ボルネオ行きに決定

 12月のフジミドリシジミの採卵の帰り道,次回の海外遠征はマレーシア,コタキナバル周辺と決まった。本当は,やや不本意な決定である。というのは,この地域での採集は,私自身3回目であり,しかも,最初に訪れたのが3月なので,事実上ほぼ完全な繰り返しになってしまい,差し当たり新しいテーマも見当たらなかったので,行って何をしようか,考え込んでしまったのである。蝶を採ればいいではないか,といえばそのとおりであるが,実は,去年の後半頃から,採集に対する意欲が急速に衰えてきてしまっていたのである。これにははっきりしたきっかけがあったので,少し横道にそれるが,その辺から話を始めることにする。

 ここ数年,7月中旬頃は,海外で採集するのが恒例になっていた。ところが,昨年は仕事が立て込んで,とても長期間海外に採集旅行にゆく余裕がなくなり,とは言え,多少は休みがとれたので,久々に日本の蝶を採集するのも悪くないか,という感じで,国内のいろいろな産地に出向いた。この時期にもルーミスシジミがいることを確認したところまでは良かったが,甲子高原,八ケ岳周辺,谷川岳周辺等々,歩き回るうちに,だんだん苦痛になってきた。要するに,今更日本の普通の蝶を採集しても,面白くないのである。それどころか,展翅する面倒が残る分,苦痛なのである。8月下旬に一週間程度休みがとれたが,行き先はランカウイ島,マレー半島であり,これとて今年二回目,初めて海外で採集したときのような新鮮さとは比べるべくもなかった。ランカウイ島では,天気の悪い日はホテルのベットで本を読んで寝転がり,少し天気の良い日はホテルのプールサイドでキシタアゲハを眺めて(ワシントン条約うんぬんだから言うわけではないが,最近,八重山にわざわざキシタアゲハを採集しにゆく人が結構いるようだが,どう考えても理解できない。台湾から飛来したこきたないただのキシタアゲハなんかを標本箱に入れて,いったい何が嬉しいのだろう。アンフリ,ヘレナなど,飛んでいるときはとても美しい。しかも,なぜかプールサイドの花にやって来る。あれは東南アジアのホテルのプールサイドで眺める蝶である。あんなのろまな蝶は,採集してもつまらない)時間を過ごし,ほんの時たまネットをもって歩き回る始末。マレー半島でも,半分惰性で時々蝶をネットに入れながら,キャメロンハイランドの麓の沢沿いの林道をのろのろ歩いていた。今思うと自分の中で,何か転機を求めていたようである。

 目の前に,一頭のアンフリサスキシタの雌が現れた。もちろん採集する気はなく,ぼんやりと眺めていた。いつもと様子が違う。時折植物の葉に触れては離れ,また,植物の葉に触れるのを繰り返している。明らかに,産卵場所を求めているようである。結局草むらの中に消えてしまうまで,一時間もキシタの後をついて歩いたであろうか。それから周りにいる蝶を眺めると,ベニモンアゲハなどのアゲハ,トラフタテハなどのタテハなど,それぞれが今,何をしたいのか,わかったような気がした。日本の蝶ではよくあることだが,東南アジアの蝶も,よく見慣れた日本の蝶と同じようなボディランゲージで「語って」おり,それゆえ,その行動の意味が自分に「分かる」ということ自体,自分自身にとって新鮮な驚きであった。

 形態的な緻密な分析を目にすると,すごいな,という感慨を抱く反面,緻密であれば緻密であるほど,どんどん本来の自然認識からかけ離れてゆくように感じているのは私だけであろうか。明らかに,生物自身は,そのような微妙な違いによって互いを識別してはいない。他方,ヒトという種内部の地域集団に過ぎない「人種」の違いを,現実に我々は容易に認識できる。中国人と日本人のどこが違うか,ということを言葉ではっきり表現することは難しい。しかし,華僑の店に我々が入ると,店員は,細かい形態的な区別点に基づいて識別したり,ましてやゲニタリアの形態(!)を分析することなく,瞬時に我々が日本人であることを確信し,すぐさま日本の音楽を流し,何かを買わなくてはまずい気分にさせる。形態だけでなく,生理作用,行動を対象とする場合も,特定の原因物質,解発因に原因を求めようとするかぎり,事情は同じであろう。

 近代科学の還元主義の限界をしたり顔で説くのは易しい。このような素朴な批判に対しては,科学の側も鼻で笑いながら反論するだろう。あいまいな,何となくといったものは分析以前の素材であって,それだけでは一般性がなく,それを論理的に明確な形で表現するのが科学の目的なのだ,ぐらいなことは誰でも言うであろう。

 しかし,本当に科学は「漠然としたものを明確に表現する」ことを目的にしているだろうか。「漠然としたもの」と関係があるか否かに関係なく,明確に定量できる現象だけを対象にしてはいまいか。あらゆる現象の普遍的な原理を追求するかわりに,単純な原理で説明できる現象を探してはいまいか。

 少し話が大げさになった。しかし,ただネットで採集して新しい知見が多く得られる時代ではないし,その興味も失せた。どっちにしても意味がないかもしれないが,漠然としたものに徹底的にこだわって見たくなった。ネットで採集するのはやめて,一〜二年徹底的に眺めてみよう。これが日本の蝶(成虫)に対する当面の方針である。海外では,そのような観察までは難しい。むしろ,遊びと割り切って,できるだけ未知の場所で未知の種に出会いたい。そう考えていた。その意味では,3度目のボルネオ,今一気が進まなかったのである。しかし,その他で行ってみたい南米,インドネシアはいずれも昨今治安が悪すぎる。確かに,マレーシアがいちばん妥当な選択であった。

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