試 乗 記 録 No.008

東日本旅客鉄道 167系快速「川崎〜奥多摩ハイキング号」 (9351M〜9354M)
川崎 ⇔ 奥多摩間  試乗日 2000年5月28日(

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 そして立川駅からは八王子支社管轄となるので、小休止の間に乗務員の交代が行われていた。 また駅構内の

案内放送では、誤乗防止の為「この列車は川崎方面には行きません!」と、頻繁に案内放送が行われていた。 

一方中央線ホームには、三鷹区の169系による「新幹線リレー号」も丁度停車していた。 この立川は7:11分の

発車で、ここから西立川までは、南武〜青梅線を直通する短絡線を走る事となる。 やがて発車時刻となりドアが

閉まると、また床下のMT54モーターが唸りを上げ出していた。

 

     車内で配られた「記念品」

 (左)JR横浜支社より配られた
    スタンプ台紙

 (右)167系アコモ車オリジナル
    「絵はがき」

 

 余談だがこの短絡線は、戦前「青梅鉄道」・「南武鉄道」と言う私鉄路線だった両線を、直接つなぐ為に建設され

た路線である。 勿論、建設目的は貨物輸送の便宜を図る為で、これで中央本線との平面交差が解消され、両線

直通の貨物列車ダイヤが、効率的に組めるようになったそうである。 しかし、貨物輸送が廃止された現在では、

殆ど走る列車も無くなった様で、これも「石の道」の跡であると言えよう。 またこう言った短絡線や貨物線など、普

段旅客列車が走らない路線を走ると言う点は、臨時列車の魅力の1つであろう。

 

 この短絡線は、中央本線と平行した築堤を登り、中央本線とオーバークロスした後、青梅線の西側を走り、西

立川駅で合流するという路線である。 丁度中央本線との交差部分では、201系電車が通過して行く所であった。 

また交差後は民家の軒下や、線路沿いに茂った草木を掠めるながら、ゆっくりと167系電車は走って行く・・・。 

まさに、それこそ「短絡線」といった風景の中を走り抜けると、やがて西立川駅に到着していた。 やはり短絡線通

過中は、先頭車には多くのファンが詰め掛けていた様であった。 さて、短絡線と本線が合流する西立川駅で少休

止し、この先はいよいよ青梅線へと、足を踏み入れる事となる。 ところで西立川といえば、石灰石輸送が華やかな

頃、立川機関区が置かれた貨物輸送の拠点であった。 しかし今では、その遺構すら確認出来なかった。

 

   (左)立川〜西立川間は短絡線を
    経由し、中央本線を乗越す。

 (右)青梅線に入ると、オレンジ色
    の電車が行き交う様になる。

 

 さてここで南武・青梅線の歴史と、石灰石輸送の歴史を軽く振り返って見よう。 そもそも青梅線は、奥多摩地区

の石灰石を、当時東京の深川にあった「浅野セメント」に輸送する為、浅野グループの援助を受けて、明治時代に

建設された「青梅鉄道」がその発端である。 当初は「軽便鉄道規格」で建設されていた同線も、輸送量の増加と、

立川での国鉄線への接続の便宜を図る関係で、早い時期に国鉄線と同じ1,067mm軌間に改軌され、電化も行

われている。 一方では、大正時代に入ると「浅野セメント」の工場自体が、新興工業地域の川崎に移転する事と

なった。 そこで浅野グループは、多摩川沿いに砂利採取を目的として建設されていた「南武鉄道」(現 南武線)に

目を付けたのである。 この南武鉄道に資本参加する事により、路線の立川延伸及び、既存施設の増強を行った

訳である。 かくして浅野グループ系鉄道による、石灰石輸送ルートが完成したのである。 更にこの時期、浅野グ

ループは「鶴見臨港鉄道」(現 鶴見線)や、五日市鉄道(現 五日市線)にも資本参加していた。 またこれらの路

線群は、いずれ「1つの鉄道会社」として合併する予定であったという。 しかし、太平洋戦争激化による事業統制

で、他の産業系地方私鉄と同様に、国鉄に強制買収される事になった。 こうして国鉄線の南武・青梅・五日市・鶴

見の各線が誕生したのである。

 

 国鉄となった同線も、戦後の復興〜高度経済成長期に突入し、石灰石の需要が急増してきた。 そして青梅〜南

武線の貨物輸送も、最盛期を迎えるのであった。 またこの頃は、多摩川上流に建設中の「小河内ダム」の建設資

材輸送も担当していた様である。 最盛期の昭和30年台は、昼夜を問わず石灰石列車が行き交う運転形態で、ど

ちらかというと、旅客輸送よりも重点が置かれていた様でもあった。 しかしその後は産業構造の変化や、道路の

整備による石灰石輸送のトラック化等により、徐々に輸送量が減少していった。 結局、JR化後の1998年夏を最

後に、長年続いた石灰石輸送に終止符が打たれたのであった。 そんな歴史を背負った南武・青梅線も、現在で

はご存知の通り、通勤・観光路線に変貌してしまっている・・・。

 

   青梅線各駅ではこんな歓迎が・・・

  (左)青梅駅  (右)御嶽駅

 

 さて、話を元に戻す事にしよう。 青梅線に入った「ハイキング号は」また快調に滑り出していた。 また天候の方

もすっかり回復し、所々に青空が見渡せる様になってきた。 ところで、立川出発時点での乗客数は約90人で、乗

車率は約37%であった。 結果から言えば、この列車の事実上の乗車率は、大体この位ではないか?と思われ

る。 まあ早朝の天候状態や、川崎6:20発という時間を差し引いても、まずまずの乗車率であった様である。

 この青梅線内は拝島・福生の両駅に停車し、奥多摩の玄関口である青梅駅に到着となった。 青梅では停車時

間(7:44〜7:52分)を利用して、青梅・奥多摩の各観光協会の方と、「ミス青梅」のお二人が挨拶がてら車内を

巡り、記念品や観光パンフレットを配っていた。 なお記念品は「167系アコモ車」の絵葉書であった。 これは中々

綺麗に書けているので、いい乗車の思い出になった様である。

 

   (左)多摩川の河岸段丘に沿い
    ゆっくり登って行く・・・。

 (右)だんだん緑豊かな車窓
    になってきた・・・。

 

 青梅を発車すると、いよいよ多摩川の河岸段丘に沿って走る、青梅線のハイライト区間である。 天気も相変わら

ず良い様で、車中で色々話をした観光協会の方の話では、「ここで天気が良ければ、1日中大丈夫だよ!」との事

である。 また今回の運転は、地元観光協会・地元自治体の、積極的な陳情により運転が実現したとの事で、また

昨年8月の「アルファ号」の運転も、同様の経緯との事であった。 個人的には、第3弾のイベント列車の企画を、

切望したい所である。

 

 そんな青梅線であるが、さすがに単線区間とあってか、早速次の宮ノ平で列車交換となった。 しばらく待つとオ

レンジ色の103系が到着し、その後こちらも発車となった。 この辺りまで来るといよいよ高度も上がり、線路も急

勾配・急曲線の険しい線形に変っていった。 床下のMT54モーターの低い回転音と、線路の軋む音が車内にも

響いてきた。 そんな走行音と風景を楽しむ内に、やがて霊峰「御嶽山」の入口にあたる御嶽駅に到着していた。 

御嶽では「アルファ」の運転の際と同じく、山伏のお出迎えがあり、「ハイキング号」と一緒に記念撮影をしたりと、

サービス精神旺盛?な様であった。

 

 この御嶽駅を発車すると、次は終点の奥多摩に到着である。 この区間は更に「急行形電車」を楽しむべく、ユニ

ットサッシの下段を全開にし、走行風と走行音を堪能する事にした。 新緑の山から吹く風は気持ちよく、またレー

ルを軋ませ登坂する列車の迫力を、間近に感じる事が出来た様である。 しばらく忘れていたのだが、「急行形電

車」の醍醐味とは、こんな所では無かろうか? としみじみ感じた。 また車窓の新緑も綺麗で、本当に乗車して良

かったと感じる瞬間でもあった。 そんな快適な時を過ごす内に、「ハイキング号」は氷川トンネルに突入していた。

このトンネルを抜けると、いよいよ奥多摩駅である。

 

   (左)奥多摩駅に到着。

 (右)奥多摩では「清流太鼓」
    の演奏に迎えられた。

 

 8:37分。 快速「川崎〜奥多摩ハイキング号」は、ゆっくりと奥多摩駅1番線に到着した。 川崎駅から2時間17

分、非常に快適な旅であった。 早速、駅前広場では勇壮な「清流太鼓」のお出迎えが始まっていた・・・。

また駅構内では、臨時のオレンジカード販売や、郵便切手の販売が行われており、ちょっとした「お祭り」といった感

じになっていた・・・。

 

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