神に魅入られし娘。その姿、白雪の如し。
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「ほお…これはこれは…」
晴明邸の濡れ縁へとやって来たその漢は、驚きを滲ませた声でそう言った。
荒れ野のような庭先、その中に居る少女の姿。
「保憲様。こちらにお座りください」
「おい、晴明。随分と変わった子供じゃないか」
漢―賀茂保憲は、二頭の狐と異形の少女を指差した。草花の生い茂る中に毛氈を敷き、その上に座した少女は、傍らに寝そべる黒狐に凭れかかっている。二頭の狐も並々ならぬ大きさで、小柄な少女を挟むように寄り添っていた。
「お前の屋敷は、来るたびに面白いことがあるな」
「面白いですか」
「ああ。滅多にお目にかかれんようなものばかりさ」
用意されていた円座に落ち着くと、差し出された杯を受け取る。向かい合わせに座る晴明は瓶子を取り、保憲の杯に酒を注いだ。
運ばれてきた素焼きの皿には、鰯の丸干しが山になっている。
「鰯が多くないか?」
「いえ。これで丁度いいんですよ」
晴明は鰯をつまみ、庭に向かってひょいと放り投げる。上手い具合に黒狐の鼻先に落ち、黒狐はその鰯を器用に咥え食べている。
晴明がもう一尾の鰯を放ろうとすると、保憲がそれを止め、にんまりと笑う。
「俺にもやらせてくれ」
皿から摘み上げた鰯を、晴明と同じように放る。それもまた上手い具合に、白狐の鼻先に落ち、白狐はそれを食べ始める。
数尾の鰯を放って与えていると、程無く皿の鰯は酒の肴らしい数に減っていた。
摘み上げた肴を、今度は自分の口に運びながら、保憲は酒を飲み干していく。
「あの子供は何処から来たんだ」
「知りません。拾ったものですから」
「拾った?お前がか」
「中将の博雅様ですよ。雪の降るよりも前に、戻り橋辺りで…」
「なんでまた、見るからに変わっている子供を拾う気になられたのだ?」
「『悪さをしたわけでもないのに殺められては可哀想』だと」
「成る程なぁ」
手酌で酒を注ぎ、一気に飲み干す。始終笑みを浮かべたまま、保憲はしきりに庭へと視線を送る。黒狐の背に凭れる少女は、どうやら眠っているらしい。四方に伸びる
木立ちの合間から日が差し、少女の白銀の髪は光を露のように弾いている。
「神気を宿しておるな。髪の一筋まで、見事なものだ」
「やはり、見えますか」
「しかし、人間のような気も混じっている。ヒトではないが、ヒトのようにも見える」
それは、周囲を取り巻く靄のようなもの。心の裡を映し出す、隠しようの無い鏡。
少女を取り巻く靄は清浄で、そしてとても穏やかだった。
身を置いている環境が、どれだけ平穏であるかが、手に取るように分かる。
「…あの子供を、いつまで側に置く気だ?」
「何故です?」
「いいや、気になっただけだが」
「―――。さて、考えたこともありませんでしたが…」
「博雅様なら、なんとお答えになられるかな」
「手放すなど思ってもいないでしょう。娘のように可愛がっておられますから」
保憲は声を上げて笑い、ふと真面目な表情を覗かせて晴明を見つめる。
何処か寂しげな、憂えた瞳で、ぽつりと呟く。
「しかしなぁ……別れの無い出会いはない………」
「――」
「あの子供は人間ではないのだろう。お前と同じように年を取っていくとは限らん」
「―ええ」
「お前が年老いて、事切れるその時になっても、あの子供が今と変わらず子供の姿だとしてもおかしくはない」
「そうでしょうね」
杯を口元に運び、乾いた唇を湿らせる。
「人間の暮らしに馴染んでしまっては…お前も死に、いざ独りとなったとき、あの子供はどうやって生きるのだ…?」
今は良い。
受け入れてくれる人間に守られ、慈しまれ、育まれている。
だが、
その人間が逝ってしまったら。
晴明が死んでしまえば、式神たちも消えるだろう。
野原のような庭が変わらず残ろうと、生み出す力を持つ者がいなければ、彼女達も形を保てなくなってしまう。
藤は藤となり、木犀は木犀となり、ある者は一片の葉となり、またある者は屏風に描かれた物となる。
そうして置き去りにされて、あの少女はどうやって生きるのだろう。
「突き詰めて言ってしまえば…酷なようだが、側に置くべきではないかもしれんぞ」
「………」
晴明は応えない。
黙ったまま杯を取り、殊更ゆっくりと飲み干した。
保憲が晴明邸を訪れて一時も経った頃。
青々とした晴天と、心地良い陽気に心を弾ませ、一条戻り橋を渡る漢が一人。
「おるかな、晴明」
やんごとない血筋の殿上人、源博雅。
立派な仕立ての直衣を纏い、そよぐ春風に時折息を付きながら進んでいく。
やがて辿り着いたのは、親友である陰陽師の住む屋敷。
常に開け放たれている門をくぐり、慣れた足取りで庭を通り抜ける。さわさわと鳴る下草を踏み、母屋の戸口に立つと、そこには見慣れた顔が既に待っていた。
「ようこそおいでくださいました、博雅様。主がお待ち申し上げております」
「葉常どのか。―? その猫は…」
「はい。賀茂保憲様の、式神でございます」
「保憲どのが来ているのか」
水干姿の葉常の腕には、小さな黒猫が抱えられている。尾が双つに割れており、子猫と思えるほど小さいのだが、貌つきや身体つきからして、どうやら成獣らしい。
「保憲どのが居られるのに、俺が来ても良かったのか?」
「主と保憲様は、博雅様をお待ちでしたので」
「俺をか?…俺は、あの二人に何かしたか…?」
怪訝そうに尋ねる博雅に、葉常は口元を隠して笑う。
「いいえ、博雅様。保憲様が、主と博雅様にお話がお有りのようです」
「話?」
「縁にてお待ち申し上げております。どうぞこちらへ―」
先導する葉常の後に続き、博雅は濡れ縁へと向かう。程無くして縁に出ると、そこには向かい合っている晴明と保憲の姿があった。
博雅の気配に気付くと、保憲はすぐさま立ち上がり博雅を振り返る。
「これは博雅様。お待ち申し上げておりました」
「お久しぶりです。話があると伺いましたが…」
「ええ。本当は晴明に話すつもりでいたのですが、博雅様にもお聞かせしたほうが宜しいのではと思いまして―」
晴明と保憲の間に用意された円座に、博雅が腰を下ろすと、丁度正面の庭に少女の姿があった。
右近と名付けられている黒狐に身を寄せ、ぴくりともしない。博雅の目には、細い寝息が耳に届いてきそうな、そんなほほえましい情景に映る。
「眠っているのだな…」
「朝早くから大騒ぎをしているからな。昼寝をしないと身がもたないのだろう」
「―平和だな…この屋敷は…」
はんなりと笑うと、盆に伏せられた三つ目の杯を手に取る。瓶子を持った保憲が、博雅の杯に酒を注ぐ。空のままだった保憲の杯に、博雅が注ぎ返す。
日が傾くには、まだ幾らか時間が残されていた。
「―晴明に、あの娘御は狐神に通じておると聞きました。ですので、これは話すべきかと思いましてな」
深刻そうな口調で話すが、表情はいたって柔らかい。食えない笑顔の裏を、博雅は勿論、晴明も把握できない。
「ここ数十日の間に…狐が狩られているのですよ」
「狐が狩られると?」
「ふむ。ざっと五匹になるか…。いずれも、稲荷として奉られている狐ばかりだ」
「…稲荷の狐が狩られるというのは……神殺しになるのではないですか?」
「その通りですよ。老狐ばかり、五匹。分からぬ者は分からぬが、見る者が見れば、神が不在の社などすぐに分かる。狐の狩られた社には、独鈷杵が残されていた」
鈷杵とは、主に僧侶が用いる仏具である。金剛杵といい、杭状の形をした独鈷、三股に分かれた三鈷、五股に分かれた五鈷があり、何やらの儀式の際に使われる。
「いくら年老いたとはいえ、神は神。そう簡単に狩られるとは思えませんが…」
「たしかにな」
「―……狐が…狩られると…。それはつまり……」
三人はそれぞれに顔を上げ、やがて庭へと目をやる。
意味する事は同じ。
人間として生まれながら、化生となった少女の姿が、そこに在る。
「…確証は無い」
庭先までは届かない、密やかな声で保憲は言う。
「ですが、嬉しいやら悲しいやら、私の勘はなかなか外れないのですよ」
「保憲様」
「保憲どの…」
苦笑いを浮かべる保憲に、晴明は苦々しげに顔を顰め、博雅は目を伏せる。
季節には到底似つかわしくない、張り詰めた空気が流れ始める。
口を開く者もなく、このまま沈黙に包まれるかと思われたその時、少女の声が辺りに響いた。
「…―せいめー…?」
揺蕩う望月の宵を舞う、孤独な蝶のような。酷く頼りなげで、儚く幻想的な声。
緩やかな春風にも打ち消されてしまいそうな、弱く小さな声だった。
「深雪。起きたか」
「……誰だ…?」
すぐに焦点を結び始めた深雪の視線は、真っ直ぐに保憲に向けられる。
身体を起こし立ち上がると、それまで動かなかった狐達まで立ち上がり、濡れ縁へと向かう少女の後を追っていく。
階を上り、博雅の傍らに座ると、瑠璃色の双眸で保憲を見つめ、尋ねた。
「誰だ?名は?」
「初めてお目にかかるな。賀茂保憲という。晴明と同じく、陰陽師だ」
「…おんみょうじ」
「そなたの名は、なんという?」
「みゆき」
「みゆき、か。―誰に名付けられた?」
「……?」
晴明を振り返ると、晴明は、あるか無しかの微笑を含んだまま、口元に杯を運んでいるところだった。
「深雪。深雪は式神たちが名付けたのだ。成長すれば、白雪のようにさぞかし美しくなるだろうとな」
「ふーん…」
「まったく。お前の式神は、相変わらず出来がいいな」
冗談めかしく羨むと、深雪は小首を傾げたまま保憲を振り返る。
「やすのりにも、式はいるのか」
「いるさ。ここに来た時、晴明の式神に預けておいた」
「どの式だ?」
「水干を着ていた…名はなんといったかな?」
「はつねか」
返事も待たずに立ち上がると、深雪は葉常を捜しに屋敷の奥へと入っていく。
保憲の式神を見に行ったらしい。
殆ど小走りになっている少女と、寄り添う狐達の姿が見えなくなると、保憲はくつくつと喉を鳴らした。
「思いきり幼子じゃないか。可愛いものだ」
「中身はまだまだ童のままですので」
「外身は立派に『女』だというのに。心が追いついていないのだな」
「……」
「世の公達共は、一風変わった女子に惹かれるものさ。大人しく屋敷に籠もる姫君ばかりが望まれるとは限らん。そのうえあの麗しさだ。気が気ではないだろう?」
保憲の言葉に顔色を変えたのは、他でもない博雅。晴明にも少なからず衝撃を与えたらしく、揃って硬直する二人に、保憲は一際大きな笑い声を上げた。
「気をつけろよ。晴明」
空が漆黒に呑まれる頃。戸口へと立った保憲は、硬い口調で言った。
「保憲様?」
「言っただろう。俺の勘はな、なかなか外れないんだよ。神殺しをする者が、人間なのか鬼なのかは分からん。―どちらにしろ、まともではないだろうな」
神を殺すなど、並大抵のことではない。
それ相応の力や精神力がなければ、出来るはずがないのだ。
狩られた天狐は、既に五匹。更に多く狩られる可能性は充分にある。
鬼なら、彼等でも手を焼く強さだろう。
もしも人間なら―…
「あれは良い子だ。人間よりもな。守ってやれよ」
「そのつもりですよ」
晴明の足元にじゃれ付く黒猫を拾い上げ、保憲はそれを懐に仕舞う。
にんまりと微笑み、足早に屋敷を後にする。
一条戻り橋を渡り終えると、懐から式を取り出し、自分の肩へ乗せ、空を仰いだ。
「今回ばかりは…俺の勘も外れて欲しいんだがなあ……」
あの子供が危ないと、何故だかそう思ってしまった。
千載を生く白狐の生命を宿した少女。
人間の子でありながら、人外の力を受け継いでしまった者。
「星が賑やかだな……。―晴明…油断するなよ…」
さらさらと流れる水音を背に、保憲はゆっくりと家路につく。
肩に乗る式の黒猫が、幽かに鳴いた。 |
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