ちょっと待ってろ、と言われて、音遠は独り会社前に止めてあるバイクに寄り掛かっていた。
さきほどの現象を思い返して口元を歪める。
ふっと溜息をついて一言。
「パソコン…弁償しなきゃなんないのかなぁ」
イヤ、そんな事心配してる場合じゃ無くて。
「ソフトウェア製作してるんなら膨大なデーターが入ってたんだろなぁ…しかも親機だし」
ふぅぅぅぅ…
海より深い音遠の溜息は玄関を出入りする社員達の大きな注目の的というか、その視線にはありありと
不審者に対する嫌疑の念が込められている。しかし哀愁に浸る音遠がそれに気付く事は無い。
「今月バイト代消えるのかなぁ…ひーさんが上手く誤魔化してくれると嬉しいんだけど」
「安心しとけ、分割でいいってよ」
「そうか…じゃあ月々6000円36回払いでヨロシク…って…」
自嘲気味に呟いてみて、我にかえる。
「ついでに言えば消えたデーターの入れ直し、ってか」
「キツイ冗談は止めようねひーさん」
「そっちこそ、警察呼ばれても文句言えないくらい怪しかったぞ」
そう言いながら皇はメットを手にとった。
随分と早い帰りにすこし首を傾げる。
「もういいのかい?」
「おう」
短く返ってきた返事には、なんの感情も籠っていなかった。

「ひーさんてさ、あの会社嫌いなの?」
「ああ?!」
高速で走っている上、メットに遮られ、声は届かないだろうと言う事を承知で音遠は問いかけてみた。
親戚に対する態度が何となく引っ掛かったのだ。
「聞こえねぇッ」
「……ひーさんも将来あの会社で働くのかなって」
大声で聞き返してきた皇に、音遠も負けじと声を張り上げる。
今度は届いたのか、返ってきたのは沈黙だった。
あまり答えを期待していた訳ではなかったのだが。
「働くよ、多分な」
「働きたいのー?あそこで」
「他に行くトコ探すの面倒くせぇし」
「…………さいですか」
あっけらかんとした声だ、進んで行きたいとも、嫌だとも取れない声。
確かに苦労して就職活動するよりも、確実に雇ってもらえる身内の会社の方が良いに決まっている。
悲しきかな、現代の若者は皆こうなのかなぁと音遠は密かに嘆息した。

バイクを走らせて1時間余り、見なれた教会の入り口にバイクは滑るように入り込んだ。
「ハイ、お疲れ」
「おー」
のろのろとメットを外して皇は教会の中へ入ってゆく。
―バイクは疲れる。
金を少し消費しても、電車内でちょっとくらいヒマな時を過ごさなければならなくても
面倒臭い乗り換えがあっても、今度からは電車を使おうと結論付けた皇だった…。

ぎぎぎと軋んだ音をたてる扉を開けてふらりふらりと住居区の扉に力を込めた時
それよりも先に、勢いよく扉が開かれた。
「?!」
予期せぬ出来事に前へつんのめって倒れ込みかけた皇は、次に訪れる衝撃を予想して咄嗟に目を閉じる。
―ぽすッ。

「……………………?」

しかしながらに予想した衝撃は、何故か柔らかかった。
訝しげに瞳を開いてみると、柔らかい布生地の感触が窺え
柔らかい胸の中でしっかりと抱かれていると理解するのにたっぷり数秒。
「…………は?」
あすかの胸で無いと言う事だけは辛うじて分かった。(肉の付き方が根本的に違うのだ)
おそるおそる首をもたげてみれば、目映いばかりの笑顔とぶつかる。
「ミコちゃんだぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜vvv」
はーとまーくがたっぷり3コは付いてそうな叫びと共に再びむぎゅっと抱き締められた。
ぐりぐりぐりと頬擦りされてるような気もするが個人的には気の所為であって欲しい。
激情のままにオンナノコに抱き締められる。
健全な男子から見れば至って羨ましい図なのだろう。
感想は大変苦しいんだが。
って、冷静に状況整理してられる場合では決して無かった。
「だぁぁぁぁッ?!」
なんとか謎の腕を引き剥がして本人の顔を確かめにかかる。
小さくて白い顔、ほっそりとした身体、さらさらで薄茶色の髪が肩の上で切りそろえられている。
にこにこ笑う表情が大変愛らしく、子供っぽさを残してはいるが
彼女を包む雰囲気と、皇のものより少し高い目線が決して子供なのでは無い事を教えていた。
っつーか見た事無い顔だった。
「…………?」
「ふうちゃんこれミコちゃんだよね?」
「うんひーさんだね」
扉から見えるソファにずぼーっと埋もれてくつろいでいるあすかに誰だコレと目線で問いかけてみれば
『フ、そんなコトも分かんないのか?』
と、一見嘲るりようにも見えるのだが、明らかに面白がった視線を返される。
つまり教えてやろうと言う気がこれっぽっちもないのだ。
「…………………………」
てめぇ覚えてやがれよと目線で返したまではいいのだが、再び首に腕をからめて引き寄せられる。
もし相手から何らかの闘志なり殺気でもあったのなら、容赦なく一瞬の隙をついて抜け出す事が
できない訳でも無いのだが。
何と言うか、ノリが何処の女子高生で、ただべたりと引っ付いてくる相手への免疫なぞ
生憎皇にありはしなかった。
「分かんない〜?」
もがもがと暴れる皇におっとりと問いかけるマイペースさに溜息でもついてやりたくなる。
「あんまりひーさんからかっちゃダメだぞ睦っちゃん」
「からかってないもん、喜びを身体で表現中〜」
「イエ離してくれると嬉しいんスけどね…」
ボソリと取り敢えず控えめに訴えかけた言葉は悲しいかな、当然かな聞いては貰えなかった。
「う〜ん毎晩チャットでお話してるのにね〜」
「………………………」
幸運なこと(?)にチャットで全く同じ話し方をする人物に心当りがあった。HNは………
「………もしかせんでもトレントか?」
「正解〜〜〜!睦美だから睦っちゃんって呼んでねv」
うきゅ!と訳の分からない擬音を発して再び抱き着かれた。事態に変わり無し。
「お〜、睦ッちゃん来てたんだ」
「カイン君だ〜〜〜!」
後方からのこのこやってきた音遠を確認してぱっと今度は音遠の方へ跳び移る。
良く言えば元気で、悪く言うにも…言葉が見つからなかったし考えるのも面倒臭かったので
皇は漸く解放された身体をソファへ向かわせる。
いまだのほほんとソファで寝そべるあすかをぎりりと睨み付けて襟首をがしっとつかんでみたり。
一回三途の川でも見せてやりたくなってみたり。
「てめぇ………」
「いやん、私に八つ当たりは止そうね★」
今度はおほしさままぁくが見えた気もした。男が使っても気持ち悪いだけである。
「会社まで行ってきたんでしょ?」
お疲れさん、とばかりにあすかがソファの半分を空けてくれた。
疲れているのは事実なので、黙ってぼふんと座り込むと一気に疲れが襲ってくる。

「あぁぁぁぁぁ………疲れた…………」
脱力気味に遠い目をしてみせる皇にソファの上から突然別の声がかかった。
「そうか、それはお疲れさん」
ほれ、と湯飲みを差し出され、どぉもと受け取った後にはた、と動きが止まる。
気付かないのはよっぽど疲れている証拠なんだろうか………
首を動かしてみれば、またそこに見知らぬ人物が立っていた。
短い黒髪に落ち着いた黒い瞳。小柄ながらもいでたちには隙が無い。
「トレントがいるっつーことは」
「おう、ライトだが、まぁヒカルとでも呼びなよ」
矢張りHNで呼ばれるのには抵抗があるのだろう。ヒカルは少し口元を緩めて笑ってみせた。
女のくせに格好良いと言おうか、男気があると言おうか…
ここの男性陣よりよっぽど頼りになる笑みだった。
「で、何故に皆ここにいるんだ…?」
「言ってたでしょ、色々準備しとくからって」
お手伝いさん達、と笑って答えるあすかに皇は今日何度目かの溜息を漏らした。
どうやら本気でまたあの世界に乗り込むらしい。
受け取った熱いほうじ茶をずるずる啜りながら(猫舌だから)あすかと、ヒカルと
音遠と睦美を見て、また暫く騒がしくなりそうだ、てかこの人数分の食事をもしかせんでも
俺が作るのか?と心の中で呟いてみせる皇だった………

n
n

「大人数の食事と言えばー!」
「リンゴとハチミツ★」
「バーモン●カレ〜〜♪」
夕食の買い出しに行くと珍しく申し出てきて、睦美も連れだって楽しそうに出ていったあすかと音遠が
これまた楽しそうに帰ってきた。買い出しに行ったのはヤツらでも作るのは結局俺なんだろうが…
しかもバー●ンドかよ!甘いんだぜソレ一番旨いのは孰●レーかこく●ろだっつーの!
なんて考えてる場合じゃなかったか。
全く最近ツッコミ回数が増えた気がする。そう溜息をつきながら俺は鍋の中のカレーをかき混ぜていた。
隣ではあの大人数の中唯一料理ができるらしいヒカルが手際よくキャベツを千切りにしている。
いい年した大人連中が料理もできんのかい!はっ、またツッコミが…
「ひーさんひーさん」
「あー?」
「今最近苦労が増えたなぁとか考えてただろう」
「増えたなぁ…」
「こっちは減ったがね」
少し楽しそうにヒカルが笑った。楽しそうに呟いた言葉は聞こえなかった事にした。

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