冬来たりなば 春遠からじ
1
2001年10月26日
そろそろ秋も深まったと、目に映る情景が物語っていた。青々としていた木々は紅や黄色へと色を移し、そしてそれは、すれ違う人々の衣装からも見受けられた。つい数日前までは半袖や、薄手のシャツを着こなしていたのに、トレーナーやパーカーを上から羽織っている人達がやたらと目に付く。風は少しずつ冷たさを増し、肌寒さがやたらと身に染みる季節になった。
そんな肌寒い夜。河田小学校4年生の高石タケルは、有明行きのゆりかもめの車内から、ライトアップされたレインボーブリッジをぼんやりと眺めていた。
母と喧嘩してしまった。
タケルはその事を後悔しながらも、家へ戻ることが出来ずにいた。家を飛び出してフラフラと歩き回り、気が付けばゆりかもめに乗っていたのだ。
(お母さん心配してるかな…)
今頃母は一人で一体何を思っているのだろうか。
心配しているだろうか、それとも怒っているのだろうか。ひょっとしたら泣いているかもしれない。そうは思っていても、飛び出してしまった手前、簡単に帰るのも躊躇われる。
(お母さんが…悪いんだ……)
そんな事を考えている間に、ゆりかもめはお台場海浜公園駅へ到着していた。
あまり人気の無くなった駅の自動改札を抜けて、階段を降りると、タケルはまたフラフラと歩き出した。
本当なら今日は『良い一日』で終わるはずだった。と、冷たい風に打たれながらタケルはぼんやりとそう思った。
タケルは現在、毎週金曜日の必修クラブとは別に、バスケ部に所属している。その部活動で、タケルは6年生が卒業した後の、4月からのレギュラーに選ばれたのだ。最初は背が伸びれば良いなぁ…等と軽い気持ちで入部したのだが、気が付けばバスケットボールの魅力に引きずり込まれていた。辛く厳しい事もあったけれど、毎日が楽しく、とても充実した日々を送っていた。(背も伸びた)そして、ついに念願のレギュラー入りである。嬉しい以外に何というコメントがあるだろうか。
部活が終わると、タケルは一目散に帰路に付いた。
早くこの事を母に報告したい。きっと母は手放しで喜んでくれるだろう。そう信じていたのに…。
母は、悲しそうな顔をした。
そして、ごめんねと言った。
高石ナツコは悩んでいた。そして、自分の発言の、タイミングの悪さに今更ながら後悔していた。もう少し、良いタイミングで言っていたら、タケルが出て行く事も無かっただろうに。
飛び出していったタケルを追いかけることも出来ずに、ナツコは、これからどうするべきかを必死に考えていた。時間は既に『夜』に分類される。ナツコは、小学生のタケルが、今、一人で外を歩いていると考えるだけで不安になった。でも、タケルの行き先は大体想像がつく。おそらくお台場に住んでいる、離婚した夫と長男の所だろう。そう考えると、ナツコは重い腰を上げると電話の前に立ち、暫く悩んだ末に受話器を持ち上げた。
「あぁ、分かった。タケルが来たら電話するよ」
『お願いね、ヤマト…』
ヤマトがTVを見ながら晩御飯を食べているところへ、急に母親から電話がかかってきた。そして、久しぶりの電話だというのに、告げられたその内容に驚いてしまった。電話の向こうの母が、少し震える声で、弟のタケルが家を飛び出したと話した。ヤマトはそれに動揺しつつも、取りあえず母に落ち着くように、そして、もしも自分の元へ来たら、すぐに連絡すると言って、静かに受話器を戻した。
お台場中学校1年生の石田ヤマトは、着けていたエプロンを脱ぎ捨て、ドッカリとソファに凭れ掛かった。心配で心配で、今すぐにでも家を飛び出して探しに行きたくなる気持ちを、ぐっと抑える。
「何やってんだよ…タケル…」
父親も未だ帰ってきていない一人きりの部屋で、ヤマトはぽつりと呟いた。
アクアシティ1階の玩具屋で山積みされているぬいぐるみを見ながら、これからどうするかタケルは悩んでいた。きっと兄の所には既に連絡がいっているだろう。そう思うと足が竦んだ。
(パタモンに会いたいな…)
山積みにされているぬいぐるみを見ると、ふとデジタルワールドにいる自分のパートナーデジモンの事を思い出した。
あの、長くて短い冒険を共にした、自分のパートナー。忘れる事なんか出来るはずもない、大切な友達。
そして、その冒険の日々を思い出すと、タケルは何故か無性に悲しくなった。
――あの頃は良かったと、
――あの頃に戻りたいと…
「タケルくん?」
「え?」
突然声を掛けられ、驚いて振り返るとそこにはいつからいたのか、城戸丈が立っていた。
塾の帰りにふらりと立ち寄った玩具屋で、芝学園中等部2年生である城戸丈は、見覚えのある後ろ姿を見つけて立ち止まった。
1999年の夏休みに一緒に冒険した仲間。
希望の紋章を持つ年下の男の子。
そして今、自分にとって一番大切な、かけがえのない特別な存在。高石タケル。彼である。
丈はふと、あの夏を思い出し、赤面してしまった。
デジタルワールドでの冒険から戻ってきて間もなくの未だ暑い夏の日に、丈はタケルからいわゆる『愛の告白』を受けたのだった。
それは当然だがまったく予想だにしなかった出来事で、丈は驚き、青天の霹靂とはこういうものかと実感したのだった。最初は冗談だろうとか、勘違いだろうとか思っていたのだが、タケルの真剣な気持ちに、丈の心は揺り動かされ、そして知らず知らずのうちに惹かれていったのだった。
その、タケルの告白から約一ヶ月後、周りを巻き込んでのすったもんだの末に、二人はいわゆる『お付き合い』を始めたのだった。
さて、そんな事はともかく。
丈はその、ぼんやりとぬいぐるみを見つめるタケルの顔がチラリと見えた。目は潤み、今にも泣き出しそうに俯いている。
「タケルくん?」
思わず声を掛けてしまい、驚いて振り返ったタケルの顔を見て、丈はひょっとしたら見られたくなかったのかもしれないと、声を掛けた事を少しばかり後悔した。
丈には会いたくなかったと、タケルは思った。今一番会いたくて、そして一番会いたくなかったと。
タケルは丈の顔を見る事で、それまで我慢していた涙を流してしまった事を悔いた。
声を押し殺し、ただ涙を流すタケルの手を、丈はぎゅっと握り、彼を無言で促して玩具屋を後にした。
「落ち着いたかい?」
促されるままにタケルは丈の家へと連れてこられた。
突然泣き乍らひっぱられるような形で家を訪れたタケルに、丈の家族は驚きながらも敢えて何も聞かず、ただ温かい紅茶を運んでくれた。「ごめんなさい…急に泣き出しちゃったりして」
「………うん」
どうしてこんな時間にあそこに居たのか。
どうして突然泣き出したのか。
聞きたい事は山程あるのに、どう聞いていいものかと言葉に詰まり、奇妙な沈黙が二人を襲った。
「今日ね、ぼく、お母さんと喧嘩しちゃった」
その長くも短くもない沈黙に終止符を打ったのはタケルだった。
漸く落ち着いたのか顔色も幾分か良くなったようで、丈は少しほっとしたのだが、母親と喧嘩をしてしまったというタケルの告白に驚いた。
「喧嘩?一体どうして…?」
「実は……」
「実は?」
言葉を続けないタケルを訝し気に思いながらも、丈はタケルが話し出すのを、ただじっと待った。
ナツコの電話を受けてから一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。タケルからは、電話の一本も来なかった。火傷するほどの熱さに煎れていたコーヒーは、その熱を失い、温いを通り越して冷たくなってしまっている。ただじっと待っている事が出来なくて、ヤマトは洗濯機を回したり、ベースの弦を張り替えたりはしていたが、その間もずっと心配で、心中穏やかでなかった。
前にもこんなことがあったような気がするな…と、記憶の引出しを開いてみる。
(あぁ、そうだ。あれは確か…)
デビモンの手によって、ファイル島が分裂し、皆と別れ別れになった時だ。
…あの時も自分は冷静でいられなかったなと思い出してヤマトは眉を顰めた。
自分はいつだってそうだ。タケルの事となると、つい我を忘れてしまう。
その所為でヤマトはよく太一と衝突していた。一人悩んで、皆と別行動を取った事もあった。だが、少なくともあの頃より自分は成長したはずだと、ヤマトは自分自身に言い聞かせた。
しかし、そんな考えとは裏腹に、今またあの時と同じような感覚がヤマトを襲っている。
――それは、妙な不安感。
次第に大きくなっていくその感覚に押し潰されそうになって、ヤマトは軽い眩暈を覚えた。
そして……
待てど暮らせどやって来ない弟への心配を、ついに我慢できなくなったヤマトは、探しに行くべきかどうかを悩み、「自分は今回結構我慢できたはずだ」「いつもならとっくに飛び出しているところだ」と、これからの自分の行動を正当化する為の、理由にならない理由をぼそぼそと呟くと、椅子の背もたれに、乱雑に脱ぎ捨ててあった上着を手にとった。
家を出る前に、一応母親に連絡を入れておいたほうが良いかもしれないとは思ったが、徒に余計な不安を抱えさせるだけかもしれないと考え、敢えて連絡をするのは止めた。
上着を羽織って、テーブルの上に置いてあった携帯電話とデジヴァイスをポケットにしまうと、急いで夜のお台場へと飛び出した。
外へ出ると、日中は未だ暖かいのに対して夜は結構冷え込んでいた。もしかしたら海が近いという地理条件が寒さを手助けしているのかもしれない。
秋は短い…。冬はもうすぐそこまで近づいて来ているらしい。
ヤマトはそんなことを考えながら、寒さに少し肩をすくめると、とりあえず駅のほうへ向かって歩き出した。
――ナツコからの連絡を受けて、約2時間後の事だった。
トイレに行ってくると言い残して丈は部屋を出た。相変わらず口の重いタケルの緊張を少しでも解してやろうという気持ちと、…そして彼の家族を安心させてやらなければという気持ちがあったのだ。
トイレに入ると丈はポケットから携帯電話を取り出した。先ずはヤマトに連絡を取ろうと、電話帳機能から『石田ヤマト』の名前を拾い出し、通話ボタンを押した。すると3回コール音が鳴った後で留守番電話に切り替わった。
ひょっとしたらタケルを探し歩いているのかもしれない。もしそうだとしたら、尚の事早く教えてあげなければいけない。
丈はすぐさま、今度はヤマトの携帯電話へコールした。
『もしもし』
「あ、ヤマト?僕だけど…」
『丈か?悪ぃ、今ちょっと急いでるから後で掛けなおしてくれないか?』
「いやその…タケルくんの事なんだけど」
丈からその電話を受けたヤマトは、安堵し、そしてすぐに行くからと言って電話を切った。
そうだよ、何で気が付かなかったんだ?タケルと丈は付き合っているんだから、自分の所以外に行くとしたら、それは当然恋人である丈の所じゃないか。
その考えに到らなかった自分を毒づきながら、ヤマトは丈の住むマンションへと急いで走った。
丈が電話を切って部屋へと戻ると、そこでは幾分緊張が解れたらしいタケルがベッドに凭れ掛かって丈を待っていた。
「お兄ちゃんに電話したんでしょう?」
「うん… 勝手にごめんね」
丈はタケルの右隣に腰を下ろすと、ポットの紅茶をティーカップへと注いだ。
「はい、タケルくん」
「ありがとう」
温かい紅茶を一口、二口と口にすると、タケルは漸くぽつりぽつりと話しだした。
「ぼく、4月からのレギュラーに選ばれたんだ、バスケ部の」
「やったじゃん! タケルくん、頑張ってたもんね。うん。おめでとう」
「ありがとう」
タケルが3年生になって、バスケ部に入部を決めたと言われた時、あまりにも突然だったので丈は少なからず驚いた。タケルはいつも「会える時間が少ない」とこぼしていたから、そんな、ますます会えなくなるようなことをしなくても…と思ったりしたのだが、丈自身も中学に進学してからというもの、塾だ何だと前以上に時間が取れずにいたので、胸中を言葉にすることなく、ただ一言「頑張ってね」としか言えなかった。だがしかし、その後時間を見つけて二人で会う度に、楽しそうに語る部活の話と、目に見えて成長していくタケルを見て、丈は何だか自分の事のように嬉しく思った。だからこそ、このレギュラー入りの報告も本当に嬉しく思い、賛美の声も自然弾んだ。
しかし、そんな丈の態度とは裏腹に、タケルは悲しそうな顔で続けた。
「それでね、ぼくすっごく嬉しくて嬉しくて…早くお母さんに知らせようと思ったんだ。お母さんが帰ってきて、ぼく一番に報告したんだ。お母さん、今の丈さんみたいに絶対喜んでくれると思ってたんだ。…それなのに…それなのに……」
「…それなのに?」
「お母さん、ちょっと悲しそうな顔してから、ぼくに向かって「ごめんね」って言ったんだ…」
「「ごめんね」?」
鸚鵡返しに呟いた丈に、タケルは小さくコクリと頷いた。
「引っ越しが…決まったって」
感極まったタケルの目に、再び涙が浮かんだ。