今日この場に招かれた理由を、彼女は知らなかった。
数年ぶりに訪れた彼の生家に――彼自身は常に各国を転々としているため、生家という意識は特別ないのだが――、一種の懐かしさのようなものが込み上げて、理由を尋ねるより何より、その思いに意識が向いていた。
「最近は、どうしてるんだい?」
「別に、これといって変わった事はないけど」
「……へぇ?」
含みを持たせた彼の言葉に、何か嫌な予感を覚えた。
単なる勘ではない。長くはなくとも短くもない、彼との付き合いから自然と身に付いた“危険探知センサー"である。
内心では冷や汗を流しながら、表情にはおくびにも出さず彼を見る。
(――何を企んでやがる……?)
警戒されていることに気付いていないのか、彼はやはり笑みを浮かべたままに彼女を見つめる。
…気付いていて彼女の反応を楽しんでいるように見えなくもない。
「きみが勤めているのはイギリスの…心霊現象とかの研究所だったかな?名前はたしか――」
「“Society of Psychical Research"」
「そうそう、SPR」
「ついでに言わせて頂けば、あたしは正式には本部の人間よ。研究所とは別」
本部がロンドン、研究所はケンブリッジにある。
本部に籍を置いてはいるが、ここ最近は研究所の仕事に足を突っ込んでいるため本部の人間とは疎遠だった。
(本部より研究所の方が居心地が良い、ということもあったが)
「――近頃は日本まで通っているらしいね」
さらり、と自然に告げられた彼の言葉に、彼女はぴたりと動きを止める。
日本にあるSPRの分室に、彼女はわりと頻繁に足を運んでいる。実を言えば、今回もこの後に行く予定だ。
日本支部への出張を申し渡された直後に彼からの手紙が届き、出張と招待を一度に済ませようと有給休暇まで半ば力尽くで奪い取って来ていた。
彼女が日本支部との掛け橋―…もとい糸電話状態であることは、SPRの一部では有名な話である。
が、しかし。
「―ちょっと」
「何?」
「なんであんたが、そんなこと知ってるの?」
しかし、である。彼女が糸電話状態である事実は、SPRの人間の一部でのみ有名な話であって。
まるっきり部外者である彼が、偶然にも知り得るようなことではない。
彼と彼女に共通の友人は多くいるが、SPRの内情を(それもマイナーな)耳にする機会がある者などいない筈だ。
そして、それはつまり。
「……何を企んでるわけ?………」
彼が故意に知ろうとしなければ――…耳に届くなどありえないということ。
噂で聞いた、なんて言い訳は通用しない。彼に招かれて訪れたこの場所は、本国から海を越えた別の国なのだ。
それでなくとも彼は各国を渡り歩く身。どの国にいっても決まった噂が流れている、なんてことは考えられない。
彼女自身、彼に仕事に関する話をした覚えなど皆無。
数日前に送られてきた手紙がなければ、彼の顔を思い出すこともなかったかもしれない。
それほど二人は遠のいていた。
不信感と僅かな憤りに表情を険しくする彼女に、彼は微笑んだ。
普段見せている、人当たりのいい笑顔ではない。双眸を細め、腹に一物抱える意味深な笑いを深めていく。
「…ついこの間まで、仕事の関係で日本にいたんだよ。東京近郊から千葉近辺にホテルを作る計画があって。
そのときに、渋谷辺りに行く機会があったんだ」
「…渋谷に…?」
「そう。それで、なかなか可愛い子を見つけた。栗色の髪に褐色の双眸――セーラー服を着ていた」
「―――」
「急いで尾行させて、そのコがバイトでもしているらしいオフィスも見つけた。道玄坂の途中にあるビル。
そこの二階にある、ブルーグレーのドアの擦りガラスに――」
金字で書かれた、渋谷サイキックリサーチ…“SPR”の文字。
「……っ!」
「気に入ったんだよ、そのコがね。だから―」
「だから、何?」
「分かってるんだろう?…欲しいんだよ」
「それでSPR本部のことまで嗅ぎ回ったってわけ!?」
「まあ、ね。SPRって略称に、聞き覚えがあったし。もしや支社か分室かと思って、調べさせてもらっ…!」
言い終わるより早く、真向かいの彼女が彼の胸倉を掴み上げる。
細い指が変色するほどの力を込め、表情を変えない彼を鋭く睨みつけた。
「…苦しい、んだけ…どっ」
「当たり前よ。わざと苦しいようにヤってんだから」
「っ…ほん、とうに…昔と変わらない、な…きみは……」
「っ!!!」
舌打ちと共に、彼の身体を突き放した。『昔と変わらない』、という言葉が、彼女は心底厭わしい。
まるで、変わり映えしていない、と嘲られているようで。
「……まったく……。でも、正直驚いたんだよ。君が日本人と馴れ合ってるなんてね。昔は嫌っていたのに。
あのオフィスに出入りする人間は殆ど日本人みたいだけど、きみは随分と馴染んでるようだね」
「そんなこと、あんたに関係ないじゃない」
「ああ、たしかに僕は関係ないよ。…でもね、僕はその少女が気に入った。だから、手に入れる」
彼が気に入ったと豪語する少女の心当たりは、彼女には1人しかいない。
黒衣の上司の最愛の恋人。
褐色の双眸に栗色の髪。わりと小柄な体格に、明るく和やかな声をした少女―――麻衣。
彼女の中で警鐘が鳴っている。目の前にいるこの男は、本気だ。
常識や一般論など鑑みるような男じゃないことは、彼女自身「嫌」というほど知っている。
『気に入ったから、欲しい。』
そんな単純明快な理由で、これから彼が何をしでかすかを予想するだけで…意識が遠のいてしまう…。
――止めなければ。麻衣は勿論私もヤバイ。(断言)
「ちょっと」
「?」
「気に入ったって、どこが?あんたの理想って『身長は低くなくて気が強くて潔い姐御肌』じゃなかった?」
「え?あー、うん。それはそうなんだけど。ま、趣旨替えっていうか、気分転換?」
「………」(「気分転換?」って…)
ああ、なんだか眩暈が…。
「あ、あのね!常識として言わせて頂きますけど!!物じゃないのよ?札束積んで済むことじゃないのよ!?」
「札束積むなんて、まだ決めてないよ。…それもひとつの手段ではあるけど」
「そもそもそのコ…谷山さんには恋人がいるの!黒ずくめの超絶美形天才博士が!!
あんたが谷山さんのこと掻っ攫ったりしてみなさいよ!私の命が危ないのよ―――っっ!!」
一見してそうは思えないが、あの博士様が麻衣を溺愛していることは暗黙の事実。
麻衣がナンパ男に絡まれようものなら、無言の圧力で半径10m内の人間を凍て付かせるほどなのだ。
それがもし…見ず知らずの男に恋人を横から掻っ攫われるようなことがあれば………。
しかもその男と顔見知りなうえに事の真相を私が知ってたなんてバレたら…!!(青ざめ)
「……どうかした?…」
「………」
顔を両手で覆って俯く彼女に声をかけるが、彼女には届いていないらしい。
細い肩を小刻みに震わせつつ、独りで思考の渦にどっぷりとはまってしまっている。
…ああ、もしこの男に狙われているのが他の誰かなら。
見ず知らずの赤の他人だったのなら、今すぐにでも「ハイさよーならv」と言い残し逃げ出せるというのに…。
非情と言われようが冷たいと罵られようが、我関せずとばかりに完璧無視を決め込めるのにっ!!
「…ラスティー…」
「え?」
ラスティー、と呼ばれた彼は、きょとんと目を見開き彼女を見る。彼女はいつも、彼を「あんた」や「ちょっと」と呼んだ。
名前で呼ばれたことなど数えるほどしかなかった…ので、少なからず驚いてしまう。
「どうしたの?シェリー」
名前を呼ばれた嬉しさもあり、彼もまた彼女を名前で呼ぶ。自分で頬が緩むのを感じてしまう。
(そういえば昔、初めて僕の名前呼んだとき……自分で言いながら照れて赤くなってたな、シェリー……)
照れ隠しに不機嫌になっててさ…可愛かったなあ…もっと背も小さくて華奢だったしv(←思い出して悦っている)
「殺すわよ?」
「…は?」
「私、絶対殺されるわよ。谷山さんの恋人に。だから殺される前に元凶のあんたを殺すわ。」
「…どーゆー理屈で?」
「どうもこうもないのよ。私のモットー第一条は『やられる前にヤれ』なの。」
音もなく立ち上がった彼女に気圧され、ラスティーは無意識に息を詰め椅子ごと後ずさる。
なんだかよく分からないが、自分が麻衣に手出しをすると、もれなくシェリーの命が危機にさらされるらしい。
「…本気?シェリー」
「冗談言ってるように見える?」
「……(見えないから怖いんだよ)」
二人の間を隔てるテーブルは、シェリーの手によって邪魔にならない位置に押しやられてしまう。
じりじりと距離を縮めるシェリー。
椅子を蹴倒し、ずりずりと後方へ逃げるラスティー。
それなりの広さがある室内だが、時間の経過と共に壁際へと追いつめられていく。
ラスティーと壁との距離、僅か1m弱。逃げ場などない。かくなるうえは――――
「シェリー」
「…何よ。何か言い残す言葉でもあるの?聞いてあげるわよ。遺言状書く猶予はあげないからね」
「(なんつー恐ろしいことを…っ)いや、そうじゃなくてね、そのコに手を出さない代わりに、頼みたい事があるんだ」
「え?」
「その頼みを聞いてくれるなら、善良な一般市民を掻っ攫う真似は今後一切しない。どう?」
「………」
悪くはない条件だ。頼みひとつを聞けば、世の中の女性は皆安泰なのである。
その頼みを聞くのが他でもない自分であることが多少不満だが、このさい妥協して手を打つのもいいだろう。
「よし、のった。聞くわよ」
「聞いてくれる?……それは良かった」
安堵の色を浮かべ、そのまま壁に背を預けへたり込むラスティーは、ひらひらと力なく手を振る。
それを受けてシェリーは彼の目の前に身を屈め、まじまじと顔を寄せて彼の言葉を待つ。
「…で?頼みって?」
「怒らないで聞いてくれる?」
「出来る限り努力するわ」
「――――あのね…」
…………………。
「…………」
「…………」
「…………」
「とゆーことなんだけど…聞いてくれるんだろう?」
「…………」
「………?シェ…」
『ばっちん!!!』
「!!?…った〜〜(痛)!!!!」
「寝言は寝て言えっ!!このクサレぼっちゃん!!!」
見目麗しい青年の頬にビンタを浴びせ、シェリーは別れの挨拶もなくその場を後にしていった。
独り放置された青年は呆然と彼女の背中を見送り……数分後、ビンタを繰り出す直前に真っ赤になっていた彼女の顔を
思い出し、堪えきれずに声をあげ、笑い転げてしまった。
――――『あのね、…僕と結婚して欲しいんだけど』。
「まんざらでもないみたいだし…頑張り甲斐があるな〜」
彼女が怒ってみせるのは、何も腹を立てているときばかりではないのだから。
日の翳り始めた極彩色の庭で、目新しい遊びを見つけた子供のように瞳を輝かせ、彼は芝生に寝転んで。
「まずは手始めに、渋谷で例のコを拉致しよーっとv」
……なんとも物騒なことを呟きながら、飽きることなく策謀に耽るのだった。
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