五行推命学研究所
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初代・高木乗
2007/03/02更新

<高木 乗> (初代)  四柱推命学、「命理学会」会長、元新聞記者、刀剣鑑定家、詩人。

高木乗(初代)

●たかぎ・じょう
●1879年(明治12)4月20日亥刻生まれ。
●出生地:水戸市根積町外四丁目。
●本名 : 清水孝教(たかのり)。また、詩人としては
      清水橘村(きっそん)のペンネームを持つ。



写真提供 : 西村登氏
 西村登氏は初代・高木乗の弟子で、嵯峨占命塾を主宰、
現在京都に在住されています。昭和30年代の在京当時
「西村龍生」の名を使われていました。
 左の写真は、昭和35年1月に高木邸の庭先に於いて、
西村氏自ら2眼レフのローライコードを手に、撮影されたものです。
   (撮影時間は午後3時頃)

※掲載写真の無断転載を禁じます。




●家系:
 清水孝義・まつの長男として出生。
 父:清水孝義。(清水介三郎孝義)弘化3年8月3日(西暦1846年9月23日)生まれ。(戸籍では) 水戸市根積町外四丁目の市長(茨城県辞令)。後に開拓者となって、茨城県東茨城郡橘村に移る。(※根積町は現・柳町/水戸駅から東南東に1`の辺り)
 母:清水まつ。弘化4年5月7日(西暦1847年6月19日)生まれ。(戸籍では)
 祖父:清水孝繼。京都二条城の武芸師範であった。

 高木乗(清水家)の祖先は常陸太田地区の出身で、古い云い伝えでは平将門の一族であったとされています。曾祖父三代前の人は大変博学な人で、もと神官から士分に取り立てられています。祖父は明治維新前に、京都倉奉行の中の重役になり、死んでからは皇居墓所である、京都月の輪湧泉院の中の一院の、しかも3歳で亡くなった明治天皇の姉君の御墓所の真ん前に葬られたとのことです。この祖父は八宗兼学の人で、鎗、矢弓、鉄砲などの師範役にもなっていた人でした。

 高木乗(清水孝教)は、清水孝義・まつの長男として出生したものの、、一人腹違いの姉がいて、その姉に養子を迎へて実家の清水家を譲っています。その姉の娘(姪)に高木乗(初代)は四柱推命を教えていて、一時その姪は東京・市ヶ谷の教室で四柱推命を教えていました。その姪は二代目とは仲が悪かったとのことです。ある日、市ヶ谷の教室での講義内容を二代目に報告したところ、二代目は「何でそんな事を教えたんだ!!」と怒ったため、それで仲が悪くなったとのこと。


●経歴:

1888年(明治21)、11才で初めて橘村與澤の小学校に入り、高等科に編入されたが、貧乏のため小学2年で中退している。少青年時代に苦労を極め、その間独学をし、学校中退後の彼にとっての学校は、専ら「図書館」でした。

1895年(明治28)、開墾地にて父・孝義が亡くなる。数え17才の時に、家は姉(腹違い)に譲り、叔父に連れられて仙台、福島に移る。

1898年(明治31)、上京する。その頃から日本画家・望月金鳳に就いて四條流を学び、同時に俳句を作り、岩谷小波に見出される。

1899年(明治32)4月、高瀬真卿が創設した感化院(現在の児童養護施設に相当)の教部となり、感化院教師の生活がスタートする。当時、感化院は渋谷羽沢にあった。

1901年(明治34)、23才、詩集『野人』を仙台有千閣より出版、この時よりつかっている「橘村」の号は、子供の頃に居たむらの村名をそのまま用いたものであった。

1903年(明治36)、25才、國益新聞(岩谷松平社主)に入り記者となる。

1908年(明治41)、旧「東京日々新聞」記者となる。

1909年(明治42)、詩集『筑波紫』を出版(日高有隣堂)。他に1〜2の小詩集がある。
 同年10月30日、三男の清水康教(やすのり)=二代目高木乗=
が、東京都渋谷区で生まれる。

1910年(明治43)、東京朝日新聞に「家庭訓話 今日の歴史」を連載、後に雪月花の三冊として弘道館より発刊、明治天皇、皇太子殿下に献上する。(伯爵東久世通禧氏執奏)

1911年(明治44)、史伝『兵部卿護良親王』を書く、木村鷹太郎との共著の名をかりる。(明治出版社)

1915年(大正4)、『刀剣辞典』編著、刀剣家・木阿弥光遜との共著の名をかりる。

1916年(大正5)、「時事新報」の記者となる。(※「時事新報」は、1882年03月01日、福澤諭吉により創刊された日刊新聞で、大正中期までは「日本一の時事新報」とも称され、東京五大新聞の一角を占めていたほどだった。関東大震災後、社勢は衰え、東京日日新聞と合同。戦後一時復活したが、最後はフジサンケイグループに吸収されている。)

 【時事新報の記者時代の話】
 高木乗が占術にのめり込むようになった切っ掛けが観相の大家・櫻井大路との出会いにあった。
 新聞記事で何か面白い読み物を、東京日々新聞の娯楽面に組めないものかと、編集部で案を出すことになった。そこで当時、評判になっている東京在住の占術家の特集を組もうという企画が上がり、占いには手相・人相・家相・易・墨占い・算命術・水晶占い・九星気学・占星術等があり、それぞれの占術を得意とする占術家の記事を、毎週連載することとなった。その企画記事のチーフに清水孝教(高木乗)が当たることになったのである。
 その特集の最後に、人相の大家・櫻井大路の原稿を取りに行った帰り際に、清水孝教(高木乗)は何気なく櫻井大路にこう尋ねた。「ところで先生、これから私はどうなるのでしょうか?」その時は既に夕方であったので、玄関先で、大路はしばらく眼鏡越しに清水孝教(高木乗)を見ていたが、「薄暗くてハッキリ見えないが(顔が)、君は子供さんを1・2年の内に亡くすかも知れない。それに新聞記者も辞めるだろう。」と言った。
 清水孝教(高木乗)はその言葉を聞いて、「当たるも八卦・当たらぬも八卦とは良く言ったもんだ。冗談も休み休みに言え。子供は風邪どころか病気一つしたことがない。自分の仕事も油が乗って、バリバリやっている。でたらめも良いところだ」と、カリカリしながら櫻井大路の門を辞した。
 後述するように、それから一年、長男、続いて次男を失い、そして間もなく新聞社を去る事になる。
 また、高木乗自身も後年、人相を研究し、『人相の秘鍵』という本を執筆している。そして、高木乗もかなり人相も出来るようになったが、恩のある櫻井大路の手前、大路に対して礼を失するといけないということで、手相は前面に出さずに、四柱推命を表看板としたとのこと。

<※出典資料:「初代高木乗にみる父子相尅」(西村登著、1989年05月25日)>

1919年(大正8)、長男(明治36年3月6日午前7時生まれ)を亡くす。この事がきっかけで四柱を研究し始めます。『生まれ日の神秘 四柱推命学』によると、17才で長男を亡くしたことで、悩みの中、高木乗は精神的遍歴をします。キリスト教、様々な宗教書、児童教育、児童心理学、哲学、天理教、参禅、姓名学、人相学、九星と精神的・宗教的世界や様々な占術に解決を求めましたが、彼の悩みを解決してくれるものはなかったのです。
 そんな中、1921年(大正10)に雑誌『運の世界』を発行し、それまで勤務していた「時事新報社」を退社し、占術の道に専念するようになりました。高木乗は四柱推命を本格的に研究する以前は、五行易、梅花心易、家相等を研究していて、昭和10年以前にそれらの書籍を数冊ずつ出版しています。因みに、高木乗の関東大震災予言は「梅花心易」によったとのことです。
 その後に「淵海子平」の法、即ち四柱推命学のことを人づてに知るようになります。その人が話す四柱推命学の話しに興味を抱き、試みに亡くなった彼の子供の生年月日を言って、判断してもらったところ、「その子には父子相尅の星があるから、早く手許から出し、家に同居しない方がよい。同居すればどちらかが勝つか負けるかして倒れるものである」といわれる。その後彼は更に研究をした結果、「その子に相尅の星があるのではなく、自分に子を尅する星があり、その為に子供の生命を縮めたんだ」という事を知り、今まで解決できなかった問題に一応の解答を得ることとなり、その事をもって四柱推命学に研究に没頭するようになったのです。ただ、四柱推命を中心として鑑定を始めた後にも、梅花心易を併用して判断をしていました。
 高木乗の四柱推命学研究は、特に四柱推命学の原典である『淵海子平』『三命通会』『星平海会』等を読み、研究したのです。そして、昭和初期に到って、四柱推命学の原典の古意を損なうことなく、これを更に日本人に適応するようにし、また近代科学を加味して、これを「命理学」(人生機構学=ピオ・メカニック)と名付けます。

1930年(昭和5)2月22日、命理学会を創立し、3月には会の機関誌『福星』を発行。命理学会の創設の折には、前述の櫻井大路も顧問として名を連ねている。
 同年2月22日に第一回命理学会懇話会が、新宿白十字食堂楼上にて開かれている。その時の参加者は下の11名であった。
 高木乗、清水康教(二代目)、櫻井大路、熊崎健翁、品川青山、伊藤美太郎、河原齢之助、山田義雄、細野哲夫、山本董湫、森長次郎。

1931年(昭和6)、春秋社から運命の神秘シリーズの一つとして『生まれ日の神秘 四柱推命學』を著述刊行する。その後、この書は清教社に版元が変更されつつ、版を重ねる。

1932年(昭和7)、刀剣熱勃興の気運に乗じて、又々刀剣に親しみ、この年から以前に出版した『刀剣辞典』を改題改版して『刀工鐔工辞典』とし、それに次いで次々に刀剣関係の出版物を刊行する。

1936年(昭和11)2月11日、「高木綜合運命學會」を新橋一丁目四番地、復興ビル三階に設置する。この高木綜合運命學會は、二代目高木乗(当時は高木泰と名乗る)が、父親に代わって実務を担当し始め、兜汾ッ社を子会社とし、命理学会を含めた従来の事業を綜合した母体として設立されたものでした。高木乗は実務を息子に任せることにより、雑務から解放され、執筆と運命学の統一に取り組みたいとの意向があったのでした。事務所には高木泰と共に、弟子の本多乗卿、勝山乗猷が常駐した。

1944年〜1945年:戦時中、空襲に遭い家屋を焼失し、同時に、多くの推命資料・自著を喪失。

 戦後、東京都大田区田園調布119の邸宅を当時の金額にして60万円で購入、そこを終の棲家とした。また、戦後は人の集まる会合は一切せず、家を開けることはなかったという。時折、日本語の語源にかんする定期研究会の為に、日本女子大に出かけることはあったとのこと。

1950年(昭和25)、この年から再び詩を作り始める。

1956年(昭和31)5月、西村登氏が高木乗の本を読んで、高木邸を尋ねて来る。西村氏は「西村龍生」の名前で、初代高木乗の高弟となり、安田靖先生の鑑定をした縁で、安田先生を高木乗に紹介することとなる。

1957年(昭和32)、安田靖先生が西村登(竜生)氏の紹介で、高木乗の門を叩く。→歌舞伎町入り口で大道易者として鑑定をしていた西村登(竜生)氏が、安田靖先生の会社倒産を当てたことが切っ掛けだった。

1960年(昭和35)、妻・静が亡くなる。

1964年(昭和39)、息子の清水泰教(後の二代目高木乗)が、55歳の時に、40代半ばの女性とやっと結婚(晩婚)。お互いに初婚同志だった。息子の結婚相手に対して初代高木乗は「食神だから、まあ良いかと思ってね」と話していたという。

1965年(昭和40)3月16日没。


 初代高木乗は関東大震災を予言した事で一躍有名となり、婦人誌等に取り上げられ、1930年(昭和5)に出版された『生まれ日の神秘・四柱推命学』は歴史的名著でありましょう。また、太平洋戦争当時、1945年(昭和20)8月初旬に日本は敗戦する事を予言し、各閣僚に書簡を送った事もあり、為に官憲に捕まるいう事もありました。また、高木乗は刀剣の鑑定家としても有名でした。高木乗は何よりも漢学に造詣が深く、高等数学にも通じた大学者であったので、先生について研究するよりも原典に直接当たって研究できましたし、更に高等数学的理解もしていたようです。
 高木乗は独学多才の人で、その卓越した鑑定力は古今独歩のものがありましたが、性格はいたって頑固で癇癪持ちであったようです。所謂天才肌の人物にありがちな欠点と言っていいでしょう。その為に、温厚な性格の阿部泰山に比べ弟子が増えなかったようです。「東の高木乗、西の阿部泰山」と言われましたが、その性格を戦国時代の武将に譬えれば、信長と家康に比類することが出来るかも知れません。

 ※下の命式は初代高木乗のものですが、行運は高木乗が四柱推命を研究する動機となった1919年(大正8)の長男を亡くした年で算出してあります。→男命にとっての子星である官星墓に入り、更に木局▲して食傷が官星を尅する中に、大運は成果が消えてなくなる印綬の死訃となっています。子供が墓に入る中で、自らも死の淵を彷徨いつつ、懊悩した高木乗の苦境が察っせられるものです。命式本体にも親子相尅の星が見られます。

【初代・高木乗の命式】


高木乗流の特徴について