七ノ月


 それは、球体の形をしていた。
 シャボン球のようにふわふわと、どこへ向かうでもなくただ空中に漂っている。
 大きな球体がひとつ。その両脇に小さい球体がひとつずつ浮かんでいた。一定の距離を保って、それらは浮かんでいる。
 大きな球体の中に影が見えた。人の形をしている。胎児のように(うずくま)り、浮かぶように球体の中にいるそれは、まるで死んでいるかのように動かない。一糸纏わぬ姿で蹲り、所在なげに球体の中に浮かんでいる。長い髪が、体にまとわりつくように巻き付いていた。頭の上には、ふたつのお団子―――。
 球体の前に、人影が現れた。長い髪、ふたつのお団子。球体の中で蹲っている者と、うり二つの容姿を持っている。
 球体の前に立つ人物は、球体の中で微動だにしない自分と同じ容姿を持つ者に(さげす)んだような視線を向けると、満足げに微笑んだ。
「哀れな姿ね」
 その姿に反応して、球体の中の人物が顔を上げる。容姿ばかりではなかった。顔付きも全く同じに見える。まるで双子のようでもあった。
「今度は何の用?」
 球体の中の人物は、精一杯強がったような口調で言ってきた。
「あなたを笑いに来たのよ。いけない?」
 皮肉っぽく答える。(あざけ)るような笑みを、口元に浮かべている。
「あなたの目的は何!? あたしの姿を真似て、何を企んでいるの!?」
 球体の中の人物は虚勢を張ったが、声は弱々しかった。かなり衰弱しているように感じられた。
「姿を真似てるですって? 違うわよ。あたしはあなたそのものよ、月野うさぎ」
「どう言うこと!?」
 球体の中の人物―――月野うさぎは、自分に生き写しの目の前の人物を、思い切り睨む。しかし、目の前の自分そっくりの人物は、そんなうさぎの目線を鼻にもかけなかった。
「まぁ、正確に言えば、あたしはあなたから生まれたの」
「まさか、未来から………?」
 ちびうさのように、未来で自分が産んだ子供なのだろうか。だとしたら、自分と似ているのも肯ける。しかし、自分が未来で産むのは、ちびうさだけのはずだ。
「ハズレ」
 自分そっくりの人物は、憎々しげな口調でそう言った。
「言ったでしょう? あたしはあなたそのものだって。未来からやって来た、あなたの娘ってわけじゃないのよ」
「あたし、そのもの………?」
 うさぎは言われている意味が分からなかった。必死に思考を巡らすが、納得できるような答えが浮かんでこない。
「あなた、うさぎちゃんのクローンね!?」
 うさぎのいる球体の左側―――小さな球体の中にいるルナが叫んだ。
「あたしのクローン………?」
 球体の中のうさぎは、目を見開いた。自分そっくりの姿形をした人物を凝視する。確かに自分そっくりだ。しかし、今の地球の化学力では、通常の方法ではクローン人間など作り出せないはずだ。
 自分を見つめ返している自分そっくりの人物は、ルナの言葉を肯定するかのように薄く笑った。
「誰に作られた!? 何のためにうさぎと入れ替わろうとする!?」
 うさぎの右側の球体の中には、アルテミスがいた。勢い込んで、うさぎそっくりの人物に叫び訊いた。
「何のためにですって? 決まってるじゃない。まもちゃんをあたしのものにするためよ」
 うさぎそっくりの人物のその言葉は、ルナの言葉を肯定しているばかりではなく、自分がクローン体であることを認識していることを意味していた。そう認識してした上で、オリジナルに取って代わろうと考えていると言うことになる。
「まもちゃんを!? そんなこと、出来るわけないわ!!」
「どうして?」
 うさぎのクローン体は、童女のような笑みを浮かべる。
「あたしはあなたなのよ? つまり、あたしも月野うさぎだもの。あなたに出来て、わたしに出来ないことは何ひとつないのよ」
「………!?」
 うさぎは言葉を飲み込んでしまった。確かに、その通りなのである。彼女は自分そっくりに化けた別人ではない。自分そのものなのだ。だから、自分に出来ることは、当然彼女も出来る。
「誰も入れ替わったことに気付いてないわ。もちろん、まもちゃんもね」
 そう言いながら、クローン体のうさぎは球体に歩み寄る。うさぎの顔を覗き込んだ。
「分かりっこないわよねぇ」
 歌うように言う。球体の中のうさぎは唇を噛んだまま、自分のクローン体の顔を睨み据えた。何も言葉を返せないのが、無性に悔しかった。
「………だって、あなたとわたしは同じなんだもの」
 クローン体は、身を仰け反らせて愉快そうに高笑いした。うさぎの視線を無視して、くるりと背を向ける。
「銀水晶も、あたしの手の中にあるわ。いざとなれば、これを使って好きなことができる。あなたもそうしたいんでしょ? まもちゃんとふたりだけの世界を作りたいんでしょ? 邪魔なみんなは全て消滅させて、人類の新たなアダムとイブになる………。素敵な夢よね」
「ち、違う! あたしはそんなこと考えてなんかない!」
「ウソおっしゃい。少しでも考えたことなかったって言うの? それじゃあ、あたしの記憶の中にあるこの思いは、誰のものかしらね?」
「知らない! あたしじゃない!」
 球体の中のうさぎは、これ以上はないというほど激しく首を左右に振った。
「あたしはそんなこと思ってない! あたしはまもちゃんと、普通の生活がしたいだけだもの! 朝少しだけまもちゃんより早く起きて、ご飯の用意をして、まもちゃんを仕事に送り出して、家の掃除や洗濯をして、夕方になったらお風呂を沸かして、ご飯の支度をして、まもちゃんの帰ってくるのを待って………。そんな平凡な生活を送りたいだけなのに!!」
「残念だけど、それは叶わない夢だわ」
 氷のように冷たい口調で、クローン体のうさぎははっきりと否定した。
「だって、あなたは、もうじき死ぬんだもの」
「あたしは死なない、絶対にここから脱出してみせる!」
 うさぎのその言葉を聞くと、クローン体のうさぎはまた愉快そうに笑った。
「変身できないのに、どうやってそこから抜け出すつもりなの?」
「!?」
 クローン体のうさぎは、エターナルムーンアーティクルを突き出して見せた。
「言ったでしょ? 銀水晶はあたしの手の中にあるの。そしてあたしなら、銀水晶を完璧に使いこなすことができる」
「変身できるって言うの!?」
 ルナが驚いたように訊いた。何故、ルナがそこまで驚いたのか、うさぎには分からなかった。クローン体なのだから、変身できるのは当然だと思っていたからだ。
「当たり前でしょ? 何をそんなに驚いているの?」
 クローン体のうさぎも、やはりそう聞き返してきた。だが、ルナは口を(つぐ)んだまま答えなかった。クローン体のうさぎは鼻先で笑うと、うさぎの方に目線を戻した。
「あなたができなかったことを、あたしがしてあげる………。その中で、朽ち果てなさい」
 吐き捨てるようにそう言うと、何処かへと立ち去っていってしまった。

「………どうしよう。ルナ、アルテミス………」
 球体の中で胎児のように膝を抱えるようにして蹲っているうさぎが、首だけを左右に巡らした。
「助けは来ないと思った方がいいな」
 ある意味絶望的とも思える言葉を、アルテミスは言った。事実は素直に受け入れなくてはならない。こんな状況の中にあって、希望的観測で物事を進めるわけにはいかないのだ。自分たちが囚われの身であると言うことに、気付いてもらえる状況ではなかった。ましてやうさぎの場合は、自分のコピーが自分に成り代わって生活をしているのだ。他人が分かろうはずもない。
「この球体さえ破れれば………」
 ルナが悔しげに呻いた。今まで様々な方法を試みてみたが、何をやっても効果がなかった。恐ろしく丈夫な結界である。
「うさぎが捕らわれていることは気付かないにしても、俺たちがいないことくらいは気付いてもいいと思うのだが………」
「あたしたちって、最近存在感ないからね。いることが当然のように思われてるから、逆にいなくても気付かれないのよねぇ………。」
 ルナは嘆いた。
「特にアルの場合、相棒が美奈子ちゃんだもんね」
「あいつ、ホント俺のことゴミとしか見てないからな」
 こんなところで憤ってもしょうがないのだが、アルテミスは鼻を鳴らして怒っていた。
「でも、早く脱出しないといけないわ。気懸かりなこともあるし………」
「気懸かりなこと?」
 ルナの独り言のような言葉に、うさぎが反応した。怪訝な表情で聞き返す。
「あの子―――クローン体の子ね―――あの子、本当に変身できるのかしら………」
「できるでしょ? だって、あたしなんだし………」
「いいえ………」
 ルナは首を振る。
「うさぎちゃん。セーラー戦士になるための条件って何だか知ってる?」
「え!? 条件? 考えたことなかったけど………。星の守護を持っていることが第一条件よね?」
「ええ、もちろん。でも、そのパワーの違いこそあれ、人はそれぞれ星の輝き―――スター・シードを持っているわ。そして、その延長線上にセーラー・クリスタルがあるの」
「セーラー戦士としての源だな」
 補足するようにアルテミスが言った。ルナは肯き、更に続けた。
「例え肉体が滅んでも、セーラー・クリスタルさえ健在なら、セーラー戦士は復活できる」
「うん。ギャラクシアがそう言ってた」
 うさぎはキャラクシー・コロドロンでのセーラーギャラクシアとのやり取りを思い出していた。
「そう。だからこそ、セーラー・クリスタルはコピーができないの」
「じゃあ、ルナは、あのクローンがウソを付いているって言うの?」
「分からないわ。本当に変身できるのかもしれない。だけど、そうだとしたら何故変身できるのか確かめなくちゃならないわ」
「どちらにしても、相手はうさぎだ。銀水晶を使えることの方が脅威だよ」
 確かにアルテミスの言うとおりだった。変身しようがしまいが、銀水晶だけは操作することができる。あの膨大なパワーを解放できるのは、セーラームーンではなく、プレンセス・セレニティの転生した「月野うさぎ」であればいいわけだから。
「あいつ、とんでもないことを考えている。みんなを助けなきゃ!」
 いつまでも、こんなところで安穏としているわけにはいかなかった。脱出し、仲間たちに事実を伝えなければならない。そして何よりも、クローン体に衛を渡すわけにはいかなかった。
 みんなのもとに帰りたい。いや、帰らなければならなかった。
「うぅっ!!」
 うさぎは両手を前方に突き出した、全身の力を両腕に集中し、力で球体を破壊しようと試みる。以前も当然、その方法を試したが、球体は歪みもしなかった。だが、変身も出来ない状態では、他に脱出する方法が思い付かなかったのだ。
「無茶よ、うさぎちゃん!! 腕力だけで、この結界が破壊できるとは思えないわ! そうでなくても一週間何も食べてなくて、体力を消耗していると言うのに!」
 だが、うさぎは聞く耳を持たなかった。全身全霊を込めて、球体を破壊しようとしている。
 衛を誰にも渡したくない。
 その一心だった。
「まもちゃん!!」
 セーラー・クリスタルがうさぎにパワーを貸した。凄まじい閃光がうさぎの内から放たれ、うさぎを包んでいた球体が勢いよく破裂した。
 床に落ちたうさぎは、その場にぐったりと倒れた。体力を消耗した状態で凄まじいパワーを放ったのだから、当然だった。
「まもちゃん………。今、行くからね………」
 それでもうさぎは這って前進を試みた。充分に力が入らないので、立ち上がることができない。だけど、動くことはできるから這ってでも前進する。
 執念だった。
 ルナとアルテミスが必死に制しているが、うさぎの耳には届いていなかった。
 必死に這って移動するうさぎの前方に、淡い光が沸き起こった。
「助けが来るまで、待っていられないのね、うさぎは………」
 柔らかく、暖かい声だった。
 うさぎは顔を上げた。シルエットが見えた。人の形をしたシルエットだった。その数はみっつ。
「ビンゴ! 俺たちの言った通りだろ?」
「でも、まさか本当にうさぎがいるとは思わなかったわ………」
 シルエットが歩み寄ってくる。中央の背の高いシルエットの人物は、かなり長い髪を持っているようだ。歩くたびに、髪が揺れている。その両サイドに陣取るシルエットは、小柄だった。ふたりとも、奇抜な髪型をしている。見慣れた髪型ではないが、奇抜さゆえ記憶には残っている。
「騙されたと思って、来てみてよかったろ?」
「あたいたちの世界にいるプルートより、二十世紀(こっちのせかい)のプルートの方が聞き分けがいいや」
 三つのシルエットは、うさぎの目の前までやって来た。中央の背の高い人物が、うさぎの目の前で膝を落とした。
プルート(せつなさん)? あたしは、夢を見ているの?」
「夢じゃないわよ。ごめんね、助けに来るのが遅くなって」
 プルートはガーネット・オーブを翳した。淡い光がうさぎに降り注ぐ。体力が少しずつ戻ってくる。
「あたしには、うさぎやほたるほどの治癒能力はないけど、少しくらいならね」
 プルートは優しく微笑んだ。
「うさぎ様、助けに来ました」
「遅くなってゴメンよ。こっちの世界は勝手が分からなくってさ」
 ベスベスとジュンジュンだった。ふたりはうさぎにそう言うと、ふわりと身を翻した。ルナとアルテミスの球体の前に、身軽な動きで移動する。ふたりが球体に触れると、シャボン球が弾けるように破裂した。
「あなたたちが来てるってことは、ちびうさちゃんも来てるってことなの?」
 すぐさまルナが訊いた。
「スモール・レディはもうひとりのうさぎ様を見張ってる。今はまだ、うさぎ様がふたりいるってことは知らない。あっちのうさぎ様が本物じゃないってことには気付いてるけど」
「俺たちは単独で動いてたからさ」
プルート(せつな)のところへ行ったのは、さすがだな」
「キングの支持だけどね」
 ベスベスが照れたように笑った。
「状況はどうなっているんだ? うさぎがいなくなったことに、本当に誰も気付いていないのか?」
 アルテミスはプルートに詰問するような口調で訊いた。
「ごめんなさい。実はよく知らないのよ………。この子たちが突然現れて、うさぎを捜してくれって言うから、うさきの“気”をトレースしてこの疑似空間に来たから」
 プルートは、すまなそうに言った。プルート自身、この場にうさぎがいることの方が驚きなのだ。状況を全て理解した上で、救出に来たわけではないのだ。
「あんまり、のんびりもしていられないようです」
 別の声が聞こえた。空間が揺らぎ、中からサターンが姿を現す。プルートの移動した軌跡を辿って来たようだった。
「驚いたわ! うさぎさんがいるなんて………。あたしはてっきり、ルナとアルテミスを助けに行ったもんだとばかり思ってたから………」
 サターンは驚きに目をしばたたかせる。大きな瞳が、より一層大きくなっていた。
サターン(ほたる)は、少しは状況を知ってそうだな」
「ええ………」
 驚きも覚めやらぬまま、サターンは自分が知っている限りの情報を皆に話して聞かせた。日曜日の行動のことも、レイから連絡を受けたので知っていた。
「衛が何かをする気なのか………。レイと美奈、亜美とまことの間に生じている亀裂もヤバイな」
「ええ、早く戻った方がいいわね」
 アルテミスとルナの相談に、サターンが割り込んできた。
「ところで、もうひとりのうさぎさんは何者名の? 誰かが変装しているの?」
「クローンよ」
 ルナが答えた。
「クローン!?」
 信じられないと言った風に、プルート、サターン、ジュンジュン、ベスベスの四人が声を揃えた。
「誰が何の目的で、うさぎちゃんのクローンを作ったのかは分からないわ。だけど、クローンのうさぎちゃんの目的は分かっているわ」
「彼女は何をしようとしているの?」
 訊いてきたのはプルートだった。声が少しばかり上擦っていた。
「彼女は銀水晶の力を使って、全人類を消滅させる気でいるわ。そして、衛さんとふたりだけで、新たな世界を築こうとしている」
「そりゃ、無茶苦茶だ!」
 ジュンジュンが大仰に驚いて見せた。
「だから、すぐに戻らなくちゃいけないわ」
 うさぎが立ち上がった。機転を利かせたサターンが、うさぎの体力を一気に快復させてくれたからだ。
「有栖川公園に急ぎましょう」
「いえ、待って。その前に、あたしの家に寄って」
 サターンが勢い込んで言うと、うさぎがその意気込みに水を差すように言った。全員が何故だろうと目を向けると、
「とにかく、服が着たいわ」
 握り拳を作りながら力説した。
 うさぎは全裸だったのである。