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<< 明星を語るINDEX ■「香港」というプロミストダンド■


前章(第2弾)で、僕はあえてタブーを犯しました。

一番第好きな明星をあえて「けなす」という・・・。
しかし、ここで問題になるのは、当日の僕のコンディションでした。
当日夜勤明けで、1回寝てしまったこと。かえって、仕事疲れで会場に来られた皆さんにはアンディが「癒し」になったのだろうけれども。
僕は「ビンビン」でした。

アンディはCDで聞く際、僕の癒しになっているのでマイナスにでちゃたかな。
また、当日中途半端にアンディを好きな人と行きたくなかったので、ひとりで行ったこと。
やっぱり、誰かと分かち合わないと感激半分なのかな。
と、今では思っています

しかし、引いた視点で見た前章(第2弾)を覆すつもりはまったくありません。
ただ、仲間に言われた「何故、日本人じゃなく香港人に癒されるのか」という問いは今、重く受け止めています。

本当に、心の癒しが何故、東南アジアの1国のスターなのでしょう。
もちろん、アンディの声の艶、日本のスターには考えられないゴージャスさ、ということで反論の余地はあるでしょう。

しかし、結局広東語の歌を聴くことで僕はあえて「現在の地を逃れて」(わかる日本の詩をあえて聴かないで)「香港」をプロミストランドにしている傾向があるのではないか。

実際の香港は、アンディがプロデュースした(単に名前を貸しただけという噂もあるが)フルーツ・チャンの「香港製造」と「去年煙花特別多」のような「ざらざらした」「残酷な現実」があるだけなのかもしれません。
そして、この2作とも、登場人物は僕のように甘ったれて「約束された場所」を夢見るのではなく、「この地から逃れられない、」そして、「俺はこの地で生きる。」という厳しい認識をしていた事をふと思い出してしまうのです。

そう、僕の「香港」は実際の「香港」ではなく、あらかじめ約束された「約束の地」としての「香港」なのでしょう。

今年は、香港明星3人「フェイ」「ジャッキー」「アンディ」を見る機会に恵まれましたが、もう「何が何でも香港明星だから行く」ということは、やめようかと思います。

僕は今ここで存在している僕の「貧しさ」からスタートする事にします。
そして、何故広東ポップスを聞くか、香港映画を見るか、ということを「己の貧しさ」からの「逃避」からではなく、あの東南アジアの1国に「それでも存在する普遍性」を、見つけ出し、言葉に紡いでいきたいと思います。