項を要求した。
「なあ、としひろ」
「・・・はい」
「恋をすると、どうなるんだ?」
「?は・・・やたら胸が高鳴ったり・・・、そのお方のことが頭から離れなくて、時折そのお声を耳にするだけで、たまらなく嬉しくなります」
気のせいだろうか、俯いている俊宏は耳がほんのりと赤い。おずおずと上げた顔はさながら茹で上げられたタコのようだ。
「・・・それで?」
「にっこりと微笑まれると、こちらまで心が温まるのです。気付かないうちに目で追ってしまったり――何よりも好ましく、ひたすら愛しいと思うのです」
「―むずかしいな」
「難しいですか?」
「むずかしい。としひろは、よくそんなことが分かるな。お経読むほうがずっと簡単だ」
「・・・・お経・・・」
「うん。・・・恋なんてむずかしくてみゆきには分からないな」
「・・・・そうですか?」
心底感心しきった様子でこくりと頷く。本気で恋というものが理解できないらしい深雪に内心で苦笑を漏らし、俊宏は手にしたままだった文箱を「絶対に捨てたりしないで下さいね」と言い置いてから手渡した。
一礼して部屋を出ようとする俊宏の背中を見るともなしに見ながら、深雪は何気なく尋ねてみる。
「なー、としひろ」
「なんですか?」
「としひろは今、『恋』をしてるか?」
「・・・え゛っ!!?」
勢いよく振り返った俊宏の顔を見る。こちらに背中を向けた時にはいつも通りだった顔色は、深雪からの言葉にこれでもかと言うほど再び赤くなっていた。
耳どころか、首筋まで朱を刷いている。
思わず声を上げて笑い始めた深雪に、俊宏も恥ずかしげに眉を寄せて笑った。
辺りが夕闇に染まる頃。
源博雅朝臣は、土御門小路にある安倍晴明邸でせっせと文を書いていた。それも並の枚数ではない。件の宴に出席していた殿上人の人数分である。
最後の一枚を漸く書き終えると、待ち構えていた蜜虫がそれを文箱へと収めた。
「晴明、こんな文を何に使うのだ?」
「深雪から悪い虫を追い払うためだ。ご苦労だったな」
明確な返答もせずに、晴明は用意しておいた多くの式一人一人にそれぞれの行き先を教える。宛がわれた文箱を手に、式達は消えるように晴明邸を後にした。
博雅の書いた文。その内容は次のようなものである。
『今宵 戌一つ わが屋敷にて 月を愛でたく思います
御身が空いておりましたら 是非 足をお運びください』
早い話が『今晩七時に、ウチで月見酒でもどうです?もし暇だったら来てください』ということである。
味気も素っ気もない用件のみの文。こんな文が役に立つのだろうか。
「こんなのでどうにかなるのか?」
「なるさ。どいつもこいつも喜んで顔を出すだろうよ」
「そうか・・・?」
「必ず来る。『あの麗しの姫君にお目にかかれるかもしれぬ』と、期待しながらな」
「麗しの姫君・・・ね」
実際には姫君でもなんでもない。旧育ての親は妖物、正真正銘の人外の者である。
そんなこととは露知らず、今宵も殿上人たちは一目で落ちた美貌の少女を垣間見に・・・そしてあわよくば己の妻に娶らんと、意気揚揚とやって来ることだろう。
(気に食わん・・・小太りのタヌキじじいどもに深雪は勿体無い)
内心でそんなことを吐き捨てている晴明に、不安げな面持ちの博雅が声をかける。
「なあ晴明、本当にどうにかなるのか?」
「ああ。いざとなったら方術呪術なんでも総動員だ」
「・・・・間違っても殺すなよ・・・」
日が完全に暮れる前に、博雅は晴明の指示で自邸へと帰った。
屋敷に残された晴明は数刻後に目の当たりにするだろう殿上人たちの驚愕と失恋の瞬間を思い浮かべ、密かに愉しげな笑みを零し始める。
「―ふん。色ボケした殿上人どもには多少キツめのお灸を据えてやるべきだ・・・・」
遂に戌の刻。
源博雅朝臣の邸宅では先ほどから引っ切り無しに牛車が往行している。
なにやら荷物を抱えた従者を一人二人連れ、我先にと宴の間に駆け込む殿上人達。
雅の「み」の字もあったもんじゃない。
猛々しい足音が鳴り響く中、博雅と深雪は大分離れた一室で向かい合っていた。
「よいか、深雪」
「ん」
「普通どおりに振る舞えば良い。普通どおりに」
「ふつう?」
「・・・・俺もいまいち分からなんだが、晴明がそうしろと言っていたからな・・・」
「ふーん・・・分かった」
晴明から言われたことを大まかに言い聞かせる。晴明は他にも幾つかの事を指示していた。どれも博雅にとっては納得の行かない内容ばかりだった。
『かしこまった言葉使いも特別な礼儀作法もさせなくて良い。そうだな、御簾も几帳もなくて構わんさ。一番映える襲色の衣を着せてやれよ。髪もよく梳いて、香を焚き染めておけ。なんなら深雪の素面を晒しても良いだろう』
早い話、晴明は深雪に殿上人どもを今以上に惹きつけておけと言うのである。
彼等を遠ざける手立てはないものかと相談に行ったというのに、それでは逆効果だ。
博雅が言い募ると、晴明は意地の悪い笑みを浮かべただけで答えない。
ただぽつりと「どうせ突き落とすなら遥か天空まで昇ってからの方が地面にめり込む」などと訳の分からないことを呟いていた。
晴明の案に逆らうことなど博雅に出来るはずもない。月が輝く頃に自邸へと辿り着いた博雅は、女房に命じて晴明に言われたとおりに深雪を着替えさせた。
正装し十二単を纏った深雪の姿に、博雅どころか女房達まで瞳を輝かせ息を付く。
持ち前の華やかさと僅かに残るあどけなさが、より一層魅力を惹きたてているようだった。
「お肌が雪のようですもの。お召し物がよく映えますわ」
「これでは殿方が放っておかないのも当然です」
「香も今回は特別に皆で調合いたしましたのよv」
何処ぞにいる陰陽師の式にも似た女房達の会話を背に、博雅の心中は複雑だった。
(晴明・・・・一体どうするつもりなのだ?)
こういった宴に未婚の少女が出席する。普通ならば几帳を立て御簾を下げる所だが、晴明の話では「御簾も几帳もなくて構わない」らしい。それどころか「素面を晒しても良い」とまで言っている。
数多の殿上人に包み隠さず愛娘の姿を公開する・・・・。
「・・・もう俺は・・・胃に穴が開きそうだよ・・・・・」
今にも精魂尽き果てそうな博雅の嘆き。
それを聞いていたのは小首を傾げる深雪と、すぐ外に植わっている松の根元に潜む黒い瞳のカヤネズミばかりであった。 |
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