時
代
|
西暦
|
年号
|
干支 |
出来事 |
殷
代
|
前1600 |
|
|
○殷墟から甲骨文字が出土する。
→その中に“干支”が刻まれていた。その当時、占いが盛んに行われ、亀甲獣骨文字が使用されていた。 |
前1500頃 |
|
|
○太陰太陽暦が使用され始める。原初的な置閏法がが成立する。 |
西
周
|
前1122 |
|
|
〔武王即位〕
文王(武王の父)が『易経』六十四卦を作ったといわれている。 |
|
|
|
〔周公〕(武王の弟)周文化の大成者。
孔子は周公を理想とする。 |
東
周
/
春
秋
時
代
|
前770頃 |
|
|
○『易経』→陰陽説。 『詩経』
○『書経』(尚書)→洪範に「五行説」が記されている。 |
前7世紀頃 |
|
|
○暦法での置閏法、連大法が整備される。 |
前6世紀頃 |
|
|
○暦法で章法(19年7閏法)を採用。 |
前552 |
|
己酉 |
○孔子、魯の昌平郷に生れる。 |
前513 |
|
戊子 |
○顔回、生れる。(孔子の第一弟子) |
前482 |
|
己未 |
○顔回、没す。 |
前479 |
|
壬戌 |
○孔子、没す。 |
|
|
|
○『論語』孔子の没後にその学統を継ぐ者が編纂した。
○『春秋左氏伝』→『春秋』の解説書で、左邱明の著。
○老子、姓は李、字は耳。道家の祖。
○『老子』→『道徳経』ともいう、無為自然を説く。
○『大学』『中庸』
○『孫子』-兵法書 |
前400 |
|
辛巳 |
○戦国の七雄の抗争 |
|
|
|
○『墨子』、『列子』
○鬼谷子が、干支による占術を体系づける
↓
その門下より合従の説を唱えた蘇秦や連衡の説を唱えた張儀を
輩出する。
張儀:?~前309
蘇秦:?~前317 |
前4世紀頃 |
|
|
○暦法で四分暦が成立する。 (1年を365.25日とする) |
前305 |
|
丙辰 |
○鄒衍、生れる。(思想家、陰陽家、陰陽五行説の提唱者) |
前240 |
|
辛酉 |
○鄒衍、没する。 |
|
|
|
《諸子百家活躍》
○荘子:前368?~前290?
『荘子』→『南華真経』ともいう。
○孟子:前368~289
『孟子』→四書の一つに数えられる。
○『荀子』、『韓非子』、『呂氏春秋』
○鄒衍:前305~240 →陰陽家。陰陽五行説の提唱者。 |
秦
・
都
は
咸
陽
|
前221 |
|
庚辰 |
○始皇帝天下を統一 →前259~210
始皇帝による初の受命改制が行われる。(10月年初) |
|
|
|
○『小篆』→始皇帝の臣であった李斯が文字の統一の為に作る。 |
前213 |
|
戊子 |
○焚書。 |
前212 |
|
己丑 |
○坑儒。 |
前232~202 |
|
|
○項羽と劉邦が覇を競う |
前
漢
・
都
は
長
安
|
前202 |
|
己亥 |
○高祖(劉邦)即位。→前256~195 |
前168 |
|
癸酉 |
○張子房、没する。
→黄石公による奇門遁甲の真伝を得て、総局18格を布演、漢の高祖・劉邦を補佐し、戦勝の功を挙げたと『奇門遁甲全書』の序には記されていて、『漢書』にも記録されている。
○長沙馬王堆漢墓が造営される。
→1971年に発見された墳墓。 |
前140 |
建元1 |
辛丑 |
○最古の年号「建元」が漢の武帝によって制定される。 |
前139 |
建元2 |
壬寅 |
○『淮南子』劉安の命で編纂された百科全書。
→その中に、五行の相生説、陰陽の気についての記載があり、道家の思想を基本にしている。 |
前104 |
太初1 |
丁丑 |
○5月、「太初暦」へ改暦定(立春正月の制度化)。
→改暦迄使用されていた「顓頊暦」(せんぎょくれき)は10月を歳首としていたが、「太初暦」は正月を歳首とするようになった。「顓頊暦」は戦国時代末期から秦代頃に制定され、太初改暦まで使用されていた古暦である。古六暦の一つとされる。 |
前97 |
天漢4 |
甲申 |
○司馬遷の『史記』 |
前77 |
元鳳4 |
甲辰 |
○京房、東郡頓丘に生れる。
→前漢の役人で、五行易の創始者。卦爻に干支を配当する「納甲」を創案した。著書に『京房易伝』がある。 |
前53 |
甘露1 |
戊辰 |
○揚雄が生れる。 (~AD18年没)
→前漢の文人・思想家・言語学者。 『太玄経』『法言』『訓纂篇』『方言』 |
前37 |
建昭2 |
甲申 |
○京房、没す。
→天変地異によって、当時の側近政治を弾劾したため、石顕・五鹿充宗に憎まれるところとなり、刑戮されてしまう。 |
5世紀頃 |
|
|
○三統暦を制定(太陰太陽暦と天体暦の合体)
以後、中国では暦と天象とのズレ、受命改制などで頻繁に改暦を行って行く。 |
新 |
紀元8 |
初始1 |
戊辰 |
○王莽、新を建国→前45~後23 |
後
漢
・
都
は
洛
陽
|
25 |
建武1 |
乙酉 |
○6月、光武帝即位(劉秀) |
32 |
建武8 |
壬辰 |
○班固、生まれる。→『漢書』の著者。 |
79 |
章帝4 |
己卯 |
○『白虎通義』(4巻)→章帝が儒学者を白虎観という宮殿に集め五経の解釈について議論させる。その成果を班固が整理編集し『白虎通義』を編纂した。 |
80 |
建初5 |
庚辰 |
○この頃に『漢書』が完成する。
→前漢12代の歴史書五行志第七に陰陽五行説が記されている。また「律歴志」では五行のことを「五歩」と名づけている。 |
85 |
元和2 |
乙酉 |
○四分暦(1年=365.25日)を復活制定する。 |
92 |
永元4 |
壬辰 |
○班固、獄死する。(享年60歳)
→『漢書』の著者。 |
105 |
永元17
元興1 |
乙巳 |
○蔡倫、紙を発明する。
→後漢の宦官。字は敬仲。樹皮や麻くずから紙を作る技術を発明した。 |
|
|
|
○『論衡』王充の著→十二支が現在のように動物に配当されている。
王充:?~ 192頃
○『説文』許慎の著→漢字の構造を解説した最古の字書。
許慎:?~ 192 |
181 |
光和4 |
辛酉 |
○諸葛孔明、生れる。 |
206 |
建安11 |
丙戌 |
○乾象暦を制定(月運動の遅速を算入) |
207 |
建安12 |
丁亥 |
○劉備玄徳が「三顧の礼」を以って、諸葛亮孔明を軍師として迎える。 |
209 |
建安14 |
己丑 |
○管輅(かんろ)、生まれる。
→三国時代・魏の方術士(占術家)で、易・風水・天文・人相等の諸々の占術に通達し、 「射覆(せきふ)」を得意としたと言われている。 |
三
国
時
代
/
魏
・
呉
・
蜀 |
220 |
後漢:建安25・延康1
魏:黄初1 |
庚子 |
○曹操、病死。
→三国志の英雄。魏の建国の基を創る。遺言に「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れてはならず」と。
○曹丕、魏を建国。後漢最後の皇帝・献帝から禅譲を受ける。
→九品官人法を制定。 |
221 |
魏:黄初2
蜀:建安26・章武1 |
辛丑 |
○劉備、蜀漢を建国。
→前年にライバル魏の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受けたことに対抗して、蜀の群臣が劉備を漢の皇帝に推戴した形で建国。 |
222 |
魏:黄初3
蜀:章武2
呉:黄武1 |
壬寅 |
○閏6月、孫権、劉備を夷陵の戦いで破る。
○10月、孫権、呉を建国。→魏から独立し「黄武」の元号を立てる。 |
223 |
魏:黄初4
蜀:章武3
建興1
呉:黄武2 |
癸卯 |
○呉が四分暦を廃し乾象暦を施行。この事によって魏・蜀の二国との間に暦法上の不一致が生じることになった。
→四分暦に対して朔日が約1日早い。 |
226 |
魏:黄初7
蜀:建興4
呉:黄武5 |
丙午 |
○王弼、生まれる。
→魏の学者・思想家。老荘思想・易学に通じ、漢代の象数易を批判、道教系の義理易復興を提唱する。『周易注』を著わす。
○曹丕、死去。→魏の初代皇帝。 |
234 |
魏:青龍2
蜀:建興12
呉:嘉禾3 |
甲寅 |
○8月23日、蜀の宰相・諸葛孔明、五丈原の陣中で病没する。
→孔明は奇門遁甲や六壬等の方術を使ったと言われています。『出師表』が有名。六壬については『六壬類苑』という著書があったともされている。 |
237 |
魏:青龍5
景初1
蜀:建興15
呉:嘉禾6 |
丁巳 |
○景初暦(魏)を制定。(日食予報の開始) |
249 |
魏:正始10
嘉平1
蜀:延熙12
呉:赤烏12 |
己巳 |
○王弼、没する。 |
256 |
魏:正元3
甘露1
蜀:延熙19
呉:五鳳3
太平1 |
丙子 |
○管輅、没する。 →種々の占術に通じた魏の方術士。 |
263 |
魏:景元4
蜀:景耀6
炎興1
呉:永安6 |
癸未 |
○蜀、滅びる。 |
晉
・
都
は
初
め
洛
陽 |
265 |
魏:咸熙2
西晋:泰始1
呉:元興2
甘露1 |
乙酉 |
○司馬炎帝位に就き晉を建国する。
→司馬炎は魏の元帝より禅譲を受け王朝を立る。だたし、晉の実質的な創建は司馬炎の祖父・司馬懿。 |
280 |
西晋:咸寧6
太康1
呉:天紀4 |
庚子 |
○3月、呉が滅びる。
→晋に建業を包囲されて孫晧は降伏。 |
284 |
太康5 |
甲辰 |
○葛洪、生れる。 →道士で、『抱朴子』の著者。(※生年に異説あり) |
285 |
太康6 |
乙巳 |
○『三国志』陳寿。 |
317 |
西晋:建興5
東晋:建武1 |
丁丑 |
○葛洪、『抱朴子』を完成させる。
→道教・神仙道に関する書籍。内編20巻+外編50巻=計70巻。 |
|
|
|
○西晋の学者・郭象が『荘子』を整理分類し、今日の『荘子』の原型を作る。 (三巻三十三篇:内篇7・外篇15・雑篇11)
○王羲之:321~379→詩人、書聖。 |
363 |
東晋:隆和2
興寧元
前涼:升平7
前燕:建熙4
前秦:甘露5 |
癸亥 |
○葛洪、没す。 |
401 |
東晋:元熙2
宋:永初1
西秦:建弘1
北魏:泰常5
北涼:玄始9
西涼:嘉興4
永建1
夏:真興2
北燕:太平12 |
辛丑 |
○鳩摩羅什、後秦の姚興に迎えられて長安に入る。(くまらじゅう、kumārajīva)
→仏教僧。多くの経典・論書を翻訳。三論宗・成実宗の祖。文学性の高い漢文が多い。特に『妙法蓮華経』『維摩経』『般若経』『阿弥陀経』『中論』『大智度論』など、各宗派で読誦・研鑽されている名訳が多く、訳経数も群を抜いている。鳩摩羅什の訳経によって、初めて中国に大乗仏教の空思想が伝わったとも評されている。法華経信仰は鳩摩羅什の名訳『妙法蓮華経』なくしてはありえなかったのでは。 |
420 |
東晋:元熙2
宋:永初1
西秦:建弘1
北魏:泰常5
北涼:玄始9
西涼:嘉興4
永建1
夏:真興2
北燕:太平12 |
庚申 |
○宋の建国。→東晋の皇帝から禅譲を受けて。 |
南
北
朝
時
代 |
439 |
宋:元嘉16
北魏:太延5
北涼:承和7 |
己卯 |
○北魏が華北を統一。
→南北朝の対立時代に入る。
|
445 |
宋:元嘉22
北魏:太平真君6
北涼:承平3 |
乙酉 |
○元嘉暦(宋)を制定。(作られたのは443年)
→南北朝時代の宋の天文学者・何承天が編纂した暦法。南朝の宋・済・梁の各王朝で、509年(天監8年)まで、65年間使用された。日本にも6世紀頃に、百済を経由して伝えられている。 |
463 |
宋:大明7
北魏:和平4 |
癸卯 |
○大明暦(宋)を作成。
(破章法の採用、歳差の算入、施行は510年) |
532 |
梁:中大通4
北魏:太昌1
永興1
永煕1 |
壬子 |
○正光暦(北魏)を制定。 |
538 |
梁:大同4
東魏:元象1
西魏:大統4 |
戊午 |
○智顗(ちぎ)、草州華容(湖南省華容県)にて生れる。潁川の陳氏。
→隋代の高僧で、天台宗の開祖。天台大師、智者大師とも称される。 『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部が有名。 |
|
|
|
○この頃(南北朝)に『黄帝金匱玉衡経』が成立。
→六壬占に関する古典文献で、日本の陰陽道でも教科書とされた。 |
581 |
陳:太建13
後梁:天保20
北周:大定1
隋:開皇1 |
辛丑 |
○蕭吉、上儀同に進み、本官の太常を以って古今の陰陽書を考定。 →蕭吉は『五行大義』の撰者。 |
隋
・
都
は
長
安 |
589 |
陳:禎明3
隋:開皇9 |
己酉 |
○隋、陳を滅ぼし、中国を統一する。 |
594 |
開皇14 |
甲寅 |
○4月26日、天台智顗、荊州の玉泉寺において『摩訶止観』の講述を始める。
→『摩訶止観』は禅の思想と実践を説いた名著で、天台三大部の一つ。この書の「巻八下・第三節・五」において「五行」についても触れられているが、「金」が「風」となっている。”五行”と”五大”の混同混用か。「青色は木より生じ、黄色は地より生じ、赤色は火より生じ、白色は風より生じ、黒色は水より生ずと観ず。また、木は水より生じ、水はは風より生じ、風は地の陽気より生じ、地は火より生じ、火は木より生じ、木は環って水より生ずと観ず。かくのごとく追遂して周りて始む。また自生のものなし。………」 |
597 |
開皇17 |
丁巳 |
○11月24日、天台智顗、没する。
→揚州に向かう途上、西門石城寺(浙江)で入滅。 |
602 |
仁寿2 |
壬戌 |
○2月5日辰刻、玄奘三蔵、生れる。
→仏教僧、『大唐西域記』、天竺へ経典を求めて旅をする。
┌─┬─┬─┬─┐
│時│日│月│年│ 大運:順行8年
├─┼─┼─┼─┤
│丙│癸│癸│壬│
│辰│丑│卯│戌│
└─┴─┴─┴─┘
○蕭吉、文帝の命により、皇后の崩御に際して、葬所を卜択する。 |
604 |
仁寿4 |
甲子 |
○煬帝が即位。
→隋の第2代皇帝。代表的な暴君として知られている。 |
607 |
大業3 |
丁卯 |
○日本(倭国)から遣隋使来る。国書に煬帝は激怒。
→国書は聖徳太子が送ったものと言われている。煬帝は日本からの国書に記された以下の文言に激怒したと記されている。「日出處天子致書日沒處天子」(『隋書』巻81/列伝第46/東夷 倭国) 日本が「天子」という称号を用いたことに対して無礼であるとしたもの。しかし、結果的には対朝鮮半島政策の為に、日本とよしみを結ぶべしとの政治的判断から、隋は返礼の使者として裴世清を日本へ送っている。 |
608 |
大業4 |
戊辰 |
○大業暦を制定(太陽運動の遅速を算入) |
|
|
|
○この頃(隋代)に『黄帝龍首経』が成立。
→六壬占に関する古典文献で、日本の陰陽道でも教科書とされた。 |
614 |
大業10 |
甲戌 |
○蕭吉、没する。(或いは615年<大業11>とも)
→『隋書』にある蕭吉の伝によれば、613年の揚玄感の反乱から一年余に卒したとされていることによる。 |
唐
・
都
は
長
安 |
618 |
隋:大業14
皇泰1
唐:武徳1 |
戊寅 |
○煬帝が江南で殺害される。
○唐の建国。李淵(高祖)は隋の恭帝から禅譲を受けて即位。 |
619 |
隋:皇泰2
唐:武徳2 |
己卯 |
○戊寅暦(定朔の採用) |
635 |
貞観9 |
乙未 |
○中国への景教伝来。
→景教は基督教で異端とされた一派・ネストリウス派の中国での呼称。この年に宣教団が長安に到着。太宗の命を受けて 宰相・房玄齢が宣教団団長・阿羅本(アラホン、アロベン)を迎えたとの記録あり。(『唐会要』)この時点では、
“景教”ではなく“波斯経教”と呼ばれていた。
○李淵(唐の初代皇帝)、没す。 |
638 |
貞観12 |
戊戌 |
○景教が唐から公認を受ける。
→同時に長安にて寺院・波斯寺(又は波斯経寺)が建立される。
|
665 |
麟徳2 |
乙丑 |
○麟徳暦を制定。 |
673 |
咸亨4 |
癸酉 |
○一行、河北省鉅鹿にて生れる。
→密教僧、天文、暦算陰陽五行を研究。『大衍暦』『宿曜儀軌』他を著す。 |
685 |
垂拱1 |
乙酉 |
○8月5日、玄宗、睿宗の第3子として生まれる。
(乙酉年/乙酉月/戊寅日)
→中国唐朝の第6代皇帝。皇帝としての治世は、前半は善政を布いて唐に全盛をもたらしたが、後半は楊貴妃への寵愛から、安史の乱の要因をつくってしまう。 |
705 |
神竜1 |
乙巳 |
○不空、インド南部の師子国にて生れる。
→密教僧。『宿曜経』を作る。 |
716 |
開元4 |
丙辰 |
○一行、長安に来た密教僧・善無畏の弟子となって密教 (胎蔵の法)を受ける。 |
717 |
開元5 |
丁巳 |
○一行、勅によって『大衍暦』を著わす。 |
719 |
開元7 |
己未 |
○6月1日、楊貴妃、蜀(現在の四川省)にて生まれる。
→中国唐代の皇妃。古代中国4大美女の一人とされている。玄宗皇帝の寵愛を受け、安史の乱(安禄山の乱)の原因を作った所謂“傾国の美女”。姓は楊、名は玉環。
┌─┬─┬─┐
│日│月│年│ 大運:順行
├─┼─┼─┤ 納音:天上火/自旺
│戊│庚│己│ 通変:食神帝旺/敗財衰
│午│午│未│ 格局:月刃格/二帝旺型自刑
└─┴─┴─┘
※干支出典:『学問としての四柱推命』(日沖宗弘著、福武書店)P.152
◆命理:なるほど、帝旺羊刃が付いた強烈な食神が主体性の星となって、顕天して根を持った敗財と生じ合っている。日支も印星の帝旺羊刃で二帝旺。時柱にもよるが、三柱のみで見れば、容色豊満にしてフェロモンが匂い立ち一種独特のオーラを持つ命式である。時柱に痩せる星が出なければ、やはり、ふっくらした感じの女性であろう。ちなみに、家田荘子著『極道の妻たち』のモデルとなり、「覚悟しいや!」の名ゼリフで知られた女性(実在する組長夫人)の命式も、日干「戊」で食神帝旺・敗財と、類似の命式であった。玄宗皇帝との相性線には、日支(夫妻宮)を含んた火局があり干合もある。強く引き合うものの、日干が同じ「戊」なので、良い時は良いが、一緒に凶運の流年を迎えるので、問題もある。 |
720 |
開元8 |
庚申 |
○不空、師の金剛智と共に海路で、洛陽に来たる。
○一行、金剛智から『金剛頂経』の秘法を受ける。 |
724 |
開元12 |
甲子 |
○一行、善無畏が『大日径』を漢訳する際に訳場に列し、善無畏の口述を筆記役を務める。 |
727 |
開元15 |
丁卯 |
○一行、没する。 |
729 |
開元17 |
己巳 |
○大衍暦を制定。 |
741 |
開元29 |
辛巳 |
○不空、師の金剛智が亡くなり、遺命を奉じてインドに帰国し、密教経論を求める |
745 |
天宝4 |
乙酉 |
○景教の教団の名称が“波斯経教(波斯教)”から、正式に“大秦景教”に改称される。それに伴い、寺の名称も “波斯寺”から“大秦寺”に改称されることとなった。(by『旧唐書』) |
746 |
天宝5 |
丙戌 |
○不空、再び密教の経論と共に中国・長安に帰って来る。 |
755 |
天宝14 |
乙未 |
○11月、安史の乱(安禄山の乱)勃発。
→755年~763年にかけて、唐代の節度使・安禄山が起こした反乱。玄宗皇帝の側近・楊国忠と安禄山の対立が元になって起こった。この内乱によって、唐の国力は次第に衰えて行く。
玄宗皇帝が楊貴妃との愛に溺れたことことに端を発し、皇帝としての指導力を失い、臣下の暴走を招いた。玄宗が蜀に逃げた時、兵士達が楊貴妃は楊国忠達と同罪であるとして、玄宗に対して貴妃の殺害を玄宗が拒めない程に強く要求したことでも分かる。
◆推命的観点:玄宗の生日は「戊寅」。その行運は以下の如し。
・大運:己卯敗財沐浴(正官)~戊寅比肩長生(偏官)・反言
・流年:乙未正官 衰(敗財)
※玄宗は大運「庚辰食神冠帯(敗財)」という艶福の星が巡ったの時期に、絶世の美女・楊貴妃を皇妃として迎え入れ、大運敗財沐浴という厭世的となって情に流され財の損失をも招きやすい時期に、貴妃に溺れて政治が乱れ、これが反乱の原因となった。 |
759 |
乾元2 |
己亥 |
○不空訳の『宿曜経』が成立する。この経の正式名称は『文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経』といい、宿曜占術 の原典となっている。この時訳されたのは、現在の下巻部分。 |
762 |
寶應1 |
壬寅 |
○4月5日、玄宗、没す。 (乙巳月/甲寅日)
○この頃、李虚中が魏郡に生れる。
→李虚中は生年月日の干支から推命する、推命学の基礎を作る。
○五紀暦に改暦。 |
764 |
広徳2 |
甲辰 |
○不空は先回訳出した『宿曜経』に不備があるとして、楊景風に命じて編纂をやり直し、更により詳しい「修注」を追加させ、『宿曜経』をリメイクする。これが現在の『宿曜経』の上巻部分となる。 |
|
|
|
○唐朝において七政四余が禁止される。
○李白:701~762→「詩仙」。
○不空:705~774。中国の密教僧。『宿曜経』を作る。
○杜甫:712~770→「詩聖」。 |
768 |
大暦3 |
戊申 |
○韓愈、生れる。~824
→古文を復興し儒教を鼓吹し道教・仏教を排斥する。『韓昌黎集』。推命の祖・李虚中の墓碑銘を書く。 |
770 |
大暦5 |
庚戌 |
○一行、勅によって『大衍暦』を著す。
○阿倍仲麻呂、唐にて没す。(70歳)
→日本からの留学生で、安倍晴明の先祖とされている。
○杜甫、没す。
→李白と並び称される詩人。「詩聖」。誠実な人柄と儒家的な信念を持っていた。 |
772 |
大暦7 |
壬子 |
○1月20日、白楽天(白居易)、生れる。鄭州新鄭県(河南)にて。
(壬子年/壬寅月/辛丑日)⇒仮傷官/天徳×2
→~846年(会昌6)、中唐の詩人・文人。『長恨歌』が有名。仏教徒で禅僧との交流もあった。晩年は龍門の香山寺に住み「香山居士」と号す。 |
774 |
大暦9 |
甲寅 |
○不空、没す。 |
780 |
建中1 |
庚申 |
○この年から、『大衍暦』が施行される。 |
781 |
建中2 |
辛酉 |
○長安に「大秦景教流行中国碑」を建立。
→景教とは東洋に流伝したキリスト教(ネストリウス派)のことである。 |
784 |
興元1 |
甲子 |
○貞元暦を制定。 |
792 |
貞元8 |
壬申 |
○韓愈、科挙の試験に合格し進士となる。 |
794 |
貞元10 |
甲戌 |
○李虚中、科挙の試験に合格し進士となる。 |
796 |
貞元12 |
丙子 |
○呂洞賓、後世の伝説ではこの年の生まれたとされている。
→唐時代の仙人で、八仙人の一人。占術家の守護神。 |
804 |
貞元20 |
甲申 |
○最澄、空海唐に日本より唐に渡る。
○12月23日、空海が長安に入る。
→空海は長安の都で『宿曜経』を翻訳した不空の高弟であった恵果より密教の奥義を伝授される。 |
806 |
元和1 |
丙戌 |
○空海が日本に帰国。この時『宿曜経』を多くの密教経典と共に日本に持ち帰る。 |
813 |
元和8 |
癸巳 |
○6月4日、李虚中、没す。享年52歳 (己未月/乙酉日)
※李虚中の死後、韓愈は墓誌を作って李虚中の業績を記念する。『大唐故殿中侍御史隴西李府君墓誌銘』 |
819 |
元和14 |
己亥 |
○韓愈、「論仏骨表」を憲宗に奉じて仏教信仰を批判したために潮州(広東省)に左遷される。 |
822 |
長慶2 |
壬寅 |
○宣明暦を制定。→日食法を改良、日食の推算に月の視差を考慮。 |
848 |
大中2 |
戊辰 |
○日本天台宗の高僧円仁が渡唐し『宿曜経』を、空海に続き再び日本に持ち帰る。 |
858 |
大中12 |
戊寅 |
○空海の甥・円珍が渡唐し再度『宿曜経』を請来する。 |
867 |
咸通8 |
丁亥 |
○陳希夷、生れる。:~984→道士で、 紫微斗数の創始者。 |
892 |
景福1 |
壬子 |
○崇元暦を制定。 |