陰陽師

●●鬼哭キ月●●
第壱夜


己の無力さを思い知れ、都の守り人よ。

「今宵もいい月が出ているぞ」
「ああ。いい月だ」
博雅はいつものように、供の者も連れず、独り徒歩で土御門を訪れた。
満月の宵―。
土器の杯を受け取ると、手酌で酒を注ぎ、ゆっくりと口中に満たす。
仄かな甘味と芳香が、程好く胃の腑に染み渡る。
常と変わらず濡れ縁で向かい合い、座している。そしてやはり言葉少なで、不思議と心地良い沈黙が二人を包んでいた。
杯を傾けるのもそこそこに、博雅は始終夜空を見上げている。
晴明の方は、空を見るでも何を見るでもなく、ただほろほろと杯を重ねる。

瓶子の半分も酒が飲まれた頃、不意に視線を戻した博雅が尋ねた。
「―晴明、深雪はどうした? まだ一度も見かけていないぞ」
「ああ…。博雅が来る一時も前に、眠ってしまったのだ」
「何? 随分と早いな。まだ酉の刻にもなっていないのに…」
「遊び疲れたのだろう。…なにせ遊び相手がな…」
何やら含みを持たせた晴明の言葉に、博雅は目を瞬かせる。
綾女、蜜虫、葉常、あを子、蜜夜、薫、小竹…。深雪の遊び相手、と聞いて思い出す顔は決して少なくはない。晴明自身は、深雪に真言やら五行相剋やらと、博雅には理解出来ない小難しい事を教えるが、一般的な子供の“遊び”相手にはならない。
「…一体誰と遊んでそこまで疲れるんだ…?」
「狐だよ」
「き、つね…――?」
「前にも話したが、深雪の親父どのは稲荷だ。先日、また訪ねて来られてな」
「…何しに来たんだ」
「最愛の娘御への贈り物をお持ちになられた」
火と水を統べる玄弧―それが深雪の旧育ての父である。晴明に言わせれば、その者は“神”にも等しく、神通力を持つと言われる白狐よりも格上らしい。
…その御仁からの贈り物と、深雪の遊び相手。どう関係しているのか、博雅は分からず眉を顰めてしまう。
飲み干した杯を口許から離すと、晴明はちらりと博雅を一瞥し、またすぐに屋敷の奥へと視線を転じる。朗々とした美声で、何者かを呼ばった。
「―…右近、左近。こちらに出ておいで」
「?……!!」
博雅は言葉を失い、ただただじっと目を凝らした。
下げられたままの御簾の内側から、物音も立てず二頭の狐が現れたからである。
御簾は僅かにも揺れておらず、香炉から立ち昇る薫香が隙間から流れ出してきたように、突如湧いて出た姿に驚愕は否めない。
雪のような純白と、新月のような漆黒の毛皮。対を成す二頭はおよそ犬とは比べ物にならない長大さで、双眸は深雪と同じ瑠璃色をしている。
「博雅、紹介しておこう。黒い方が右近、白の方が左近。深雪の眷属だ」
「…み、深雪の…眷属? お前のじゃないのか…?」
「博雅。親父どのから深雪への贈り物が、この二頭なのだよ」
「贈り物がか…?…じゃあ、遊び相手っていうのは―」
「右近と左近だ」
白く整った爪先を二頭に向け、ちょいちょいと呼び寄せる。唖然としたままの博雅を素通りし、二頭は晴明へと擦り寄った。
「…晴明…その、なんだ…随分と…」
「うん?」
「並々ならぬ大きさというか…――本当に狐か?」
「博雅には狐に見えぬのか」
「狐だと言われれば、たしかに狐だと思う。大きいというだけで、他は狐に見える」
酒を満たした杯を口許に付け唇を湿らせると、晴明は愉しげに口端を歪める。
その笑みを見た博雅は、何故か奇妙な予感を覚えた。
「すごいな博雅。面白いことをいうものだ」
「面白い?俺は何も面白いことは言っていないぞ」
「お前、“狐だと言われれば狐だと思う”と言ったではないか。それはな―…」
「ちょっと待て、晴明。それ以上は言うな」
「何故だ?」
「何故ってお前、今、呪の話をしようとしただろう」
「ふむ」
さも当然というように、晴明は小さく頷いてみせる。奇妙な予感はこれか、と博雅は隠す事なく存分に顔を顰めてしまう。飲み干したままだった自分の杯に酒を満たし、それを一気に口中へ流し込むと、真っ直ぐに晴明を見つめる。
「あのな、俺に呪の話をするとき、晴明が俺にも理解出来るよう話を簡単にしてくれているのは知っている。だがやはり、難しいものは難しい。解らんことは解らん」
「そうだな」
「せっかくで悪いのだが、呪のことなどを話されては、酒の味が判らなくなる」
「そうか」
「そうだ」
晴明は短く「分かった」と簡潔に話を区切り、呪の話を持ち出すのを止めた。
指先で右近の毛並みを撫でつけると、右近は目を細めて、小さく鳴く。傍らの左近は晴明へと鼻先を突きつけ、催促するように鼻を鳴らした。
苦笑混じりに鼻先を撫でてやると、僅かに尾を振り、再び鳴いた。



既に数本の瓶子が空になっている。
酒の入った瓶子を盆に載せてやってくると、空の瓶子を盆に移し替え片付けていく。
入れ替わり立ち代りに姿を現し、肴を運び、食べ終えた皿をさげ、また新たな皿を置いていく。
数多の式神のうちのひとり―綾女は、ふと顔を上げ、ほんの少し目を見開いた。
その気配の変化に気付き、晴明もまた顔を上げ、綾女の視線を辿る。
「―深雪様? どうなさいました?」
濡れ縁の端から、のろのろと近付いてくる人影。望月の冴え冴えとした光を浴びて、白銀の髪が見事に透けている。その姿を見た者なら、誰しも人外の存在を認めずにいられぬような、そんな不可思議な空気を醸し出している。
気のせいだろうか。
寝惚け眼のような深雪は、しかし何も見ていないような、虚ろな瞳をしている。
ゆらゆらと視線を彷徨わせ、暫くして我に返ったように、数度瞬きをし、月明かりの下に居る晴明と博雅を見つめた。
「深雪?」
「――」
返事が無い。立ち上がった博雅は早足で進み、深雪の目の前を塞ぎ、顔を覗き込んでみる。
「深雪、どうしたんだ。寝惚けているのか?」
「……ひろまさ………」
「ん?」
「―……なんでもない」
首を振ると、両脇に寄り添う二頭を見下ろす。右手側に右近、左手側には左近が、ぴったりと隙間を空けず深雪に寄り添っている。博雅に手を引かれた深雪が歩き出すと、邪魔にならない程度の距離をおき、近くにも遠くに離れることもなく、静かにその後を追っていく。綾女が持ってきた円座に深雪を座らせると、博雅は自分が座っていた円座に腰を下ろした。
「右近も左近も、なんだってこんなに深雪から離れないんだ?」
座っている深雪の両脇に寝そべったまま、右近と左近は顔を上げ博雅を見る。
真摯な瞳は博雅の瞳を射抜くように、強い何かを宿している。
意味深に口端をつり上げ、晴明はくつくつと喉の奥で笑うが、それに関しては何も言わずに済ませた。
「深雪。どうした、眠れないか」
「…んー…。――な、せいめい」
「なんだ」
「式に、キミカってやつはいたか?」
晴明に問いながらも、深雪の視線は晴明に向けられてはいない。未だ夢現を漂っているのか、夢見心地な表情で庭を眺めている。
言動の不一致に内心で不信感を持ちながら、晴明は眉一つ微動だにせず答える。
「いや…。キミカという名の式神は居らぬな。それがどうかしたのか」
「……わかんない。夢に出てきた」
漸く目が覚めてきたのか、双眸がしっかりと焦点を結び始める。澄んだ湖のように、月光を映した瑠璃色の瞳は清く澄み、果てしなく深い。聞かれた訳でもなく、深雪はぽつぽつと夢の内容を語り、晴明と博雅も黙って耳を傾ける。
「みんなが……みゆきを、キミカって呼ぶんだ。せいめいや、ひろまさは居なくて……知らないひとが、いっぱい居て、その全員が、“キミカ”って呼ぶんだ」
手持ち無沙汰のように、小さな手で右近の背を撫でる。笑顔はなく、気付けばまた虚ろな瞳になっている。
「―みゆきはキミカじゃないけど……でも…キミカな気もする……」
拙い言葉でそれだけを言うと、深雪は苛立たしげに、右手親指の爪を噛む。
言い表せないもどかしさに、腹を立てるように。



「…眠ったのか」
「ああ。熟睡しているよ」
望月の灯火も届かない室内。晴明が出てきた几帳の内側からは、細く穏やかな寝息が聞こえてくる。隙間から覗けば、思わず目許も綻ぶあどけない寝顔がある。
右近は深雪の枕もとに寝そべり、目を閉じてはいても眠らず、心地良い眠りに沈む幼い主を護っている。
足音を立てぬよう部屋を出る晴明と博雅の後を、左近だけがついて行く。濡れ縁へと戻った二人と一匹は、また粛々と厳かな酒宴を始めた。
「なんだか、驚いたな」
「何がだ」
「深雪がだ。…険しいというか…あんな追い込まれたような表情は、初めて見た」
「…そうだな。俺も始めて見た」
「―“きみか”か…。誰のことなのだろうなあ」
「………」
少しばかりの驚きを宿した眸で、晴明は正面の博雅を凝視する。ぼんやりと庭を見やっていた博雅も、間をおいて視線を感じ取り、居心地悪そうに晴明を見返した。
「―なんだ、晴明。俺の顔に何か付いてるか」
「いや、そうではない。お前がおかしな事を言うから驚いただけだ」
「おかしな事だと?そのような事は言っていないぞ」
「確かにおかしな事ではないが、博雅が言うからおかしな事のように思えたのだ」
あっさりと失礼な事を言ってのけ、晴明は心底感心したような面持ちで博雅を見る。
「博雅―何故お前は“キミカ”という名を気にしているのだ?」
「何故って…」
「意味の無い、ただの夢だと思わぬのか? 夢の中では天を舞うことも、理想の世界を築く事も出来よう。特に幼子はそうだ。現実では到底起きないような、大人には思いつきもしないような世界を創り出すこともあろう。深雪の夢も、その類だとは思わないのか」
「………それは…そうかもしれないが。…深雪は、夢の中で天を舞ったわけでも、在り得ない世界を見たわけでもないだろう」
「それはそうだな」
博雅は考え考えに言葉を切り、必死に言い回しを考えているようだった。いつの間にか博雅の傍らに伏せていた左近も、晴明と同じように博雅を見つめている。
「上手く言えないのだが……名が違うというのは、それだけで深い意味があるような気がしてしまうのだ。夢の中で天を舞うことは、不思議な気がしない。だが例え夢の中でも、自分の名が変わってしまっているというのは、何やら意味が有るような気が
してしまうのだ」
「―……」
「それだけではなくてな、深雪はこうも言っていただろう。『深雪はキミカじゃないが、キミカな気もする』と」
返事をする代わりに、晴明は小さく頷く。それを見てから、博雅は話を続ける。
「自分の本来の名ではないが、何度も呼ばれると何故か頷いてしまいそうになる。そんな目にあったことは無いが、なんとなく理解出来るような気がするのだ」
「そうか」
「そうだ」
一口、酒を口に含んだ晴明は、何か言いたげに博雅を見たが、すぐにそれを止めて視線を外す。そんな不自然な態度に一瞬困惑した博雅も、すぐに気付いた。
晴明が呑み込んだであろう言葉を、博雅は代わりに呟いた。
「おい、晴明」
「―なんだ」
「違う名で呼ばれているうちに、何故か頷きそうになる。それも呪か?」
「―うむ…」
「そうか」
「そうだ」
してやったり、と勝者の笑みを浮かべる博雅に、晴明は珍しく「俺の負けだ」と言いながら両手を挙げた。

庭先に植わった藤の香りが、風もなく濡れ縁に流れ込む。
その芳しさに胸を撫で下ろし、二人と一匹は西の果てに沈むまで月を眺めた。



あとがき
《途中書き》
あんまり暗くなりませんでした。しかも親父sがメイン?
晴明様に勝つ博雅様はもう二度と書けないのではと思います。どうでしょう?
はてさて、深雪ちゃんはどうなる事やら…(他人事)。
またも嵐の予感……。
しかも今度は不穏な気配がビシバシと……。
ってな訳でこんな背景なんすけど、蓮美さん。ダメだしお願いします。

新キャラ(?)の右近ちゃんと左近ちゃん(ちゃん付けOK?)!
頑張って深雪ちゃんを守るのだぞ!
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