事の始まりは、遡ること数年前。
いまだあどけない少女と、どこか飄々とした少年の交わした言葉。
――今はもう、少女は覚えていないのだろうけど。
―1―
―「時の流れは、早いものだね…」
眉ひとつ微動だにせず、かつての少年はそう呟いた。
生まれついての整った容姿は、女ならば誰しも嘆息してしまうほど麗しい。
カチャン、と小さな音を立て、テーブルから白磁のカップを取る。
辺り一面を照らす陽光に、癖もなく柔らかな亜麻色の髪が眩く煌いている。
彼は、客人を待っている。
淹れたての紅茶で満たされているカップを口元に運びつつ、外して放置された腕時計に目を遣り、見て取れないほど小さく嘆息する。
「…何も言わずに遅刻するようなコじゃなかったけど……」
カップを置き、手持ち無沙汰に宙を仰ぐ。約束の時刻は十数分前に過ぎている。
忘れられたのか、と考えるが、彼女に限ってありえない、と思い直す。
(口は悪いくせに…妙なところで義理堅いというか真面目というか……)
そう、そんな彼女なのだから。
例えどんなに遅れても、約束を違えることは絶対にしない。
まぁ、本当に口は悪いんだけどね。
―「わざわざこんな遠くまでお招き頂いちゃって、有難迷惑もいいトコだわ」
艶やかな紅い唇から零れる、不機嫌もあらわな一言。
硬質な靴音を響かせて現れた女性の姿は、全身黒のパンツスーツ。
肩口よりも幾らか長いブロンドをなびかせる彼女は、秀麗な眉を寄せたままに彼を見据え、見据えられた彼は、大して気にもせず彼女を見つめる。
美女と称するに相応しいそのヒトこそ、彼の待っていたかつての『少女』。
会って早々の彼女の台詞に、知らず微笑んでしまう。
「きみ、変わらないね。あの頃のままだ」
「褒めてるつもり?」
「いいや。貶してもいないけど。…なんで遅れたの?」
「定刻には着いてたのよ、一応。このお邸がムダにだだっ広いから、この部屋に来るまでが時間かかっただけ」
「そう、それは悪かったね。この部屋に招きたかったものだから、きみを」
その部屋の壁は総ガラス張り。部屋というより、温室である。
鳥篭を模したアンティーク調の温室は、天窓のステンドグラスが織り成す極彩色に満たされ、摩訶不思議な雰囲気を醸し出している。
温室の中央に、彼が座る椅子とテーブル。
入り口から彼のいる場所までは、手入れの行き届いた植物達が道を作っている。
「きみ、好きだったでしょう。この部屋」
「…キライではないけど」
「『緑が溢れて、温かくて、明るい場所は安心する』って言ってたのはきみだよ」
彼女がまだ少女だった頃。
はじめてこの部屋にやって来て、届くわけがない天井に向かって手を伸ばし。
光に包まれながら囁くようにもらした言葉だった。
彼と向かい合って座った彼女は、何の気なしに辺りを見渡す。
所狭しとひしめき合う植物達の顔ぶれは、あの頃と大差ないように見えた。
全て白で統一されたプランターから、可憐な野趣が自己主張をする。
薔薇。
かすみ草。
ガーベラ。
アイリス。
胡蝶蘭。
気の向くままに集められた統一性のない花々。
よくよく見てみれば、ハイビスカスやポインセチアまであった。
唐突に立ち上がる彼の気配に、知らず目を見開いて振り返る。彼女の視線に気付くと、食えない笑みで「すぐ戻るから」と言い残し部屋を出て行った。
言葉どおり、彼は五分と空けず戻ってきた。ティーカップの載ったトレーを手に。
鼻腔を掠める華やかな芳香が、気位の高さを感じさせる。
「"レディーグレイ"だよ。こういう香り、キライじゃないでしょう?」
「………」
『好きでしょう?』ではなく、『キライじゃないでしょう?』なのは意図があるのか。
そんなことをふと考えるが、彼の心中など分かるわけがない。
憮然とした表情で、「結構スキ」と素直に応えてみた。その応えに、彼は笑う。
穏やかな時間だ。
数年ぶりの再会だが、交わす言葉は極端に少ない。
彼も彼女も賑やかなのが嫌いではないが、こんな静けさも好きだった。
―あの頃に戻ったみたい。
彼女にしては珍しい、感傷的なことを思う。口に出したりはしないけれど。
大人と子供の境界線にいた頃。
大人になったつもりでいて、まだ誰かに保護されていた時代。
今、彼女の前に座る青年は『少年』で、彼女は『少女』だった。
数年前、世界はまだ、せまかった。
繰り返される単調な日々は、平和の表れだった。
学校が面倒クサイとか、さぼっちゃおうか、とか、単位足りてたっけ?、とか、気になるのは日常的な事柄が大半で。思春期ならではの戸惑いや衝動も生活の一部分で、人間関係の複雑さに苦悩したり、苛立ちや不安に泣いた日もあった。
もういやだ、やめたい。そんなふうに、放棄してしまったモノは少なくなかった。
好きだとか、嫌いだとか、そんなことを平気で口にして、何かを傷つけていた。
誰もが何かしら抱え、無くしたり、得たりして、成長していった。
―――もっとも、この場にいる彼と彼女は少々事情が違った。
彼は、とあるホテル王の愛孫だった。
一代にして巨万の富を築いた祖父に従い、後継ぎとして教育された。
物心ついた時には、秒刻みに過ごす毎日が当然になっていた。
同じ年頃の子供と遊んだ記憶などカケラもない。孤独も自覚していなかった。
彼女は愛情に飢え、孤独だった。
両親に愛されることなく、二人の叔父に育てられた。とても大切にされた。
叔父達には大勢の友人がいて、その友人達にもまた可愛がられ、守られた。
なのに心のどこかで、まだ癒されない自分を知っていた。
生来の性分なのか、生い立ちや生育環境が原因なのか――――、
二人は異様に冷めた目をした、情熱を持ち合わせない『少年』と『少女』だった。
「――僕らは、運が良かったのかもしれないね…」
聞き逃してしまいそうな、彼の呟き。
心地良い沈黙を破った脈絡のないその一言に、彼女は視線だけを向ける。
「あの頃、もしあの場所で、きみと会わなかったら。きみにだけじゃなくて……良い友人に出会って、受け入れられてなかったら。今頃きっと、気が触れてた」
「………」
「きみもそうだろう?あの頃のきみは、いつも何かを諦めたカオしてただろう。そのくせ上っ面では笑って、適当に周囲と話を合わせて、愛想良く振る舞って」
「………」
「自由奔放に生きてるような素振りを見せて、本当は演技をしてただろう?」
「…まーね。あんたと会うまで、誰にも気付かれたこと一度もなかったのにさ」
当たり障りのない会話をして、面倒事は上手く避けていた。
大抵の者が彼女を「人当たりが良く大人びた優等生」と認識していたのだろう。
「なんで気付いたの?」
「ん?」
「私が演技してるって、なんで分かった?」
「そんなこと、見てればすぐに分かったよ。口元だけで、目が笑ってないから」
「あんたも似たようなものだったでしょう。テキトーに笑って、場を盛り上げてさ。そのくせ誰も見てないと無表情に冷めた目で見下してた」
似た者同士だったねぇ、僕たちは。苦笑しながら、過去の自分を思い出す。
本当に、きみと僕は運が良かったんだね。
自分を偽ったまま出会って、お互いの演技に気が付いて、距離を近づけて。
不器用な関わり方しか出来ない僕らを、理解してくれる友に出会えたおかげで、
本心から笑えるようになっていった。
「僕らが巡り合った幸運に、感謝したいよ」
「あっそ。感謝なら神様に好きなだけしなさいよ、バチは当たらないでしょ」
「可愛くないなぁ、その言い分」
「可愛くなくて結構。あんたに可愛がられたいなんてこれっぽっちも思わん」
「……(本当に可愛くない)」
面白くない、と顔面に貼り付けたまま、彼はカップの中身を飲み干した。
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