森本六爾の言葉


愛する魂よ、不滅の名なぞ獲ようとは努めるな、人の為し得る業の深奥を究めよ。

ビンダロス ビチツク第三

『考古学』第七巻第三号森本六爾追悼特集より

  六爾先生の大好きだった言葉である。自分の学績が認められなくとも、焦ってはいけないと言う自戒言葉とも受け取れる。この言葉についてのエピソードは藤森栄一氏の『かもしかみち』にある。

 


森本六爾の最後の言葉

「苦しみを克服した。....皆はそれぞれの特長に進め。僕と同じ方法を固守することはない。このことは重要だ。....その他にいうことはない。僕は楽に往生する」

 この三十二歳の、書きたい思想が胸中にいっぱいつまった学者は、たしかにそういつた。そして、顔がよくみえないからといって、眼鏡をかけさせたが、やっぱり駄目だった。ぼくのいうことはわかるか、といくども聞いた。自分には聞こえなかったのだろうか。

「藤沢君、赤い唇をしているね....藤沢君、坪井さんに逢われない」

 また、昏迷におちた。

 杉原さんがきいた。

「代々木西原での生活は短かったけれど、たのしかったですね」

「僕の、....最後の....最後らしい原稿を君にして貰った。それだけで、....東京の生活はたのしかった」

 このときはじめて、杉原さんは、はらはらと涙をおとした。

「僕は....ね。やっぱり....古代人の生活が書きたかったんだ」 森本さんは、杉原さんの目をじっと見ていたが、「君は?」ときいた。

 杉原さんは、しばらく眼をこすっていたが、「僕は、現代人の生活を書きます」と答えた。

「端的にいえばね。僕だってそうだよ」 森本さんが淋しいほほえみをもらした。

 また昏迷。

「藤森君」わりとはっきりいった。しきりに机をさすので、みると、ほこりをかぶった原稿紙があった。題だけ、「土器の尻」としてあった。

僕は最後に、死ぬ前に、自分の尻を自分の石鹸で洗って死にたい。事実も、学問も」これは非常にはっきり力の入った言葉だった。「土器における可搬性と定着性、その問題をすすめるように、それは、....文化の放浪性と定着性との問題に意味づけられる」

 私の筆記は大きな走り書とはいえ、洋紙にに四枚ある。つまり、森本さんはたくさんの、もっとたくさんのことをいいたかった。しかし、意味のとれることは、それくらいしかなかった。

 やがて、杉原さんは東京に帰ってきますから、と、別れのあいさつをした。森本さんは 「私は二人の子を残した。....東京考古学会はまだ力がある。しっかりやってくれ」

 そして、くるりと首を向うに向いて、 「皆さん、ありがとうございました....皆によろしく、わたしはうれしさでおわります」と、いわれた。

 私は何度も、森本さんの後をおがみ、そして、もう二度と見ることもないだろう、その部屋を見まわした。チャブ台の上の原稿紙、枕元のマジョリカ焼きのコーヒーポットと茶碗、そして、まったく場ちがいなほどに美しい一瓶の花が、褐色のタタミと、美しいコントラストをみせているだけだった。私たちが障子をしめようとすると、森本さんは、くるりとこっちを向いた。そして、ちいさく、にこりと笑った。

 

  森本六爾という人は、それから昏睡におちて、四時間後の十時五十五分に死んだ。

 後から、かけつけた森本一三男さんに、−−カラコ、カラコ−−と、とぎれとぎれにいった。少年の日、希望に萌えて立ったフィールドに思いが走っていったのだろうか。

藤森栄一著 『二粒の籾』より

 

解説

 森本六爾氏の臨終の様子を藤森栄一氏がまとめられたものであるが、実際の臨終の際には弟の森本一三男さんと看護婦さんと医者しかいなかったらしい。これは、六爾氏の容体がすこし好転したように見えたので、杉原氏をはじめとした弟子たちはいったん引き上げたのであるが、その後に急変がきて、弟子たちで臨終に間に合った者はいなかった。

 その後の調査で藤森栄一氏の日記などによれば、臨終直後は危険だから帰郷するようにと看護婦にいわれ、六爾先生にさよならを言って、杉原、藤森のふたりは鎌倉をあとにした。それから数時間後に六爾先生はご両親と弟の森本一三男さんとに見守られて、亡くなられたことが判明いたしました。この間の事情については資料室に 藤森栄一日記を掲載しておきましたので、推理してみてください。六爾先生のご臨終に間に合わなかった藤沢一夫さんは死後到着しました。そのときの様子はこちらに掲載してありますのであわせて、ご覧ください。

 


松本清張氏の『断碑』では以下のようになっております。 

 

「あと一週間が峠です。その峠を越すと楽になります。」

 と卓治に云った。卓治は大きく首を引いてうなずいていた。

 医者は蔭では、あと一週間の生命です、と告げた。

 Sが電報を各方面に打った。誰も来る者はなかった。

「土器に於ける可搬性と定着性の問題を進めるように。それは一方は文化に於ける放浪性と定着性の問題にもなろう」といったのが、聞きとれる最後の言葉となった。

 昭和十一年一月二十二日に息をひいた。シヅエの死から二ヶ月後であった。三十四歳。

 遺品は埃をかぶったマジョリカ焼きの茶碗と菊判四冊分の切抜きがあるだけだった。

 

 藤森氏はこの松本清張氏の記述に一番反発を感じたのであった。特に 「Sが電報を各方面に打った。誰も来る者はなかった。」というのは全く持って嘘であり、松本氏の創作であるとしている。しかし、現在では藤森氏の『二粒の籾』のほうが有名になっているので、むしろ『断碑』の方をあとに読んだという人も多いであろう。私は、最後に日本考古学界の最長老斉藤忠先生の森本六爾評をもってむすびとしたい。

 

  森本六爾は、日本の考古学上の多くの人物群の中でも、悲劇的な、しかも異彩を放った人物の一人といえる。とかく、明治・大正以来の学風の伝統の根強かった。学界に清新な風を吹き送り、つねに考古学の進むべき目標をみつめながら、逆境とたたかい、東京考古学会の旗幟のもとに、『考古学』を刊行し、溌剌とした研究をなした多才の人物でもあった。私は想う。もし森本が、奈良県の学校の教員生活に甘んじていたならば、地域考古学に活躍しながら、奈良の地に幸福な生涯をつづけていたかも知れないと。また想う。もし、彼が、期待していた東京帝室博物館に就職し生活に安定していたならば、或いは別な学問の世界におかれたかも知れないと。しかし、運命は、異なったきびしい方向に彼を走らせた。彼の性格も亦、平凡な生活から、苦難に満ちながらもやり甲斐のある人生を選ばしめた。そして経済的にも健康管理の上にも無理があり、本来の志向と異なって、移りゆき転換してゆく人の世の無情にもだえ苦しみながらも、自己のもつ学問を生かし、学者としての短い生涯を終えたのであった。

 よく、世間では、彼は官学に対する反抗的な気迫をもっていたという。しかし、私は、このようには思えない。私とのつきあいの期間は短く、私に寄せた書簡の数も少ないが、その印象や、書簡の内容で知る限り、おだやかな愛される人であった。むしろ、反抗は、自己の内面の心に対するものであり、官学とか私学とかそんな学問の関係よりも、自己の心と闘いつつ、たくましく生きた人であった。

  斉藤忠編 『森本六爾集』日本考古学選集 築地書館 より

 


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