『藤田家のたさい』外伝

柏木家の幸せ〜幸せへの前奏曲(プレリュード)〜
第二章 私の大切な人


 耕一は真っ暗な空間の中にいた。  上も下もない、どこがどこだかよくわからない空間だった。  彼はその中で必死になって走っていた。  いや、走っているのかさえわからないが、とにかく何かから必死で逃げていた。  耕一を追いかけていたのは、声だった。 「地獄に堕ちろ――、地獄に堕ちろ――」 「うるさい! 一体なんなんだ、誰なんだ、お前は!」  耕一は必死になってその声から逃れようとしたが、逃げた先には別のものが彼 を待っていた。 「うっ」  耕一の目の前には全身を無惨に切り刻まれた死体があった。  耕一は、口を押さえながらあわてて目を逸らしたが、その先には、別の光景が あった。  自分の子供であろう男の子の上に覆い被さって、その子を必死でかばう女性を 後ろから二人そろって刀で串刺しにしている鎧武者の姿だった。 「な、なんてことを……」  そのあとにも、次から次にと凄惨な光景が表れては消えた。 「やめろ。やめろ。やめろ――――!! あれ……ここは?」   耕一の叫びが止んだあとには、あたりの暗闇は晴れ、広大な平原が広がってい た。  だが、その平原は耕一にさらなる衝撃を与えた。 そこは戦場だった。多くの人間の死体が横たわっていた。 「ひどい……」  耕一はその場から逃れるように平原を歩いたが、妙なことに気づいた。  死体には銃や爆発で死んだ形跡がなく、刀で斬り殺されたような痕しかなかっ たのだ。 「ここは現代ではないのか?」  耕一が立ち止まって考え込んでいると、目の前に一人の男が現れた。 「はっお前は!」  その男は先ほど母子を虐殺した武者だった。  耕一は武者をにらみながらわずかに後ずさった。  その瞬間、武者は手にした刀を振り上げた。  耕一はとっさに手を挙げて体をかばった。 「ん……?」  しかし、衝撃は来なかった。  代わりに目の前には、刀を振り下ろした武者と切り裂かれた男の死体があった。  耕一が呆然としていると、武者は遠くでよろよろと歩いている子供を見て、ニ ヤリと笑った。 「貴様、まさか! 子供だぞ、やめろ!」  耕一は武者に飛びかかったが、その瞬間武者は消え、あたりの様子も変わった。 「一体、どういうことなんだ?」  耕一は荘厳で華麗で巨大な部屋の中にいた。  呆然とあたりを見回した耕一は部屋の隅の光景に気づいた。  その光景を見た耕一は、急いでそこに走っていった。  そこでは先ほどの武者が、四人の女性を追いつめていた。  その様子を見た耕一の脳裏に、一つの文章が浮かんだ。  ――この女性たちを死なせてはいけない。  その言葉に従い、耕一は男と女性たちの間に割って入った。 「やめろ! もうこれ以上、貴様に人の命を奪わせないぞ!」  だが武者は耕一を無視して、ゆっくりと刀を振り上げた。 「くそっ」  耕一は今度は目を逸らさずに女性たちをかばった。  刀が耕一に当たった瞬間、異様な衝撃が手に響いた。 「え? ま、まさか!」  気がつくと、耕一は鎧を着込み、刀を握っていた。  その刀からは血が滴れ落ちており、血の池を作っていた。  さらに耕一の目の前には、先ほどの女性たちが血の池に倒れていた。 「これは……? そそ、そんな!」  呆然とする耕一の目には、その女性たちの顔が徐々に変化していく様子が映っ た。  しかもその顔は見知った顔、千鶴、梓、楓、初音であった。  信じられない光景に耕一は呆然としたが、やがてがっくりと血の池に膝をつき、 がたがたと震えだした。 「ばかな、俺が、俺がみんなを、殺したのか? う、うそだ! 誰か、うそだと、 うそだと言ってくれぇ……」  哀しみが深いほど、人は声を出さずに涙を流すという。  耕一もよろよろと千鶴たちの側に行き、彼女たちの体を抱きしめながら声を立 てずに泣き続けた。 「誰か、誰か、みんなを助けてくれ。頼む。頼むから……」 「初音ちゃん、梓、楓ちゃん、千鶴さん、みんな、生き返ってくれ……ん?」  気がつくと、耕一は自分の部屋にいた。  窓の外からは、もう夕日が射し込んでいた。 「夢? 夢、だったのか? よかった……でも、またあの夢か……」  耕一はゆっくりと立ち上がった。  そのとき耕一の体から何かが落ちた。 「これは、タオルケットだよな。梓か初音ちゃんがかけてくれたのかな? お礼、 言わないと」  耕一は寝起きでふらふらする体を支えながら、部屋を出た。  顔を洗った耕一は台所で夕食の準備をしている梓に声をかけた。 「梓、あの」 「あ、耕一、おはよ」  梓は用事をしながら答えた。 「一体どうしたんだ? お昼も食べに来ないで寝てるなんて……ど、どうしたん だよ、その顔!」 「え?」 「『え?』じゃないよ! ものすごくやつれて、やっぱり病気なんだろ。早く医 者に診てもらえよ!」 「……うん、わかった。明日になっても治ってなかったら病院に行ってくる」 「明日じゃなくて、今行けよ!」 「大丈夫だって、俺は体の丈夫さだけが取り柄なんだから。明日になれば治って るって」  梓はさらに何か言おうとしたが、途中で言うのを止めた。 「わかったよ、じゃあ今夜は消化のいい物作ってやるから。もうおとなしく部屋 で寝てろ」 「ああ、サンキュ」  耕一は台所を出ていこうとしたが、途中で用事に気づいた。 「そうだ、梓。おまえ、部屋で寝ていた俺にタオルをかけてくれたか?」 「いや、あたしが部屋に行ったときはもうかけてあったよ。たぶん、初音だろ」 「そっか。邪魔したな」  耕一は居間でテレビを見ている初音の所に行った。 「初音ちゃん、部屋で寝ていた俺にタオルかけてくれたのって君?」 「ううん、違うよ。え? なに、お兄ちゃんその顔!」 「いや、その……大丈夫だよ」  耕一は、ばつが悪そうな顔をした。 「大丈夫なわけないよ。早く病院に行かなきゃ!」 「さっき梓にも言ったんだけど、大丈夫。俺は体は頑丈にできてるんだから。明 日になっても治ってなかったらちゃんと病院に行くから」 「うー。でも……」 「大丈夫だって」 「そう、わかったよ。でも、本当に明日になっても治ってなかったら絶対、病院 に行ってね」 「うん、わかったよ」 「それから、お兄ちゃんにタオルをかけてくれたのって、たぶん楓お姉ちゃんだ よ」 「楓ちゃんが?」 「うん、たぶんそうだよ。だから、ちゃんとお礼言ってあげて。きっと喜ぶから」 「そう、教えてくれてありがとう、初音ちゃん」  耕一は初音に言われた通り、楓の部屋に行き戸を叩いた。 「楓ちゃん、耕一だけど、ちょっといいかな?」  だが、部屋からはなんの返事もなかった。  もう一度耕一は部屋に声をかけたが、やはり返事がないので部屋をあとにしよ うとした。  そのとき、部屋の戸が開き楓が耕一の方を見た。 「楓ちゃん、あのちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」  楓はこくりとうなずいた。 「俺が部屋で寝ていたときに、俺にタオルかけてくれたのって楓ちゃんなの?」  楓は驚いたような顔をしたが、ゆっくりとうなずいた。 「そう、ありがとう」  だが楓は、耕一の顔を少し怒ったような顔をしてじっと見ていた。  その視線に気づいた耕一は、 「もしかして、俺の顔色、心配してくれてるの?」  と、尋ねた。  楓が小さくうなずいたのを見た耕一は、にっこりと笑った。 「ありがとう、楓ちゃん。梓にも初音ちゃんにも言ったけど大丈夫だよ。心配か けてごめんね。でも、なんかうれしいな。ほんとのこと言うとさ、俺、楓ちゃん に嫌われてるんじゃないかって思ってたんだ。でも、今日のことで安心した。楓 ちゃん、俺が寝ているときに風邪引かないようにってタオルをかけてくれたり、 俺の顔色を心配してくれたり。ほんとよかったよ、楓ちゃんに嫌われてなくって」  だが、耕一の言葉を聞いた楓が表情をわずかに曇らせたのに、耕一は気づかな かった。 「じゃあね、楓ちゃん」  耕一は楓に別れを告げると、部屋に戻っていった。  耕一が廊下の角を曲がったのを見た楓は、自分の体をぎゅっと抱きしめ、肩を 震わせてぽろぽろと涙を流した。 「もうだめ。これ以上耕一さんを遠ざけるのに、誤解されるのにたえきれない。 たえられない……」  そのとき、耕一が曲がった角からどさっという音がした。  楓があわててその音がした所へ行くと、耕一が倒れていた。 「耕一さん?」  楓は耕一を揺らしたが、耕一はまったく起きなかった。しかもひどく呼吸が激 しかった。 「耕一さん、耕一さん! ……そんな、姉さん! 初音! 耕一さんが、耕一さ んが!!」  耕一が倒れた、ということはすぐに千鶴にも連絡され、彼女は仕事を切り上げ て帰ってきた。  千鶴が帰ってきたとき、耕一は部屋で寝かされていた。  梓たちは布団の周りに座り、心配そうに耕一を見ていた。 「どうなの、耕一さんの様子は?」  だが、誰も答えなかった。その沈黙が全てを物語っていた。  やがて、楓が話しだした。 「お医者様に診てもらったんですけど、どこにも異常はないんだそうです」 「何言ってんだあのやぶ医者! 現に耕一はこうして苦しんでるじゃないか!  顔色もこんなにひどくて、ひどい汗で、どこに異常がないって言うんだ!」  さらに怒鳴ろうとする梓を千鶴が制した。 「そう、医学的な異常はないの。ん? これは、もしかして」 「どうしたんですか、姉さん」  千鶴は耕一の首を見て何かに気づいた。 「梓、手伝って。耕一さんの服を脱がせるのよ」 「な、なんで?」 「いいから早く!」  千鶴に怒鳴られた梓は、千鶴と協力して耕一のシャツを脱がせると、彼をうつ ぶせにした。 「何、これ?」  耕一の背中には、黒い影のようなあざができていた。 「耕一お兄ちゃんにこんなあざ、なかったよね」 「ええ、なかったわ」 「ということは姉さん、やはり」 「やはり、おじさまの遺言は現実のものになってしまったのね……」  千鶴と楓はうなずき合った。 「千鶴姉、どういうことだよ。おじさんの遺言ってなんなんだよ」  梓に問われた千鶴は、梓を見た。  その目は鋭く、哀しかった。 「おじさまがね、以前から私と楓に話してくれていたことがあるの。結果的にそ れが遺言になってしまった、というわけ」 「で、遺言の内容は?」 「『千鶴、楓、私が死んだら、息子を、耕一を隆山に呼んでくれないか。そして、 それとなくあいつを見張っていてほしい。耕一に何も起きなければ、それでいい んだが、おそらくあいつの体に異常が起きるはずだ。それはおそらく医者では治 せない。万が一そうなったら、お前たち四人で耕一を救ってやってくれないか』 ……こういう内容だったわ」  千鶴の告白に、梓と初音はしばらく言葉を失った。  やがて、初音が千鶴に話しかけた。 「おじさまはこうなることを予測していたって言うの? じゃあお兄ちゃんがこ うなった原因は何。おじさま、言ってたんじゃないの?」 「原因は、エルクゥの亡霊が耕一さんにとりついたことだと思うわ。目的はおそ らく、耕一さんへの復讐ね」  千鶴の言葉に梓と初音は目を丸くした。 「ぼうれい? 亡霊ってあの幽霊のこと?」 「そう。おそらく、いえ間違いなく奴らの仕業ね」 「そんなばかな、亡霊なんて。じゃあエルクゥってのはなんなんだよ、千鶴姉」 「五百年前、地球にやってきた宇宙人。地球人からは鬼と呼ばれてるわ。そして 私たち、柏木家の祖先」  今まで困ったような顔をしていた梓も、さすがにこの言葉には驚いた。 「ちょ、ちょっと待てよ。じゃあ何か? あたしたちの祖先が宇宙人、というこ とは、あたしたちも――」 「そう、純粋な地球人じゃありません」  今まで黙っていた楓が千鶴にかわって答えた。 「信じる、信じないは姉さんの自由。しかし現実として私たちの祖先はエルクゥ。 そして、耕一さんの命が危ないということも」  楓の言葉には有無を言わせぬ迫力があった。  その迫力に梓は圧倒された。 「なるほど。楓、あんたの言葉を聞いてると、その通りのような気がしてきた。 でも、宇宙人か……あ、なるほど、千鶴姉の地球人離れした味覚と家事音痴はそ のためか! なるほど、そうだったのか! なあ初音?」  だが初音はそれに答えず、目線で梓に千鶴の方を見るように促した。  梓はおそるおそる千鶴の方を見た。 「……何か言った? 梓ちゃん?」 「いえ、何も……」  気まずい沈黙があたりを包んだ。  その雰囲気を壊そうと初音が声を出した。 「あ、あのお姉ちゃん。さっき、わたしたち四人でお兄ちゃんを助けるって言っ たよね、どういうこと? それに、復讐っていうのは?」  千鶴と楓は初音の言葉にびくっと体を震わせると、とても哀しそうな目で梓と 初音を見た。 「耕一さんを助ける方法はおそらくひとつだけ。私たち四人の力を合わせること。 それには梓、初音、あなたたちが自分の持つエルクゥの、鬼の血を呼び覚ましそ の力に目覚めることが必要なの」 「鬼の血? そんなことできるの?」  千鶴と楓はこくりとうなずいた。 「でもそれのどこが問題なの? お姉ちゃんたちってその鬼の血っていうのに目 覚めてるんだよね。二人の様子を見ていると、力に目覚めると何かありそうに思 えるんだけど……」  初音の問いに千鶴はゆっくりと首を横に振った。 「鬼の力に目覚めることは大した問題じゃないの。私と楓を見てもわかるように、 目覚めても変化はこれといってないわ。それよりも、問題は記憶」 「記憶?」 「そう、記憶。鬼の力に目覚めると、あなたたちのエルクゥとしての、前世の記 憶がよみがえるの。それは、とても哀しくて辛い記憶。おそらく後悔することに なるわ。記憶なんてよみがえらない方がよかった、と思えるほどね」  梓と初音は互いに顔を見合わせたあと、しっかりとうなずいた。 「お姉ちゃん、わたしやるよ。力、目覚めさせて!」 「あたしもいいぜ、やってくれ千鶴姉!」 「…………」  だが、千鶴は何も答えずしばらく黙っていた。  千鶴は何かを考えているようだった。  梓は再び千鶴に声をかけた。 「千鶴姉、さっさとやってくれってば」 「……だめよ」  唐突に放たれた千鶴のその言葉に、一瞬にして梓の顔がけわしくなった。 「千鶴姉。それ、どういう意味だよ」 「そのままの意味よ」 「そのままって、あたしたちの記憶がよみがえらないと、耕一は助けられないん じゃないのか?」 「そうよ」 「じゃあ、どうして!」 「簡単なことよ。私はあなたたちの保護者なのよ。つまり、誰よりもあなたたち のことを考えなくちゃいけないの。あなたたちの幸せを考えなくちゃいけないの」 「それとこれと、一体なんの関係があるんだよ」 「だから、他人である耕一さんの命を助けるために、大切な妹であるあなたたち に辛い思いをさせるわけにはいかないわ」 「なんだって!」 「エルクゥの記憶が目覚めるのは、本当に辛いことなの。中途半端な気持ちじゃ、 あの記憶にはたえられないわ。いくら従兄妹だといっても、しょせん耕一さんは 他人。耕一さんよりも私はあなたたちの方が大切なの。だから、あなたたちに辛 い思いをさせてまで、耕一さんを助けようとは思わ――」  パシ――ン!  部屋に乾いた音が響いた。  梓が千鶴の頬をぶった音だった。  頬をぶたれた千鶴は、梓を冷たい目でまっすぐに見つめた。  梓もわずかに目に涙を浮かべて千鶴を見つめた。 「いいかげんにしろよ、千鶴姉。いつからそんなに冷たい人間になったんだ。わ かった、もう頼まない」  梓は楓の肩をつかんだ。 「楓だってできるんだろ? あたしたちの記憶をよみがえらせること。やってく れ!」 「だめよ、楓!」 「千鶴姉は黙ってろ! これはあたしの意志でやるんだ!」 「やめなさい、後悔するわよ。しょせん耕一さんは他人なのよ」 「違うよ!!」  今まで黙って千鶴と梓の言い合いを聞いていた初音が、大声を出した。  千鶴たちは、はっとして初音を見た。 「違うよ。耕一お兄ちゃんは他人なんかじゃないよ。わたしにとって、とっても 大切な人だよ。とっても、大切な、人だよ」 「初音……」 「昔、耕一お兄ちゃんは、お兄ちゃんが欲しかったわたしのお兄ちゃんになって くれた。わたしが『わたしのお兄ちゃんになって、ずうっといっしょにいてくれ る? わたしが危なくなったら助けてくれる?』って聞いたら笑顔で『うん』っ て言ってくれた。そのとき、すごくうれしかったんだ。それから、わたしはなる べく、お兄ちゃんといっしょにいようとした。お兄ちゃんと梓お姉ちゃんが遊び に出かけたときも、無理について行ったりして。迷惑だったと思うよ。でもお兄 ちゃんは嫌な顔一つせずわたしにかまってくれた。わたしが転んだりしたら、す ぐに起こしに来てくれた。誰も見てないときでも、お兄ちゃんだけはずっとわた しを見ていてくれた。お兄ちゃんは、わたしとの約束をずっと守ってくれてた。 小さな子供とした約束を、一生懸命にお兄ちゃんは守ってくれた」  初音は、耕一を見た。 「わたしをずっと守ってくれてた人、そんなお兄ちゃんが今は苦しんでる。助け を必要としてる。だから、わたしはお兄ちゃんを助けたい。だって耕一お兄ちゃ ん、ううん、柏木耕一さんはわたしにとって世界で一番大切な人なんだもん。お 兄ちゃんが死んじゃうより嫌なことなんてないよ!」  初音の目には強い意志が感じられた。  そんな初音の頭に、梓が笑いながら手を置いた。 「よく言ったよ初音。まったく、あんな恥ずかしいせりふを堂々と。でも、あた しだって気持ちはいっしょだ。あたしにとって耕一は、絶対に他人なんかじゃな いんだ!」 「梓……」 「昔から耕一が隆山にいるときは、ずっとあたしといっしょだった。どこへ行く のもいっしょだった。楽しかった、本当に楽しかった。他の男の子とも遊んだこ とはあったけど、耕一といるときより楽しいときなんて絶対なかった。それがな ぜなのか、そのときは全然わからなかった。それがやっとわかったのは、耕一が 隆山に来なくなってからだった。あたしもしばらくは残念だな、程度にしか思わ なかった。だけど、だんだん、だんだん、無性に耕一に会いたくなった。会いた くて会いたくて、しようがなくなっていった。耕一に会わせてくれるように何度 おじさんに頼もうと思ったか。そのときやっとわかったんだ。こいつは、耕一は、 昔っからあたしの心の、一番大切な所に居座っていたんだって。しかも、いつま でたっても耕一はあたしの心から出ていこうとしなかった。それをうっとうしく 感じることもあったけど、今はそのことがとってもうれしいんだ。こいつのこと を考えると、心が気持ちよくなる。心の中が温かくなるんだ」  梓も初音と同じように耕一を見た。 「今までも、そしてこれからも、あたしにこんな感情を抱かせる男は耕一だけだ。 だから、耕一を助けたい。絶対、助けるんだ! 辛い記憶なんか、耕一が死ぬこ とに比べたらなんでもない。千鶴姉が何と言おうと、あたしは耕一を助ける!」  梓の目に迷いはなかった。 「梓、初音……そう、わかったわ。あなたたちの記憶と力、よみがえらせてあげ る」 「千鶴姉、本当か?」 「ええ、本当よ。さっきのあなたたちのその気持ちなら、あの記憶にもたえられ ると思うわ。耕一さんのことを想う、その気持ちなら」  先ほどの冷たい雰囲気から一転、千鶴は穏やかな口調で話しだした。 「千鶴姉、もしかしてさっきはわざと……」  梓が話しかけようとしたが、千鶴はその言葉を遮った。 「いいのよ、別に。言ったでしょ、あなたたちの幸せを考えるって。あなたたち が選んだこの選択が一番あなたたちの幸せにとっていいのなら、私は何も言わな いわ」 「そ、そうとは知らず、ごめん、千鶴姉。ぶったりして」 「いいわよ。じゃあいくわよ、二人とも目を閉じて」  二人は千鶴に言われた通り目を閉じた。  千鶴はまず梓と自分の額を合わせた。  五分ほどそうしたあと、初音にも同じことをした。 「お姉ちゃん、一体何をしたの?」 「あなたたちの記憶にちょっとした刺激を与えたの。脳波って知ってるでしょ、 それを利用したの」 「ふーん。でも何も変わらな――」  初音がしゃべることができたのはそこまでだった。  梓と初音は突然、頭を押さえ始めて苦しみだした。 「くく、く」 「痛い、痛いよ。頭が、頭が……」 「ごめんなさい、本来エルクゥの力と記憶は徐々によみがえるもの。それを無理 矢理よみがえらせているから、そうなるのは当然なの。でも、一分もすればよく なるわ」  千鶴の言葉通り、すぐに二人は落ち着きを取り戻した。 「はぁ、はぁ、はぁ……千鶴姉、これで終わりなのか?」 「体の痛みはね」 「体、の?」  突然、梓と初音の体が何かに打たれたように固まり、ぱたりと倒れた。  二人を見つめながら、楓がぽつりとつぶやいた。 「始まりましたね。二人の記憶が、よみがえる」  千鶴は、倒れた二人に毛布をかけながらこくりとうなずいた。 「二人ともごめんね。辛い思いをさせて……」 <つづく> 第三章へ 第一章へ 戻る