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真・Water Gate Cafe

葵館・談話室

戦人記・第伍話「夢妖」其の四 

 
 ……それからと言うもの、一言も喋らず、早足で――と言うより、走っていると言った方が
適切だろう――公園から遠ざかる醍醐に、追い付いた京一が話し掛ける。
「待てよ、醍醐。全く……、お前の幽霊嫌いも筋金入りだな」
「ふッ、ふん。よけーなお世話だッ」
「デカイ図体して、肝っ玉のちーせェやつだぜ」
「くッ……」
 本人から聞いたのか、態度や雰囲気から感じ取ったのかは不明だが、どうやら京一は、醍醐
の『弱点』を知っているらしい。
「……お前も人の事は言えんよ。幽霊の所を、『あの』岩山院長に替えたらな」
「うッ……。よ、よけーなお世話だッ!!」
「なら、人の弱点をからかったりするな」

「チョット、待ってよー」 
 見れば、桜井と高見沢が俺達の方へ向かって駆け寄って来る。そして追い付いた後、呼吸を
整え、食ってかかる。
「もォ、なんで走ってくのさッ。はぐれたらどーすんだよッ」
「はははッ、わりーわりー」
「まったく、もォ」 
「すまん、桜井……」
「あッ。ううん、醍醐クンに言ってるんじゃ無いんだよ。そうそう。高見沢サン(かのじょ)
ここで、もういいんじゃない?」
「あッ、あァ。そうだな」 
 醍醐が頷き、桜井は高見沢に向き直る。

「高見沢サンッ」
「なんですかァ?」
「案内してくれて、ありがとう。ここからは、ボクたちだけで大丈夫だから――」
「えッ、そ〜お?」
 と、頷きかけたのも束の間。
「いやァ〜ん。まだ、一緒にいたいィ〜ッ」
「また今度、もっと暇な時に遊ぼうな」
「今度って、いつなのォ〜? お別れするの淋しいよ〜」
 等と、ゴネる――いや、子供の様なタダをこねる高見沢を見て、京一は『勘弁してくれ』と
言わんばかりに溜め息を付く。
「あのなァ……。この先どんな危ねェ事が、待ってるかわかんねェだろ? 万が一なにかあっ
たら……ひでェ目にあうのは、この『オレ』なんだよ。あんたんトコの院長になッ」
 撫然たる表情で言う。
 まあ『万が一』が現実に起こった時、院長の『誠意と礼節』の篭ったお仕置きが自分を待っ
ていると思えば、京一が渋るのも無理は無い。
「だってェ〜。院長先生もわたしの事、役に立つって言ってたし〜」
 そう主張し、食い下がる高見沢を見て、桜井は思案顔になる。

「う〜ん……。そう言われると、なんとなく意外そうな事をやってくれそうな気もする……。
もう少し、一緒に行ってもらおうか? ねッ、いいでしょ、風間クン?」
 ……院長は異常な<力>絡みと分かっていて、彼女を同行させるよう指示したが、足手纏いに
なるようなら、たとえ高見沢が霊を視ると言う<力>を持っていても、始めから連れて行けとは
言わないだろう。
 それに……丸腰の人間一人ぐらいなら、いた所で大して邪魔にはならない。いつもやってい
る事だ。美里の代わりとでも思えばいい。
 ――そう結論付け、桜井に返事をする。
「……好きにするがいいさ」 
「うんッ。高見沢サン、一緒に行こ」
「わ〜い、わ〜いッ。わたし、嬉し〜ッ!! はりきっちゃう〜ッ!!」
 高見沢は心底嬉しそうな顔ではしゃぎ、そして桜井は、醍醐達の方を同意を求める様な顔で
見やる。
「ねッ……いいんじゃない」
「仕方無いな……。京一、お前面倒見てやれ」
「えッ、オレッ!? しょ、しょうがねェな……。とにかく、オレのうしろを離れるなよ。い
いなッ!!」
「は〜いッ!! うふふッ。よろしくねェ〜ッ!!」
「ううッ……先が思いやられるぜ」
 にこやかな表情の高見沢。そして渋面を作り、片手で顔を覆う京一。
 
 そしてとりあえず、問題が一つ片付いた所で、桜井が次の、より大きな問題を口にする。
「さて――。問題は、ここからだね」
「あァ。『敵』は一体どこに潜んでいるのか……。この辺りなのは、間違いないようだがな」
「醍醐」
「どうした、風間」
「俺は思うのだが、最初に裏密が美里の精神に潜り込んだ時、『敵』はそれを妨害してきた。
 つまり、奴等の目的や行動を邪魔しようとする存在……俺達の事だが……がいる事は、連中
も既に気付いてる。もしかしたら、向こうから何か仕掛けるか、接触して来る可能性も有る。
 ……尤も、こいつは予測の範疇を出ない物だがな」
「ふむ」
 醍醐が顎に指を添えて考え込む横で、京一がついと、視線を泳がせる。それと殆ど同時に、
俺はこちらに向かい近付いてくる気配を感じ取った。
「…………。どうやら、捜す手間は省けたようだぜ」
「えッ?」
 桜井が京一の方へ首を向けかけた時。

「待ってたわよ」
 その声と共に、路地裏から現れた人影が俺達の前に立った。
 ……身長はやや高めで、セーラーとスカートを短くたくし上げている。背中まで伸びた髪を
茶色に染め上げ、うっすらと化粧した上、首に革製のアクセサリーを巻いた、派手な容貌の女
だ。 
「あんまり遅いから、もう帰ろうかと思ってたけど」
「お前は……? おれ達を待ってたとは、どういう事だッ」
 女は、唸り声を上げる醍醐を見て笑い出す。
「あははッ。野暮な事聞かないでよ。こっちには、全部わかってんのよ。あんたたちが、あの
女とどういう関係で、ここに、なにしに来たのかもね」
「あの女ってのは、まさか……お前が美里を――?」
「あたしは、墨田覚羅高校3年の藤咲亜里沙。あんたたちは、そっちから、桜井小蒔、醍醐雄
矢、蓬莱寺京一に――風間翔二。当たってるでしょう?」
「それがどうした」
 醍醐の問いかけに答えず、名乗った後、からかう様な口調で言い募る相手に短く答える。
「あらあら、開き直っちゃって。そんなことしても、自分の立場が悪くなるだけ」
 一笑した後、珍しい物でも見る様な視線を投げつけて来る。
 
「それにしても、あんたたちみんな、イカれてるわ。あんな、なんの面白みもなさそうなお嬢
サマを助けるために、わざわざ、こんなとこまで来るんだもんね」
 言葉の中に多分に混ぜられた嘲りの色に、桜井の顔が赤くなる。
「なんだとッ!! 葵はボクたちの、大事な友達なんだ。葵を悪く言う奴は許さないッ!!」
「トモダチ?」
 桜井の声を聞くや、高らかな笑い……蔑笑・嘲笑・憐笑・失笑……等が入り混じった笑い声
を響かせる。
「麗司も、とんだ読み違いをしたもんね。こんな青春バカに、あたしたちが負けるはずがない
のに」
「その麗司って奴が主犯だな。今までの事件、全部そいつの仕業だな」
「なんで、こんなコトを……」
 醍醐と桜井の声を怒声が遮った。
「ガタガタうるさいんだよッ。あんたたちみたいな、甘ちゃんに、あたしや麗司の想いはわか
らない。あの女を助けたいんだろう? ……だったら、黙ってついてきなッ」
 一気にそう言ってのけた後、きびすを返す。京一が呼び止めようとしたが、無視してどんど
ん先へ行く。

「……せっかちな女だな。まあ、案内してくれるってんだ、手間が省けて助かったぜ。とりあ
えずここは、ついていくしかねェな」
「……他に選択の余地が無い。不愉快極まりない事にな――」
 受動的な立場に回らざるを得ない事に苛立ちを感じて、苦々しく舌打ちしながら、京一の声
に答える。
「ああ。向こうから誘ってるんだ。乗ってやらなきゃ、男が廃るぜッ」
「……お前な。ああやってしゃしゃり出てきたと言う事は、連中、俺達を迎える為のパーティ
の準備は完了って事だ。そして、その中に飛び込まにゃならんのだ、少しは警戒しろ」
 何も考えて無い様な台詞を口にする京一に向かって、そう一言言った時、桜井が拳を握りし
める。
「あいつらが……葵を苦しめている奴らなんだ。ボクは、絶対に許さないッ!!」
「……あの〜。あの人を、あんまり、嫌いにならないであげてね」
 その高見沢の声を聞き、桜井は猛然と噛み付いた。
「なッ、なにいってんのさッ!! あいつ、悪い奴なんだよ!? 麗司とかいう奴とグルにな
って、葵を……殺そうとしてるんだ」

「でも……あの人を助けてって、みんながいってるの」
「みんなって……、まさか、霊じゃねェだろうな?」
 京一は胡散臭げな顔を高見沢に向けたが、当人はそれをあっさりと肯定した。
「そうよォ。特に、あの人の後ろにいた、小学生くらいの男の子。よくわからないけどォ、な
んだかすごく、悲しいの……。悲しい『気』が満ちてるの…………」
「悲しい『気』?」
「うん……」
 と、京一の問いかけに頷きつつ、高見沢は鼻を鳴らし、そしてハンカチを取り出して、目元
を拭う。
(悲しい『気』、ねぇ……)
 高見沢が感じた物を自分も感じとれないかと、再度、周辺の索敵を行ったが、やはり何も感
じなかった。
「とにかく、あの藤咲って女の後を追おう」
 最後に醍醐がそう纏め、俺達は曲がり角の向こうに消えようとしている、藤咲と名乗った女
の後ろ姿を追うべく、駆け出した。
 
 ――それからという物、一度通っただけでは、到底憶えられない様な裏通りや、路地を散々
引きずりまわされた末に、俺達は一軒の廃ビルの中へと案内された。
「さァて。お客さんには、ここで少しお待ち願おうかね」
「その、麗司って奴は、どこにいんだよ」 
 京一が非好意的な視線を藤咲に向け、問い質す。
「うふふッ。そんなに焦らなくても、すぐ会えるよ。これから、あんたたちを、麗司の国に案
内してあげる」
「国……? どういうことだ、それは」
 いきなり出てきた妙な単語に、思わず醍醐は眉をひそめる。
「いいから、おとなしく待ってな」
「おい、あんた……、ちょっと、待てよッ」
 言うだけ言って、部屋から出て行こうとする藤咲に、京一は呼びかけたが、先程と同様『聞
く耳持たず』で、さっさと出て行ってしまう。 
「……変だな、行っちまいやがった」
 音高く閉ざされたドアを見ながら、不審気な顔で京一がそう呟いた後。
「なに、これッ。ドアが開かない……。ねェッ、ドアに鍵がかかってる!!」
 何気無くドアに近づき、ノブを捻った桜井が緊迫した声を上げて、事態の急変を告げた。
「なんだって!!」
「クソッ!! おれ達は、閉じ込められたのか……」
 京一は桜井と同様の表情を浮かべ、そして『はめられた』事に気付いた醍醐は歯噛みする。
 そこへ畳み掛ける様に、次の異変が俺達を襲う。

「……? なんか、変な匂いがする……」
「臭うぞ!! これは――ガスッ!?」
 鼻をつく異臭の正体に気付いた京一は血相を変え、俺は内心、自らの読みの甘さを罵った。
並大抵の罠なら、噛み破ってみせるつもりだったが、密閉した空間に閉じ込められた所へ、ガ
スなど流されては、生殺与奪を握られたも同様、ひとたまりも無い。
「ゲホッ……。苦し…………」
 ハンカチを当てる間も無く、ガスを吸った桜井が咳込んだ。時間が無い……!!
「クソッ!! 早くしねェと。どうする、風間!?」
「どうもこうも無い、強行突破。ドアを破るぞ」
 ガスを凌げそうな場所や、噴出孔を探している暇など無い。
「よし、おれにまかせろッ!!」
 醍醐が吠えた。助走の為に数歩下がった後、猛然とドアに体あたりをかける。
「うおおおぉッ!!」
 しかし――。
「畜生!! ビクともしねェぜッ!!」
 鈍い音の後の、悔しげな京一の声が結果を如実に現していた。その語尾に重なる様に、俺は
叫ぶ。
「醍醐! どけッ!!」
 醍醐がどくと同時に、手加減無しの『龍星脚』を叩き込む。
 ドガァッ!!
「もう一発!!」
 僅かながら、ドアが動いた。間髪入れず、二撃目……俺の奥の手の一つ、『龍神翔』を繰り
出す。
 立て続けの衝撃に耐えかねたのか、金具が歪む音に混じり、目に見えてドアが揺らぐ。
 あと一息で……!!
 「ボク……もう、ダメ……」
「わたしィ……もうダメェ……」
 まず桜井と高見沢が、力無く、床に倒れ込む。
「桜井ッ!! しっ、しっかり……しろ……」
 続いて醍醐がその場に前のめりに崩れ落ち、そのまま動かなくなる。
「おかしいな。なんだか……、眠くなっ……て……」
「う……。こ、この感じは――」
 そして京一に俺も立つ力を失い、昏倒した。
 意識を失う間際、俺を襲ったのは、有毒ガスに付き物の神経感覚の失調感や、咽喉や器官、
皮膚を犯す刺激感どころか、痛覚ですら無かった。あったのは只、アルコールを摂った時に感
じる、不快感にも似た物だけだった――。
 
 ……以前の旧校舎の時と同じく、不快かつ、不本意な眠りを強制されたが、意識が覚醒する
のに必要とした時間は、前よりは短かった。
 目醒めると同時に、脳裏のチェックリストを検索し、身体に異状は無いか、素早く調べ上げ
て行く。
 ……五感を始め、身体機能に全て異状は無し。いつでも全力戦闘を行える。
 結論が出た後、半身を起こす。他の連中は……?
「……うッ。う〜ん、頭が……、痛ェ…………」
「うぅ……。みんな、いるのか……?」
 そこかしこから、野郎共の声が聞こえる。あと二人は?
「醍醐クン、京一、風間クンは……いる?」
「――ああ。運の悪い事にな」
「…………。その調子なら、キミは大丈夫だね。どうやら、みんな無事みたいだし」
「……高見沢は、どうした?」
「あッ、アイスだぁ〜。こっちには、バナナのケーキだ。う〜ん。舞子ォ、大感激ィ〜」
「…………」(が三つと、溜め息が一つ起こる)
 幸せな奴……。とりあえず、全員の無事(だけ)は、確認できた。次は……。
「やれやれ……。それにしても、ここは一体、どこなんだ?」
 京一がそうごちると、それまで分厚いカーテンが掛かっていた様に、何も見えなかった辺り
の光景が、急速にはっきりと見えるようになった。そして俺達の眼前に広がる光景は――。 

 ――黄昏時を思わせる、光と闇が無秩序に入り混じった薄暗い空と乾き切った風。
 次に目に映ったのは、薄汚れたコンクリートの壁では無く、無数に林立する、奇妙な形の岩
塊。そして足元には固い床に変わり、砂の感触が靴底を通して伝わって来る。
 緑どころか、俺達以外に動く物一つ見い出せない、『荒廃』とか、『不毛』という表現その
ままの、赤茶けた大地の上に、俺達はいる――。

「砂漠……みたいだね」
「アホか、お前は。なんでオレたちが、砂漠にいなきゃなんねェんだよ」
 一、二分の間、言葉も無く周囲の光景を眺めていた桜井が、ぽつりと呟くと、すぐさま京一
がそれに反論する。
「でも、どう見たって、ここは――」
 更にそれに対して何か言おうと、言葉を捜す桜井の横では、自身の記憶の再確認を行おうと
しているのか、軽く目を細めた醍醐が独り言めいた声を洩らす。
「あの女は、おれ達を自分達の国に招待すると言っていたが……?」
「うふふッ……。その通りよ」
「……!!」
 その場にいた全員の視線が、声の発生源を注視する。声の主は誰なのかなど、考えるまでも
あるまい。
「やっと目が覚めたようね。ようこそ、あたしたちの国……、夢の世界へ」
「夢の世界? そんな……、だって、チャンとみんなと話もできるし、意識だってハッキリ、
してるじゃないか」
「フフフフッ。夢とは、現世(うつしよ)の出来事にも似た、まほろばの事……」
 『信じられない』と言った面持ちで桜井は言うが、藤咲の表情にはそれを馬鹿にする様な色
が漂っている。
「ここが夢の中だとしたら、おれ達は眠らされたのか」
「そうよ。催眠ガスで少しの間、眠って貰う事にしたの。……これで、あんたたちは、もうお
しまい。だって、これからずっと、ここにいるんだから。ねェ……」
 自信、又はその類似品に満ちた笑い声を上げた後、ちらりと、視線を横に向けた時、視線の
先の空間が俄に歪み、ぼやけた後に、新たな人影が出現する。
 ――年齢は俺達と同じぐらいか? 黒の詰め襟の学生服姿で、小柄と言うより、チビと言っ
た方が良いだろう。青白い、不健康そうな顔をした男だ。

「ボクはただ……。誤解を……、解きたかっただけなんだ」
「誤解だと……?」
 ボソボソと、聞き取り辛い声で喋るが、『誤解』なんぞと言う言葉が出てきた事に、醍醐は
眉根を寄せる。
「ボクは、覚羅高校の三年、嵯峨野麗司……。ボクは葵を苦しめてなんかいない。ボクはボク
なりに、葵を見守っているんだ」
「なにが、葵――だッ!! ふざけんじゃねェッ!! 美里はなァ、病院で死にかかってんだ
ぞッ!!」
 その言いぐさに激昂した京一が、手にした得物――以前、旧校舎から回収した、『大和守安
定』と銘が彫られた日本刀だ――を抜き放つと、その切っ先を向けた。 
 ……どうやら、『夢の世界』といっても、本人が得意としている物は、現実世界と同様に使
える様だ。現に、俺の腕にも『忍び甲輪』が有り、腰の後ろには、冷たい金属の固まりが、重
量感と共に存在している。
 だが、京一の怒声に対して返って来たのは、人を馬鹿にしきった様な、含み笑いだった。
 ……前に渋谷で叩きのめした奴もそうだが、人に向かってこう言う、非ッ常――に不愉快な
笑い方をする奴に対して、俺は、友好的に振る舞ったり、歩み寄ろうとするつもりは、全く無
い。
「葵が……死ぬ? くッ……くくくくく。葵は死んだりしないよ。ボクと一緒に……このボク
の王国で、一緒に暮らすんだから。だって、ほら……」
 奴の指がある一点に向けられ、そして指差した先にある『もの』が何なのか、確認した桜井
の悲鳴混じりの声が響いた。 
「あッ、葵ッ!!」
 ……俺達が今いる場所から、少し離れた所が、小高い丘になっていた。
 そこには、大仰な椅子が据え付けられており、更にその後ろには…………。
 確かに、美里はそこにいた。同時に、裏密の水晶玉に映っていた姿……両手を大きく広げ、
うなだれている様に見えた訳も分かった。美里は巨大な十字架に架けられた上に、幾重にも絡
みついた鎖でもって、縛られていたのだから……。

「美里……」
 呆然としていた醍醐が、漸くそれだけを口にした時。
「あの日――」
 と、嵯峨野が喋り出した。
「あいつらは……、ボクに犬の格好をさせ……。ずっと、ゲラゲラ笑ってた。そして、犬だっ
たら喜んで、なめるはずだって、やつらの靴を、ボクの顔に押し付けてきたんだ。でも――、
もう死んでるんだって思えば、ボクはなんでも我慢できた。いつもと同じ帰り道、ボロボロに
なったボクは道端で、まるで石コロの様に倒れていた……。いつもの街並み……。いつもの日
常……。でも、あの日は違った。そっと額に当てられた手。透き通るような優しい声。いまま
で、誰もボクを見向きもしなかったのに……。だけど、そんなボクに、葵は優しく笑いかけて
くれた。制服の汚れを拭いて、殴られた顔を冷やしてくれた。あの日から、ボクは生まれ変わ
ったんだ……。あの日から、ボクは本当に生き始めたんだ……。葵がいなければ……ボクはも
う、生きられない」
「……。だからって、そんなの……。大体、葵の気持ちはどうなるんだよッ」
 沈黙の後、桜井が口を開いた。既に桜井の体からは、当初、纏わりつかせていた、怒りの波
動は消えている。
「葵を護るのは、君達じゃない。これからはこのボクなんだ。その事を、葵にもわかってもら
わないとね」
「黙って聞いてりゃ、三下風情が増長しやがって……。手前の頭の上のハエすら追えん輩が、
他人を護るだと? はっ。こいつは今迄生きてきて、最高の冗談だ。貴様如きに『護って』貰
わなくてもな、彼女は自分の意志と力で進んで行けるし、自分自身を守る事も出来る。美里を
護る?美里がいないと生きられない? 世迷事を抜かすな」
 ……俺はこいつに対して、同情なんぞするつもりはカケラも無い。被害者ぶってはいるが、
今現にこいつがやっている事は、あの唐栖と同じだ。手前勝手なエゴを振り回す卑劣漢、それ
以上でも、それ以下でも無い。口内に溜まった不快感と共に、俺はそう吐き捨てた。
「そんなの……間違ってるよ。キミは……葵の優しい心を、踏みにじってる……」
 俺に続いて桜井がそう言うや否や、『どぎつい』と言う表現ですら、控えめに感じられる程
の嘲笑を、藤咲が周囲に響かせた。
「こいつは傑作だねッ。ぬるま湯に浸かった嬢ちゃんが、キレイ事をいうんじゃないよッ。そ
れじゃあ、踏みにじられた麗司の心はどうなるんだい? いじめなんて、ヤる方もヤられた方
も悪いなんて言うヤツもいるけど、それは、ヤられた事のないヤツか、『力』の強いヤツが言
うセリフさ。ヤったヤツのどこかに、一生消えない傷が残るかい?ヤられた方は、一生消えな
い魂(こころ)の傷を――、十字架を背負って、生きていかなくちゃならないんだよッ。そう
じゃなきゃ、弘司だって――!!」
 ……台詞の後半に今迄に無い、感情の動きがあった。それに『弘司』という名は一体……?
 そう言えば、先刻、高見沢が『藤咲の後ろに、小学生くらいの男の子』云々とか言っていた
様な……。って事は、まさかな……。
「……。いいんだよ、別に、なんだって……。葵さえ、ボクのそばにいてくれれば。どうせ君
たちは、この世界では、ボクにかなわないんだ。どうだい? 葵をボクに譲ってくれるなら、
君たちは無事に、帰してあげるけど?」
 ……余程、『力』とやらに自信があるのだろう。奴は、貧相な顔に薄っぺらい笑いを貼り付
け、似合いもしない尊大な態度と口調で、そう言いつのる。
「……二度は言わんぞ。今すぐ彼女と俺達を、この下らない出来損ないの世界から解放しろ。
さもなくば……」
「さもなくば?」
「貴様等纏めて、原子の塵に還元してやる」
 右手に『気』を集めながら、左手で腰の後ろから、京一の得物と同様、旧校舎で回収した俺
の新たな武器――SアンドW・M10に似た、リボルバー拳銃を抜き出し、撃鉄を起こした。
 がちりと、鈍い音がする。危険度と凶暴さを存分に含んだ、剣呑極まり無い音だ。そしてこ
の銃に込められているのは、火薬と鉛では無い。俺の中に存在する戦意や『気』の力が内部で
凝縮されて、『発けい』をも越える破壊力を持った弾丸として、撃ちだされるのだ。
「くッ、くくくくくッ……。弱い犬ほど、よく吠えるんだ。そんな顔したって、ボクはもう、
怖くない。ボクは生まれ変わったんだッ。ねェ、亜里沙。あいつら、ヤっちゃっていいよね?
いつもみたいに、ボクをいじめた他の奴らのように……」
 問われた藤咲が頷き、どこからともなく取り出した鞭を振るった。
 ぅひゅん!
 空気が震え、足元に小さな砂煙が立つ。
「もちろんよ、麗司。所詮、力のない者は、力のある者に屈服する運命なの。見返してやりな
さいッ。あなたを、虫ケラのように扱った薄汚い人間達を――ッ!! もう、誰にも遠慮なん
かしなくていいのよ」
「ははははッ……。精神が強力なダメージを受ければ、肉体も又、ダメージを受ける。君たち
も、ボクが受けた痛みを知ればいいんだ」
 嵯峨野の全身から、唐栖の奴と同じ色の光が立ち昇る。
 負の精神や感情を糧に、増大した陰の『力』とでも言うべきか? その輝きは暗く、それで
いて鮮やかな、禍々しい色調……血の色だ。
「さあおいで、ボクの仲間たち。ゲームを始めよう……」
 奴がそう言い終えるや、再度空間が歪み、ぼやけ、それが消え去ると新たな気配が、俺達を
包囲する様に現れる。
 そして嵯峨野と藤咲は、いつのまにか、美里のいる辺りまで後退している。……奴等の所へ
行き付くには、新たに出現した連中を片す必要がある。面倒で、うざい事この上無いが……。
 事ここに至るまでに、誰かが『説得』を試みた所で、おそらく徒労に終わっただろう。
 復讐者という人種は、相手を自分のレベルに引きずり落とす為なら、たいがいの事はやって
のける。たとえそれが、それまでの主義信条に反する事であったとしてもだ・・・。
 そして復讐者に対して、いかに理性的かつ、誠実な態度で接し、その行為自体の不毛さを説
いたとしても、それが受け入れられる事は、極めて少ない。それどころか、当事者の心理的な
負荷や古傷を刺激し、逆に事態をより悪化させる事も往々にしてある。
 大体、『説得』して素直にそれを受け入れる様な、物分かりの良い奴だったら、そもそもこ
んな事をしでかしたりはしないだろう。奴等の言い分を否定し、向こうも俺達の要求を拒んだ
以上、既に交渉だの、説得などと言う台詞が出る余地は無い。事態の解決手段は一つだけだ。
「……挑んで来るなら、容赦はせん」
 温度の低い声でそう言い切り、俺は銃を構え、狙いも付けずぶっ放した。元より、命中を期
待しての物ではない。これは奴等の『宣戦布告』に対する返礼、脅しの一発だ。
 ガウンッ!!
 轟然たる音が響き渡り、それは同時に開戦を告げる号砲となった。

        ・・・第五話『夢妖』其の5へ・・・

 戦人記・第伍話「夢妖」其の伍へ続く。

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