冬来たりなば 春遠からじ
2


 息を切らして弟のタケルの元へ駆けつけたヤマトは、その場のどこか異様な空気の重さに思わず閉口してしまった。

 普段笑顔を絶やさないタケルが声を殺して、ただ静かに涙を流している。こういった状況下では、大抵いつも慰め、声を掛けている筈の丈も、タケルの横に座り、唇を噛んで俯いている。

 それはとても奇妙な情景に見えた。

「…どうしたってんだよ…タケル、丈。お前ら一体何があったんだ?」

 二人は今までヤマトの存在を認識していなかったらしく、声を掛けると弾かれたように顔を上げた。タケルは慌てて涙を拭い、丈は小さく息を吐いた。

「お兄ちゃん…」

「…ヤマト……」

 どこか虚ろ気な2人の瞳に、眉を顰めたヤマトの姿が映った。

「ごめんね、お兄ちゃん。心配させちゃって」

 もうすっかり大人びてしまった弟の、無理に浮かべる痛々しい笑顔に、ヤマトの胸はきつく締め付けられた。

「何があったんだ?説明しろよタケル…」

「お母さんから聞いてないの?」

「…あぁ」

「そう……」

 再び顔を落とすタケルに、ヤマトはどう声を掛けていいのか分からなくなって顔を顰めた。

 取りあえず座ったらどうかと言われ、ヤマトはタケルの左隣に腰をおろした。丈はポットの紅茶を注いでヤマトに渡すと、タケルと自分のカップにも紅茶を注ぎ足した。

「ぼく、引っ越すんだって。3月に」

「はぁっ!?」

 突然のタケルの告白に、冗談は止せと言いたくなったヤマトだったが、二人の表情が真実だと語っているようで、その言葉を口にする事が出来なかった。  

 三人ともが、何と言って良いのか言葉に詰まり、どうにも上手く会話が続かなく、また沈黙へと陥ってしまった。

 タケルが引っ越してしまうなんて、そんな事は考えたくなかった。今も兄弟なのに、離れて暮らしているのに …これ以上離れるなんて……!

 なんとも言い難いもやもやした気持ちがヤマトの胸中に押し寄せた。

 そしてそれは丈も同じだった。付き合っているとはいっても、毎日一緒にいられるわけでもない。年齢だって離れているから学校が一緒になることもない。第一、今現在で他の誰よりも離れている場所に住んでいるのに…。今以上に距離が開くなんて考えたくもない。

「ぼく、嫌だよ… バスケもだけどさ、今のクラスの皆と別れるのも…お兄ちゃんと更に離れるのも…丈さんに会えなくなるのも…!
いつだって僕は、もっとずっと一緒にいたいと思ってるのに…!」

 タケルの悲痛な声が、三人の心を悲しく支配した。

「とりあえず…母さんには心配するなって、オレから連絡しとくからさ、明日は第4土曜で休みだし、今日のところはこっちに泊まっていけよ。…な?」

 手の中のティーカップをくるくると回しながら、ヤマトはタケルにそう勧めた。タケルはそれに素直に頷きはしたものの、相変わらずどこかぼんやりとしている。ヤマトも丈も、そんなタケルの様子を見て、どうしたものかと視線を宙に彷徨わせた。

「……ねぇ、ヤマト…。あのさ、タケルくん、僕が預かっちゃ駄目かな…」

「「え?」」

 突然の丈の提案に、ヤマトとタケルの声が重なり、二人の視線は丈へと向いた。

「いや、だからさ、僕、タケルくんとゆっくり話したいし。…ね?良いだろう?」

「……良いだろも何も、それはタケルの決めることだから…オレの口出しすることじゃねーだろ…」

 と、どこか渋い声で言うと、ヤマトは二人から一歩身を引いた。
 本当なら…こんな状況じゃなかったら、きっと口を出していただろうヤマトに、丈とタケルはほんの少し感謝の念を送った。

「ぼく、丈さんと一緒にいる…!」

 聞かなくても大体分かっていた答えをタケルの口から聞くと、重い腰を持ち上げて、ヤマトは丈の部屋を後にした。

 タケルと丈は、二人きりなると、どちらからともなく肩を寄せ合って手を繋いだ。ただそれだけの事で、気持ちが幾分軽くなったような気がした。



 ヤマトからタケルを見つけたという連絡を受けて、ナツコはほっとした。しかし、

『タケル、今晩は丈の家に泊まることになったから』

と言われて思わず首を傾げた。

 城戸丈。最近タケルの口からよく出てくる名前である。

『アクアシティにいたのを、塾帰りの丈が見つけてくれて、タケルを落ち着かせてくれてたんだ』

「そう…迷惑掛けちゃったわね」

『あいつはきっと迷惑だなんて、少しも思っちゃいないだろうけど』

「そうかしら? でも一応、お礼を言っておかないとね。急に泊めてもらっては、お家の方にも悪いし… ねぇ、ヤマト。城戸さんのお宅の電話番号教えて頂戴」

『あ、ああ…うん。でも今はタケルの事、そっとしておいてやってほしいんだ… きっと今頃泣き疲れて寝ているだろうし』

「えぇ、そうするわ」

『あ…それと……』

「何?」

『……いや、いい。…おやすみなさい』

「? おやすみなさい、ヤマト…」

 ヤマトとの電話を切って、ナツコは続いて丈の家へと電話を回した。既に深夜と呼べる時間帯だったが、突然息子を泊めてもらうのだから連絡はしておかないと、と思った。

 遅い時間にもかかわらず、電話は意外にもワンコールで取られた。

『はい、城戸ですが…』

 若い男の声が電話に出た。

「夜分大変申し訳ありません。高石といいますが、うちの息子が急に泊めてもらう事になったそうで…」

『あぁ、タケルくんのお母さんですか。こんばんは。タケルくんなら今、丈と一緒にお風呂に入っていますよ』

「あ…ご迷惑お掛けしてすみません…。それと、ありがとうございます」

『いえいえ、全然迷惑なんかじゃないですよ。それに時間も遅かったし、明日は休みだからって、泊まっていけばと言いだしたのは、丈の方だったらしいですしね』

 電話口の男は丈の兄だろうか、何が可笑しいのかはははと小さく笑って言った。

「失礼ですが、親御様はいらっしゃいますか?一言御礼をと思いましたもので…」

『すみません。生憎今晩は父が夜勤なもので、ついさっき、母が車で送って行って…今丁度二人とも居ないんですよ。戻るまでもう少し時間が掛かると思いますし、僕の方から電話があった事を伝えておきますので、お気になさらないで下さい』

 そう言われるとこれ以上何も話す事は無い。明日の朝にでももう一度電話をすればいいかと考えて、ナツコは曖昧に挨拶をして受話器を置いた。



 ナツコとシンが電話で話していたその頃。

 タケルと丈は決して広いとはいえない浴槽に二人仲良く、肩を並べて浸かっていた。

「これで2回目かな?一緒にお風呂に入るの。久しぶりだよねぇ」

「前はデジタルワールドでだったんだよね」

 のんびりと、だけどどこかしら蕩うように、デジタルワールドでの思い出を話しだした。

「あの頃は大変だったよね、ご飯もお風呂も思うようにならないし、危険はいっぱいだったし… そう思うと今は幸せだね。そんな事、少しも心配しなくて良いんだもん」

「うん」

 温かいお風呂に入って、暖かい布団で寝て、お腹が空いたらご飯を食べる。
 それは今や当り前の日常。

「それなのに、今更『あの頃は良かった』なんて思うのは何故だろうね…」

「……うん…」

――そんな事、分かりきっている。

――いつも周りに仲間がいたから。

――いつも、一緒にいられたから。

 もしもあの冒険が無かったら、きっと二人は出会うことも無かっただろう。学年も、住んでいる場所も違う。ひょっとしたら、知らず知らず街中ですれ違ったりすることもあるかもしれないが、こうして二人で一緒にいることなんて、まず有り得なかっただろう。そう考えると、あの辛く厳しかった冒険の日々に、望郷の念が募る。

 ぱしゃりと浴槽のお湯を小さく波立たせて、丈は更に深く湯に浸かった。反動で溢れたお湯は、排水溝へと吸い込まれていき、その面白くも何ともない流れを、ただぼんやりと目で追った。

「ねぇ…」

 丈の、小さくタケルへと向けた声は、風呂場全体に大きく響いて届いた。

「…引っ越すまでさ、まだ時間あるんだよね」

「うん。5ヶ月くらい…」

 そう、それが唯一の救いだろうか。急じゃなくて本当に良かった。

「じゃあさ、引っ越すまでの間、塾も部活もない休みの日は、必ず会うことにしようよ。一分一秒でも多く一緒にいないとさ、なんだか勿体無いもんね」

 丈のその提案に、タケルは笑って頷いた。風呂から上がったら、3月末まであと何回休みがあるか手帳で調べてみようねと言って、丈が優しく笑ったので、タケルも嬉しくなって笑った。

 そんなタケルの笑顔に、丈も照れてしまったのか、自分の顔が熱くなるのを感じた。

 丈の兄であるシンが、脱衣所の扉を開けると、丁度二人が浴室から出ようとしていたところだった。

「随分長風呂だったんだなぁ、二人とも」

「うん、ちょっとね。つい話し込んじゃった」

 どうやら軽くのぼせたらしく、真っ赤になった丈とタケルは、少しフラフラしながら濡れた体を拭いていた。それでも風呂に入る前の顔と比べると、二人ともどこかすっきりしていた。

「早く寝ろよ、いくら明日休みだからって、いつまでも起きてるんじゃないぞ」

「「はーい」」

 声を揃えて返事をした二人は、どこか微笑ましい。

「あ、そうだ。タケルくん、今お母さんから電話があったよ」

「…何か、言ってました?」

「ううん。特には。何?何か聞いておいた方が良かったかい?」

「いや…」

 それきり何も言わないタケルに首を傾げる。

「じゃあ、シン兄さん。僕たちもう寝るから」

 丈が間を取り持つように言ってくれたので、シンはこれに相槌を打って、それ以上何も聞かない事にした。

 部屋に戻って時計を見ると、既に日付は変わっていた。

「ちょっと待っててね、タケルくん。布団、もう一組取ってくるから」

 丈の、一人用のベッドで二人寝るには、少し狭いからと提案したのに、タケルは首を振った。

「一緒に寝ようよ、丈さん」

「え? でも…狭いよ?」

「大丈夫。ぼく、寝相そんなに悪くないから」

 そう言うと、タケルはそそくさとベッドに入った。そういう問題じゃないんだけどね…と、丈は苦笑して後に続いた。二人で寝転ぶとやはり窮屈だったけれど、とても心が満たされていくようだった。

「電気、消すね」

「うん」

 電気を切ると部屋は枕元の電気スタンドの灯りだけになった。その小さな光だけを頼りに、丈は手帳を開いた。手帳には2001年の1月から、2002年の3月までのカレンダーが載っている。

「今日が10月…もう27日だから…」

 いちに…と、指で日付を追って数えてみる。

「冬休みを入れて、あと51日だね」

「……51日…」

 春休みはどうなるか分からないから、3月は単純に第2・第4土曜日と日曜日だけを数えてみて、あとは冬休みを入れて51日。その間、何回塾や部活があるかはわからないけれど、それらが無い日はずっと一緒にいられる。そう思うと、51日もあるのか、51日しかないのかという判断に迷う。…微妙な日数だ。

 ふと、これからのことをぼんやり考えていた丈に、タケルがぎゅっと抱きついていた。それはあまりに突然だったので、丈の心臓はドキドキと忙しなく動いた。

(まるで耳の真横に心臓があるみたいだ)

 その、あまりに大きな心音に、丈の顔は真っ赤になってしまった。

「丈さん、すごくドキドキしてるね」

「……〜〜タケルくん…」

 からかわないでくれよと、情けない声を出した丈に、タケルは

「ぼくもね、すっごいドキドキしてるんだよ」

と、言葉を返した。

「…うん」

「もうちょっと、このままでいさせて…」

「うん……」

 丈の方からも、ぎゅっと抱きしめ返すと、タケルは嬉しそうにフワリと笑った。

「明日は、ずっと一緒にいてね」

「もちろん。タケルくんが嫌だって言っても僕は一緒にいるよ」

 そのまま二人は微睡みながら、いつの間にか深い眠りに落ちていった。





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