冬来たりなば 春遠からじ
5
2001年11月02日
『タケルくん、何かいいことあったでしょう』
「え、どうしてわかったの?」
『わかるわよ。タケルくんってば、いつも感情が声に現れてるんだもの』
クスクスと笑いながら、電話越しの少女、八神ヒカリは言った。
引っ越し騒動から一週間が経っていた。タケルは、ヒカリに引っ越しの事を連絡しようと電話を掛けたのだが、その話をする前に「いいことあったでしょう」と先手を打たれ、タケルは苦笑するしかなかった。
「まったく、ヒカリちゃんには敵わないなぁ」
そしてタケルは、自分が4月からお台場に引っ越すことを、ゆっくりと話し始めた。
『良かったね、タケルくん。じゃあ4月から、同じクラスになれるといいわね』
「うん。そうなってくれると、ぼくも心強いよ」
タケルは、この同い年の少女が好きだった。
自覚していなかった、自分の中の丈への想いに気付いて背中を押してくれたのは、他の誰でもないヒカリだった。
以来、こうして電話で相談に乗ってくれたり、励ましてくれたりする彼女は、タケルにとって、丈とはまた違う、唯一無二の存在だ。
タケルはヒカリに、先週末の出来事を掻摘んで話し始めた。ヒカリはそれに、相槌を打って聞いてくれた。
『折角レギュラーになれたのに、勿体無いね』
「ううん。引っ越しの事、先生に言ったらね、1月にある練習試合、スタメンじゃないけど出番をくれるって」
『よかったね、タケルくん。頑張ってね』
「うん。ありがとう、ヒカリちゃん」
タケルは嬉しくなって、今度はバスケの話を始めた。
ヒカリはいつも、タケルのそんな他愛ない話を、楽しそうに、ころころ笑いながら聞いてくれるから、タケルは毎度、ついつい長電話をしてしまうのだ。
気が付くと、電話を始めてから、既に30分と少しの時間が経過している。
結局、またしてもメインの話とは関係の無い話をだらだらとしてしまったらしい。
「それじゃ、ヒカリちゃん、また電話するね」
『うん。またね、タケルくん。 …あ、そうだ。ねぇ、シェリーの〈西風に寄する歌〉っていう詩、読んだ事ある? 』
「西風に寄する歌?」
『うん』
電話を切ろうとしていたタケルには、ヒカリのその言葉は唐突すぎて、思わず鸚鵡返しに聞いてしまった。
タケルはその詩どころか、シェリーという作家の名前も知らなかったので、知らないと答えた。
『その詩でね、こんな一節があるの。「冬来たりなば、春遠からじ」って』
「冬来たりなば……春遠からじ?」
『うん。これはね、寒い冬が終わったら、必ず次に暖かい春が来るみたいに、今が不幸で、悲しくても、いつかきっと、必ず幸福になれるから、希望を持っていなさいっていう意味なの。それでね、この言葉を初めて聞いた時に、私、思ったの。タケルくんにピッタリだなぁって』
「…ぼく、不幸じゃないよ?」
ヒカリが何を言いたいのかがよく分からなくて、タケルは首を傾げた。
その様子が伺えたのか、ヒカリはまた、小さく笑った。
『タケルくんが不幸だとか、そういう事じゃないの。タケルくんってさ、いつだって前向きでしょう?
だから、ピッタリって言ったのは、この言葉、タケルくんそのものみたいだなぁって思ったからなの。…わかる? タケルくんに与えたい言葉じゃなくって、タケルくんのイメージを持つ言葉ってことなの。ほら、タケルくんの紋章って、希望だったじゃない? だからかな、』ああ、もう。上手く言葉に出来ないなぁ…と、苦笑しながら言ったヒカリの言葉に、タケルは胸の内が熱くなるような感じがした。
「ありがとう、ヒカリちゃん」
君の方にこそ、その言葉はピッタリだと、タケルは思ったが口にはしなかった。ヒカリがくれる〈光〉は、いつだってタケルの心に、暖かい春を連れてきてくれるようだったから。
タケルがヒカリとの電話を終えた、丁度その時。ポケットの中に入れていたDターミナルが、メールを着信した事を告げた。
【明日、時間があったらメールを頂戴。
僕の学校、学園祭だから遊びにおいで?
駅まで迎えに行くよ。 丈】
その、たった三行の短いメールに、タケルの心は簡単に躍らされてしまった。
「…これが春だ……」
知らず知らずのうちに笑みが零れる。
本当の春までには、本当の幸せまでには、あと数ヶ月あるけれど。
「冬が来ないや」
笑いながら、タケルは返事を打つのだった。