ラバン・ラタへ

 2月8日朝,飛行機はほぼ定刻に成田を出発し,マニラ乗り換えでコタキナバルに到着した。マニラでの乗り換え時間が1時間程度しかなく,しかも飛行機の到着がかなり遅れたため,マニラでコタキナバル行きの飛行機に乗り込んだのは出発予定時刻の5分前ぐらいになったが,飛行機の出発は予定時刻より10分ぐらい遅れた。マニラ発の機内放送では,

「乗り換えに時間がかかっている客がいるので…」

というような意味のことを言っていたが,どう考えても飛行機の遅れが原因である。空港には,現地の旅行会社の送迎車が待っていた。知らない人たちとは言え,誰かに迎えに来てもらうというのは何となく嬉しいものである。

 今まで2回は,コタキナバルではハイアットに泊まったが,今回はシャングリラホテル,何はともあれ無事ホテルに到着し,ほっとする。さすがに暑い。東京を出発する前は,風邪がなかなか治らず,果たしてこんな体調でキナバル山に登れるのか,と不安であったが,この暑さなら,風邪も吹っ飛んでくれそうだ。

 翌朝,7時少し過ぎにキナバル公園事務所への送迎車が到着した。残り3人は,レンタカーが到着する時間がはっきりしない(後で聞くと,私が「知っているはず」であったらしいが,内心はどうでも良いと思っている。ひどい幹事である)といって騒いでいたが,結局9時に到着したと後で知った。私たちはちょうどその頃公園本部に到着し,そのままミニバスで発電所まで向かい,歩きだしていた。

 ゲートからほんのわずかな距離は,下り坂であるが,少しすると登り一方になる。道はずっとしっかりしており,決して歩きにくい場所はないが,すぐに私は遅れ始めた。

「私は疲れていないが,こいつが疲れているようなので少し休もうか」

 わざわざこういうことを英語で言うのがOさんらしい。それにしても,全く身体が言うことを聞かない。一体何が原因だろうか。風邪がまだ完治していないこと,それもあるだろう。二年前にスキーに行き,転んで靭帯を痛め,きちんと治療しなかったため,持病化していることが響いているのだろうか。それもあるかも知れない。今でも階段を登り始めの一歩は痛むとはいえ,少し経つと気にならなくなるので,たいした原因とは思いたくない。靴が安物で,しかも壊れかかっていて,歩くと足の下の石の大きさや形がはっきりわかるほど靴底が薄いせいだろうか,これもあるだろうが,このことは承知の上だったので,理由にはしたくなかった。

 私が中学生か高校生の頃,それまで一般的であった表出しに代って裏出しの山靴が流行し始めた。運動靴は論外,チロリアンシューズとか,キャラバンシューズで山歩きするのはあまり格好良くなく,大した場所でなくても立派な山靴で登るのを良しとするような風潮が周囲にあった。私もそんな風潮に従い,重たい山靴を買ってもらい,喜々として高尾山とか美ケ原などに行ったのを覚えている。

 流行なんてものにろくなものはないが,この流行ほど罪深く,誤ったものはないと思う。足首を鍛えるべき,育ち盛りの時期にがっちりとした靴で足首を保護し,山歩きをしていたのである。本当に格好良いのは,草鞋で沢登をできる,鍛えられた足腰の持ち主である。この当たり前のことに遅ればせながら気づいた私は,大学時代にアイガー マインドル という,知る人ぞ知る立派な山靴を2〜3回使ったのを最後に,徐々に使う靴を軽くし始めた。比較的長く使っていたのはザンバラン フジヤマ。それで革靴を卒業し,繊維でできた軽い靴に変えた。育ち盛りはとうに過ぎている。若いときに鍛えなかった足首を強くするには簡単なことではない。そして,いわばその総決算が,一年近く前に近所で2千円で買った,タウンシューズに毛の生えたような靴でキナバル山に登るという行為である。

 本当は,風邪のせいでも,靭帯のせいでも,靴のせいでもないのである。別行動の間,柿沼君は,

「キナバル山なんか,登れるはずないよ。全然運動をしていないんだから」

 と言って笑っていたという。まさにその通りであり,原因は運動不足以外の何ものでもなかった。

 12時少し前,途中にある休憩所のような所で昼食にする。かわいいリスがやって来たので,ビスケットを一切れ置くと,さっと持ち去っていった。いかにも物をもらい慣れている感じである。日本人の若者が上から降りてきた。聞けば,10日間の滞在で,二度目でやっと頂上に立ち,降りてきたところだという。一度目はラバン・ラタ・レストハウスに着いた日に39度の熱が出てしまい,とても頂上に行ける状態ではなく,もう一日泊まらせてくれと頼んだが,「規則は規則だ」と突っぱねられ,フラフラになって下山したという。コタキナバルに戻り,市内のサバ・パークスの事務所で再度手続きし,やっと登頂を果たして下山する途中だそうだ。こういう話を聞くと,どこの国でも役人は変わらないのか,と思ってしまう。日本人のグループはほかにも降りてきた。

 シャクナゲやいろいろな美しい花も咲いているが,とても落ち着いて見ている余裕はない。Oさんはずっと先に行ってしまった。初めのうちは,ポーターのE氏が私の後ろにいたのだが,彼も先に行ってしまった。少し先に,ガイドのA氏が待っていて,私を見てこう言った。

「I help you. I carry your back.」

 私の持っているザックの中には水と雨具ぐらいしか入っていないので,ポーターのE氏の持っているザックに比べると,何十分の一の重さであろう。しかし,これだけでも少し楽になった。

 この後,ガイドのA氏が私のすぐ後ろを着いて歩くようになった。私が止まると,彼も止まる。過去に,何人かのグルーブで登山し,最後尾について,へばった人と一緒に歩いたことは何回もあった。しかし,逆の立場で自分が後ろにつかれるのは初めてであった。こうしてずっと後ろにつかれると,早く行かなければならないような気持ちになり,妙に圧迫感がある。自分も人にこんな気分にさせたこともあったのかな,などと過去を振り返って反省する。はっきり言って,もう帰りたい。何か,登山を中止する合理的な理由はないだろうか。脈拍を測ると,約180,ほとんど危険な値である。しかし,

「脈拍が180になったので,これ以上は危険だと思い,帰ってきました」

 なんていう理由が本当に合理的だろうか。薬師岳登山で帰ると言い出した高橋君のことをちらっと思い出す。

 少し歩くと,中国人のグループの中で,一人だけ遅れたという女性に追いついた。この人の後ろにもポーターが着いている。私以上に歩みは遅く,妙に安心する。私の筋肉がオーストラリア産ステーキ肉のようだとすると,この人の筋肉は,神戸牛の霜降り肉のようになっているのかな,などと不謹慎なことを考えながら一緒に歩いた。ゆっくりとしたペースなので,とても楽である。そうなのだ。私がのろのろ歩いていても,ガイドは楽をしているだけで,決して彼に迷惑をかけているわけではない。マイペースで歩けば良いのだ。しかし,この中国人の後を私がついてゆくと,私が彼女に圧迫感を与えているかも知れない。マイペースで歩いていると,いつの間にか彼女は後ろの方に見えなくなった。

 日本の山道と異なり,ここの山道は斜面を巻くということがなく,ほとんど直線的に最短距離を登っている。頂上まで,直線距離で8キロ少しで標高差2千メートルを稼いでいる。sinθ=0.25ということは,θは何度だろう,などとつまらないことを考えながら,2,30歩歩いては少し立ち止まり,また2,30歩歩くことを繰り返す。蝶は,クロヒカゲ類を一頭見ただけで,全くいない。道が大きく曲がるカーブの手前でやや大きい休憩。A氏が

「後2,3分でラバン・ラタ・レストハウスだから頑張ろうよ」

 という意味のことを言う。

「あんたにとっては2,3分でも,俺には10分はかかるよ」

 と,心の中でつぶやいて,歩きだす。カーブを曲がったら,すぐにレストハウスが見えた。彼は,私のペースを考えながら語っていたのだ。しかも,すぐ先がレストハウスだと知っていながら,私が十分休んだころを見計らってそれを言い出す思いやりも持っているというのに,私の何とひがみっぽいことか。とにかく着いた。時間はもう4時近い。6時間もかかったとはいえ,とにかく着いた。霜降り牛の筋肉の持ち主でも,一歩一歩歩いていればいつかはたどり着けるのである。


 
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