「凸(でこ)と凹(ぼこ)」 第三話
第二話 第四話     



 紙の匂い、インクの匂い。それも比較的最近のものからいつ書かれたか判別できない昔のものまで、それぞれが違った匂いを発している。
 ここはイヴ・ギャラガーが一人で住む屋敷の一画にある書斎の中。元々はイヴの父親のものだったが、イヴが一人残されて以来、彼女が最も安らげる場所であった。それは今、橘由羅の体を借りてこの書斎に入ると更に強く感じられる。外では常に様々な雑音を拾うこの耳も、この中ではさすがに静寂しか感じ取れない。バイト先の旧王立図書館も静かなところだと思っていたが、実際に由羅の耳だと様々な音を拾ってきてイヴにとっては心休まる場所ではなかった分、この書斎の静けさが有り難かった。
 同様に日頃慣れ親しんだ紙の匂いがイヴにとっては嬉しかった。そして今回の事件後、紙やインクの匂いに混じってわずかながら男性用の香料が感じ取れるようになっていた。イヴ自身もかすかに覚えているが、恐らくこの書斎の主であった父親のものであろう。こんな形で父親と再会できたことを今回の偶然に感謝してた。
(ここに居れば、この体も悪くないわね。)
 イヴと由羅の体が入れ代わってから既に10日。あの日からイヴは苦労の連続で気が休まる暇が無いだけに、この貴重な静寂をできる限り楽しむ事にしている。元の体に戻る為に必要な魔力が満ちる満月の出る夜まで後四日を残すのみとなっていたが、その日が待ち遠しくなる半面、少し惜しい気も確かにイヴの中に有った。
 イヴはこの日もいつも同じようにバイト先の旧王立図書館から戻ってから、父の書斎に篭っていたが、書斎の一つの棚の前を通りかかった時に、ふと鼻にかかるかすかな甘い匂いに気が付いた。
(何の匂いかしら?)
 この書斎は小さい頃からから出入りしているが、こんな甘い匂いは初めてであった。やはり人間の鼻ではわからないかすかな匂いを、ライシアンの鼻が嗅ぎ取ったのである。イヴはその匂いの甘さに興味を引かれ、発生源を探し始めた。
 鼻を使って調べていくと本棚の隅にある一冊の分厚い本から匂ってくる。この本はイヴもまだ開いた事が無い無数の本のうちの一冊だった。
(本から何故こんな甘い匂いが?)
 不振に思いながら本を開いた途端、イヴは思わず声を上げてしまった。
「お父様、あなたと言う人は。」
 開いた本は中をくり貫かれて、その穴の中にはウイスキーの小ビンが隠されていたのだ。
 イヴにとって酒というものは、旨い、まずいで判断できるものではない。それと言うのも、一口含んだ途端に意識が消えてしまい、味どころの問題ではなかったのだ。
 イヴの思い出の中に残る父親は威厳を保ちながらも決して厳格ではなく、常に礼節を保ち、書物を愛した尊敬すべき存在だった。客を迎えた時は別として、この屋敷の中で父がアルコールを飲んでいる光景など見た事が無い。その父の書斎で隠された酒を見つける事になろうとは。
 父親の意外な一面にあきれながらも、ウイスキーが放つ甘い誘惑はなおも続いており、イヴはしばらく小ビンを眺めていた。
(これも知的探究心というのかしら?)
 何とか理由を付けてみたものの、つまりは誘惑に勝てなかった訳で、ついにビンのふたを開ける事にした。
 意外に軽く回ったふたを取ると同時に、甘く豊かな香りが部屋を充たし、飲みたいという衝動を押さえ切れなくなってくる。
(私が欲しがっているんじゃありませんからね。由羅さんの体が欲しがっているんですから。)

 さて、由羅の体を持ったイヴが酒を前にしていた頃、イヴの体を持った由羅はどうしているかと言うと...。
「お〜い、アレフく〜ん...。次のお店、行こ。次の...うぷっ...。」
「そんな大きな声で呼ぶなよ、由羅。すぐ横にいるんだから...。もう帰るんだってば。」
「なに〜!アレフ君はこのあたしの酒が飲めないって言うの?!」
「だから、さくら亭から追い出されたんだって。こんなに酔っぱらってんだから当たり前だよ。」
 ここ、真夜中の陽のあたる丘公園に男と女の影二つ、と言えば聞こえは良いが、酔っぱらった由羅と、彼女を家まで送る途中のアレフであった。
「聞いてよ〜、アレフく〜ん。ドクターったらこのあたしに『酒を飲むな』って言うのよ〜。そんなのあたしに死ねって言ってるようなもんじゃないの!ねぇ!聞いてる、アレフ君!!」
「もちろん。それでドクターの言い付けを破って飲んでるんだろ。それにしてもイヴが酔っぱらうとこんな風になるんだな。」
「こ〜ら、イヴじゃな〜い!由羅だって何度も...言ってるでしょう...。う〜っ。」
「わかってるって。もう、由羅らしくないなぁ。キツネがトラになっちまいやがんの。」
「あたしは由羅さまだぞ〜!酔っぱらう訳が...うぇっ...ないでしょうが!お〜ら、おかわり持ってこ〜い!」
「だから、もう家に返るの。はぁ...、やっぱりイヴの体じゃ由羅の飲み方に付いていけないんだよなぁ。トーヤ先生の言う事を聞いておとなしくしてれば良いのに。......由羅じゃ無理か。」
「ねぇ、アレフく〜ん。」
 急に由羅はアレフの首に腕を巻きつけ、今にもキスできるくらい顔を近づけて話しかけてきた。
「今だから言うけどねぇ、あたしねぇ、アレフ君の事、ずっと前から...ううん、会った時からかも...す〜っごく...」
 アレフにとっては潤んだ瞳のイヴの顔が迫ってきた訳で、今まで見た事の無いイヴの表情に心動かされて、次の言葉に期待してしまった。
「な、何?!(おおっ、ひょっとして衝撃の告白?!)」
「おもしろい子だなぁ、って。」
「ぐっ。」
「きゃははははは!ねぇ、期待した?期待した?」
 笑いながら由羅はアレフの首にかけていた腕を放した。
「あ...あははは。まぁ、ちょっとね。やっぱり中身が由羅で安心したと言うか、何と言うか。」
「......。」
「どうした、由羅?」
「......アレフ君、あたし...。」
「?」
「......きもちわるい。」
「よしよし、もうちょっとで家だからな。我慢してくれよ。」
 由羅を介抱しながらも、体が元に戻ったらイヴを酔いつぶしてやろうか、と考えるアレフ・コールソンであった。

 キッチンに移動したイヴは、コップに少々ウイスキーを注いでから、しばらく眺めて迷っていたが、ついに飲む決心を付けた。
(いったいどんな味がするのか、確かめてみたい。)
 喉をごくりと鳴らしながら恐る恐るコップの口を付けて、そして目をつむり一気にあおった。
「んくっ!...ふ〜〜っ。」
 舌への鮮やかな刺激と、口腔を通して鼻へ広がる豊潤な香り。今までに味わった事の無い味覚に思わず深いため息が出てしまった。一口飲んで意識が飛ぶどころか、ちゃんと酒の味がわかる。
(これがお酒の味...。お父様が隠れて飲んでいたお酒の味...。)
 口を通して体の中に入った酒が体中を熱くしていくのがわかる。
(由羅さんはいつもこの味を...。)
 自分が体験した事の無い味覚を由羅は持っている事をこの体は教えてくれる。イヴは由羅に対して軽い嫉妬の念を禁じえなかった。
 もう一度、この味を堪能しようと小ビンを手に取ったが、少し考えてビンにふたをした。
(このお酒は本に戻しておいて、明日、仕事の帰りにさくら亭へ行ってひとビン買うのが一番良いわね。)
 イヴは父の形見のお酒を手に再び書斎に戻っていった。その姿はイヴ自身としてはいつもどおり平静を保っているつもりだったのだが、自分ではそれと気付かずに尻尾を揺らしていたのだった。


− 続く −


 今回はイヴの父親の描写を勝手にやってしまいましたが、実際ゲームで出てくるんでしょうかね。
 ストーリーはイヴが酒の味に目覚めるところがメインですが、あっさり進みました。由羅に無理矢理飲まされる、と言うのも考えたんですが、それだとギャグになるか、酒に対して悪い印象しか持たなくなるでしょうから、これじゃ嫌だったんですよ。それでこんな風にしっとりした感じにしてみました。
 次回が最終話の予定です。さて2ndの発売に間に合いますかどうか。

越後屋善兵衛   





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98.2.11 越後屋善兵衛