森羅万象 理を絶ちて 神命を欲する者在り
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―「狐の『ホウジュ』を七つ集めると、死なないんだって」
独りごとのように呟かれた言葉に、晴明の動きがぴたりと止まった。
唐突な静止の仕方に、碁盤を挟んで向かい合っていた深雪が顔を上げる。きょとんと双眸を見開いたまま、まっすぐにこちらを見つめる晴明を覗き込む。
「どうかしたか?せいめい」
「―いや。…深雪」
「ん」
「誰に聞いたのだ?その話を」
「知らない」
その不自然な返答に、晴明は再び手を止め深雪を見つめた。
「夢の中になー、まっくろでおっきい犬が出てきて、『あべのせいめいに伝えろ』って言ってた。」
「犬が?」
「犬かな?右近より大きかった。分からないけど、犬みたいなやつ。犬よりも目つきが鋭かった」
「そうか…」
おそらく、それは犬ではない。
この少女を育てていた、神にも等しい彼の御仁。
「宝珠が七つ揃うと、死の無い身体になると?」
「そうじゃないんだって。死ななくなるんじゃなくて、『死ににくくなる』だけだって。ホウジュを持つと、『人間じゃなくなる』んだってさ」
「――…」
「ホウジュはえらい狐か、力が強いとか、とくに長生きしてる狐とかじゃないと持ってないんだって。それがうばわれると、どんなに強い狐も死んじゃうって」
―『どれほど力に長けた者であろうと、それを奪われては生きてゆけぬ。すなわち宝珠とは―』
奪われては生きてゆけない。どれほどの力を持とうと、死んでしまう。
それはまさしく…
「―…生命そのものではないか」
「うん、そう。その犬も、そう言ってた」
交互に並べられる石が、碁盤上に不可思議な模様を作り出す。
更に石を置こうとする深雪の手を止めさせ、懐から出した蝙蝠で盤上を指し示す。
二色の石が織り成す、絶妙なうず。
「囲碁とは『聖技』―神の作ったものと云われる。局の方正は地の則。道の正直は神明の徳。玄と白の石は陰陽を意味する。交互に打つことが時の流れそのもの」
「…昼が『陽』で、夜が『陰』とか?」
「それも含まれるな。更に―」
整然と並べられている石を、また交互に取り除いていく。
等間隔に隙間を空けられたそれを見て、深雪は大きく首をかしげた。
「これは?」
「『天地覆載』の図という。天が万物を覆い、地が万物を載せる象りだ」
「………」
「難しいか」
「むずかしいよ」
「そうか。徐々に覚えていけば良い」
手早く片付けを終えると、だらしなく床に寝転がった深雪の側に腰を下ろす。
両手足をいっぱいに伸ばして欠伸を漏らす深雪に、晴明は僅かに眉根を寄せる。
「眠いのか」
「…うん……」
「寝すぎだ。昨夜も大分早く寝ただろう。今朝は寝坊した。調子でも悪いか?」
「どこもわるくない。…眠いだけだ」
「なら起きていろ。夜に眠れなくて騒がれては、俺の方が寝られなくなる」
「さわがない。ちゃんと夜はねる」
拗ねたように頬を膨らませる姿はやはり幼い。話すうちにも睡魔が押し寄せてくるのか、うつらうつらと頭を揺らして、程無くそれも止む。
「…眠るなと言った側から……」
呆れを含んだ声で呟く。
ほんの少しばかり身を屈めて、白銀の髪に隠された少女の寝顔を眺める。
誰も寄りつかない屋敷の中、なんの不安も抱かずに過ごす日々。
当たり前のようにそんな日常を送る少女は、一点の染みもない白布と同じ。
どれほど小さな汚れにも、一度触れてしまえば 瞬く間に侵食される。
「――お前はこの先……どうなってゆくのだろうな――」
聞く者のいない言葉が、ぽとりと落ちた。
いくら人間として暮らそうとも、この少女は人間ではない。
今こうしているうちにも、自分とは異なる道を歩み始めているかもしれないのに。
「人間であったなら、共に生きられもしたろうよ」
端から無理と知りながら、口にする。
意味もなく開いた蝙蝠を閉じ、逸らしていた視線を戻し、再びその寝顔を見つめる。
出会いから数ヶ月、幾度となく訪れ、その度に不思議な余韻を心に残す瞬間。
やがて唐突に込み上げるのは、遠い昔に去った筈の、懐かしく穏やかな熱情。
痛みとも怒りともとれない、不快を伴う安堵感。
それに気が付き納得してしまえば、結局は何かを変える気など失せてしまって。
(俺もまだまだか)
堂々巡りもいい所だろう、どうかしている。今更手放すなど出来るものか。
知ってはいても、願わずにいられない自分なのだから。
どうか、このままで在ってくれと。
世の人間どもより、ずっと清らかに健やかに、透明な波風立たぬ水面のように。
知らぬまま、
無垢なまま、
綺麗なまま、
―――――――無知なまま。
ひとりの男が、大きな黒い犬を追い立てていた。
手には、鈍く光る物。
懐から出した一本の結い紐が、蛇のようにうねりながら、犬に絡み付いていく。
犬が鳴く。
牙の間から鮮血が溢れ、大きく喉を仰け反らせた。
…殺される。
不規則な呼吸を繰り返しながらも、逃れようと身を捩る。死ぬものか、と、抗う。
…ああ、あの犬は――
耳を塞ぎたくなるような、悲痛な声。胴体が不自然に揺れ、吠える。
…夢に出てきた…黒い犬…
男が、手にしたそれを振りかざす。心底楽しそうに、堪えきれない笑みを零して。
殺すの?
だめだよ
やめて
ころさないで
やめて
ヤメテ
―「っやめろ―――――――――――――っっっ!!!!!!」―
視界がぶれて
何も見えなくなる瞬間 その男が確かにこちらを振り返って
驚いたように でも嬉しそうに 声を漏らす
男の足元にいる犬は 濁った目で小さく鳴いた
我に返れば、視界には御簾越しの夜空が広がっていた。
春先の宵、日の高いうちは程好い陽気だが、空気はすっかり冷えている。
暫く間をおいてから、ゆっくりと起き上がる。何故だろう、とふと思う。
何故、自分はここに居るのだろう。
何故、こんなにも苦しいのだろう。
ああ、何故。―涙が溢れるのだろう――。
「…せいめー…」
自分以外の気配を感じない。
この世界に、たった独り残されてしまった、そんな深い孤独がのしかかる。
「―逃したか…」
男は独りごちると、木立ちの合間から除く空を見上げる。
白銀色の髪をした少女が現れ、姿が見えなくなった直後に、追っていた獣も闇に溶け込み消えてしまった。
「とんだ邪魔が入ったものだな。…どうしてくれようか」
苦々しげに呟きながら、口元に嘲笑を刷く。地面に落ちたままの結い紐が、意思を持ったようにうねりながら、男の手へと戻っていく。
「このまま逃れられるとは思うな。必ずや奪ってみせよう」
そう、地の果てまで追ってでも。
その腹を裂き、肉を切り、骨を割り、最奥に隠れるその宝珠を――。
「あと二つだ」
至福の瞬間まで、あと二つ。あと二つの宝珠を奪えば、神にも等しい者となれる。
死の無い身体を―不滅の生命を得られる。
「捕えてみせようではないか。天下の黒狐殿を、な」
くつくつと喉を鳴らし、笑う。
目蓋を閉じれば、その瞬間が難なく浮かぶ。
―あと二匹。大人しく俺に狩られるがよいよ。生きるしか能のない天狐どもが…―
門を押す力に気付き、晴明はすぐさま立ち上がった。
通りがかりに深雪の寝ていた部屋を覗くが、そこに姿はない。
長い廊下を早足に、だがけして騒々しくはせず、戸口へと向かい進んでいく。
そして、ようやく門が見えたとき。
「――深雪!」
閉じかける門の向こうに、覚えのある衣の端がちらりと見えた。
ほんの二日前には満月だったのだから、この晩の月もそれなりに太り明るい。
松明を持たなくとも、どうにか歩ける。
重い小袿の裾を捲り上げ、四苦八苦しながらどうにか夜道を走った。
(どこだ…?)
風に乗った濃い異臭を嗅ぎ分け、その臭いに顔を顰める。
あまり出歩いたことのない屋敷の外。迷いながら、どうにか臭いの元に辿り着いた。
さらさらと流れる水音が、地面よりも低いところから響いている。
「……お前……」
白い月明かりに晒された黒いものが、僅かに顔を上げる。
戻り橋の袂に横たわり、薄く目を開け深雪を見上げ、小さく、くうと鼻を鳴らした。
夢に現れた、真っ黒なあの獣が、金臭い液体に染まりながら。 |
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