冬来たりなば 春遠からじ
4
「頼もう!!!」という大声と共に、ヤマトが城戸家のドアを抉じ開けたのは、それから数分後のことだった。
「どうしたんだい?ヤマト…」
「お兄ちゃん…何かあったの?」
突然パジャマ姿(プラス爆発頭)で現れたヤマトに、二人は驚いて顔を見合わせた。
「ええぃっ!離れろ二人とも!!」
昨日は渋々ながらも二人でいることを許可した筈のヤマトが、掌を返したように食って掛かってきているのに対し、二人はわけがわからずに顔を見合わせた。そんな自然な『いちゃつきっぷり』を醸し出す二人に、ヤマトは更に腹を立てる。
「タケル!家に帰るぞ!」
言って、勢いでヤマトはタケルの右腕をぐっと掴んだのだが、ヤマトが精一杯力を入れているにもかかわらず、タケルはぴくりとも動かなかった。
ヤマトは背中に冷たい汗が流れるのを感じて、引っ張っている対象である弟を恐る恐る見た。
タケルはその視線に気付いて、にっこりと笑った。
「お兄ちゃん。どういう事か説明してくれないと、僕だって困るんだけどな?」
タケルの右腕を掴んでいたヤマトの右手を、タケルが左手で掴み返した。利き腕じゃないくせに、その力は半端じゃなくて、ヤマトはうっかり泣きそうになってしまった。
そんな兄弟間に流れる不穏な空気を取り除こうと、恐る恐る丈も口を開いた。
「…ねぇ、ヤマト。タケルくんの言う通り、まずは落ち着いて、何があったのか、僕たちにわかるように話してくれないかい?」
そう言って、二人に手を放すように促すと、丈は「コーヒーでも入れるから、二人は部屋に行っててよ」と、キッチンに向かった。
残されたヤマトとタケルは、それに従って丈の部屋へと移動した。
「で?一体何があったって言うんだい?」
丈に出されたコーヒーで、少しだけ落ち着きを取り戻したヤマトは、ちらりとタケルを見て顔面蒼白になった。
(……やばい…)
事と返答によっては許さないよ?と、不機嫌オーラを力一杯醸し出しているタケルに、ヤマトは小さく震えた。
「実は……つい先刻、親父から聞いたんだ」
「「…何を?」」
聞き返すタケルと丈の声が仲良く重なったのに対して、ヤマトはまたしてもムッとしたが、タケルの表情が相変わらずだったので、敢えて何も言わずに(言えずに)話を続けた。
「タケルの引越し先だよ…」
ぶっきらぼうなヤマトの言葉に、タケルと丈は思わず顔を見合わせた。
「本当かい、ヤマト」
「あぁ」
思わずヤマトに詰め寄って、丈は、どこか複雑な顔をした。聞きたいという気持ちと、聞きたくない気持ちが半々で、どうしていいか分からなくなったのだ。
「それで、タケル…」
「何?」
ヤマトは少し考えて、「これは…母さんから直接聞いた方が良いと思う…」と言った。理由を言わずにそれだけを伝えたヤマトに、タケルは訳が分からないまま、言われた通りに母に電話することにした。
受話器を持つタケルの手が、微かに震えるのが、ヤマトと丈の目に映った。
TRRRRRR…
ナツコはけたたましく鳴る電話の音で目が覚めた。昨夜はなかなか寝付くことが出来ず、漸く眠れたのは明け方だったからだ。電話の音を耳にして、慌てて起き上がり、ベッド脇の時計を見て、その時間に吃驚した。既に昼に近い。
「はい…高石です」
言って自分の声が、寝起きのそれと分かるようで、ナツコは咽喉を鳴らした。
『………お母さん?』
「タケル!」
昨夜、自分の失言の所為で飛び出してしまったタケルからの突然の電話に、ナツコは喜びつつも驚きを隠せずにいた。
「心配したのよ、タケル。ごめんなさいね、昨日は突然あんな事を言って」
『ううん、ぼくの方こそ、飛び出したりしてごめんなさい』
素直に謝る息子に対して、ナツコは安堵の溜息を漏らした。
「いいのよ、タケル」
『…ねぇ、お母さん。お兄ちゃんがさ、引越し先、お母さんから聞けって…』
少し不安げに、小さく呟くように聞いてくる息子の言葉で、ナツコは自分が未だ引越し先を教えてなかったことを思い出した。きっと、先に教えていれば、今回のような騒動は起きなかったかもしれないと思い、ナツコは自分の失態にただ反省するばかりだった。
「引越し先は、お台場よ…」
「え?」
電話の途中で固まったタケルに、丈は不安を隠せずにいた。タケルが引っ越してしまうという事実を、改めて突きつけられたようで、またしても胸が痛くなる。丈は自分を落ち着かせようと、少し温くなったコーヒーを啜った。
「それ、本当? ……うん…わかった……」
どこか、先程までより明るいタケルの声に、丈は顔を上げた。ひょっとしたら引越し先はそんなに遠くないのかもしれないという望みが沸いてきた。
カチャリと受話器を戻す小さな音がしたかと思うと、タケルが突然抱きついてきたので、丈は思わずそれに答えるように、自分も腕を回した。
「お台場だって!」
「え?」
「引越し先、お台場だって! 丈さん。今までより、ずっと近くになるんだよ!」
…お台場…と、小さく繰り返してみると、タケルが嬉しそうに頷いた。丈は、さっきまでの沈んだ空気も何処へやら、満面に笑みを浮かべると、まわしていた腕に力を込めた。
「やったぁ!」
「うんっっ!」
「わかったら離れろ!」
すっかりヤマトの存在を忘れてしまっていたタケルと丈は、その叫びで、漸く彼の存在を思い出した。
「昨日はお前らが離れ離れになると思ったから大目に見てやっただけだ! オレは未だ認めた訳じゃないんだからな! ホラ、離れろ!」
ヤマトは一気に捲したてると、二人に離れるように叱った。
「あ…ヤマト、ごめん」
苦笑して、そう言いながらも、回した腕を解こうとしない丈に、ヤマトは不機嫌になり、眉を寄せて力一杯睨んだ。しかし、その視線に怯み、罰の悪い顔をしつつも、それでも丈は、タケルと抱き合ったままだった。
「てめ…丈っ! 離れろって言ってんだろ!」
カチンときて、ヤマトが力ずくで二人を離そうと、丈の胸倉を掴んだ。丈は「わぁ」と情けない声をあげると、あっけなくヤマトの方へと引っ張られ、バランスを失い、フローリングの床へと倒れこんだ。
「丈さんっ!」
「てて…大丈夫だよ、タケルくん」
ひらひらと手を振って、丈は己の無事を知らせてみせたのだが、タケルは丈を優しく抱き起こし、心配そうに顔を覗き込んだ。
「お兄ちゃん?いい加減にしてくれないと、ぼく、怒るよ?」
冷ややかなタケルの声が、その場に凛と響いた。
振り返り、ヤマトの方へ向けたタケルの顔には、文字通り『天使のような悪魔の笑顔』が浮かんでいる。「怒るよ」と言いながら、既に怒っているタケルに、ヤマトは言い知れぬ恐怖に慄いた。
「タ…タケル……」よろりと後退る。
「…昔は可愛いかったのに、丈と付き合い始めてからタケルは変わってしまった。前はおにいちゃんおにいちゃんって、いつでもオレの後を追ってきていたのに、ああそうか…恋人が出来るとそんなもんか…オレはもうどうでも良くなったんだな…もうタケルの中での一番は丈で、なんでもかんでも丈中心に回っていくんだな。」
ぶつぶつ言いながら、フラフラと部屋の隅へ歩いて行ったかと思うと、壁に寄掛かり、ヤマトはがくりと肩を落した。丈は何と声をかけて良いのかわからずに、ただその様子を見た。相変わらず、背にはタケルの腕が回っている。
「ねぇ、タケルくん。今日はもう帰った方が良いんじゃないかな?」
ヤマトを気の毒に思ったのが半分。そして、タケルと母親を、きちんと和解させておいた方が良いと思ったのが、もう半分だろうか。丈は、大丈夫だと言ったのに、未だに自分を支えてくれているタケルに、そう提案してみた。
しかし、タケルは首を横に振った。
「……今日は……ぼくが嫌だって言っても…一緒にいてくれるって、言ったじゃない!」
だから嫌だと宣言して、タケルは丈にしがみついた。
丈は困ったように小さく笑うと、自分にしがみついているタケルの頭に、手を置いて、優しく、そっと撫でた。
「うん。言ったね。だからさ、僕と一緒に、一度タケルくんの家に行こうよ。それで、タケルくんとお母さんがちゃんと仲直りしてから、また一緒に遊びに行くなり、泊りにくるなりしないと、帰らないままだと、お母さんも心配しちゃうだろう?」
「うん…わかった」
「じゃ、まずはヤマトに謝んなくちゃね」
「うん」
タケルは、そろそろと丈へと回していた腕を解き、ゆっくりと立ち上がった。部屋の隅で肩を落しているヤマトに向かって、小さく「ごめんね」と謝ると、ヤマトはそれだけで少し浮上したようで、「オレの方こそ、ごめんな」と、先刻までの暴走した自分を、照れながらも詫びた。
「さ、タケルくん。一回家に帰る用意しよう。ヤマト、キミもいつまでもそんな格好してないでさ、鏡見たの?アタマ凄い事になってるよ?」
クスクスと笑う丈に、ヤマトはやっと自分が凄い格好をしていることに気付いたようで、わたわたと手で髪を梳いた。その仕草に、タケルと丈は思わず吹き出してしまった。その、あまりにも大笑いする二人に、ヤマトはバツが悪くなったのか、
「じゃ、タケル。ちゃんと母さんと話すんだぞ?」
と、一言残して、そそくさと部屋を出て行った。
ヤマトの居なくなった部屋に、またしても二人きりになった丈とタケルは、一頻り笑うと、「何だか台風一過っていうカンジだったね」なんて感慨深い感想を述べて、また笑い合った。
「それじゃあ、僕たちも行こうか」
「うん」