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〜神様の願いに生きる〜(編集長)

皆様いかがお過ごしですか。
3月のお話(アナタにも伝えたい話)にて述べたものは「信心の基本」でありましたが、もちろん「信心の応用」もあります。

それは、自らの痛みを知って他の人の痛みを知ること。
痛みは人それぞれでありますが、自分自身経験した痛みは察してあげることも出来るものです。
他人のことであっても、失敗したり苦しんでいる人を見た時に、場合によって不足に思う前に助かりを祈るということになろうかと思います。

また、自分自身の経験や助かりを通じて、難儀な人を助かりに導くということがあります。
つまり自分が受けたおかげを、自分だけではとどまらせず他人に生かし現すということです。

信心の応用とは、信心の基本を踏まえた上で、人を当てにしない、不足心を持たない、祈らずにはおれない、伝えずにはおれない、導かずにはおれない、そういった生き方だと思うのです。

それには神様に心を向けて、日常生活の起こってくる出来事を神様の視点で見てみる。
ですが想い描いて下さい神様には姿形という実体がないのです。

苦しんでいる人や難儀な人を見つけても、直接手を差し伸べることは、それこそ奇跡でしかないのです。
神様であっても、いつも奇跡が起こせるわけではないのです。
その中にあっても「助けてやってくれ、生かしてやってくれ。」と祈り願って下されている。

逆に人間には姿形という実体がある。
それこそ苦しんでいる人や難儀な人を見た時にでも、心次第で助ける手を差し伸べることが出来るのです。
しかし、人間には損得勘定や楽をしたいという我欲が人助けをじゃますることが多いのです。

そんな状況の中で神様はどういう願い祈りで人間に声なき声で語りかけているのでしょう。
その神様の声というか願いを察したときに人間はどういう生き方をするのでしょうか。

人により様々ではありましょうが、神様の願いを受け入れる生き方もあると思うのです。
そうした神様の願いを受け入れてくれた人のためなら、神様は持てる力を合わせて下さり奇跡も起こるのではないでしょうか。
それは神様の役目に使って頂き、願いに生きることになるのだと思うのです。

金光教では「人を一人助ければ一人の神。十人を助ければ十人の神である。」と教え、「生神(いきがみ)」とは「ここに神が生まれることを生神というのぞ。」と教えて下されてあります。

神様は離れたところにいるのではないのです。
自分たちと共にあって悩み苦しみ、幸せや助かりを願って下されているのです。

特別な変わったことをしたり、奇跡を起こすようなことが金光教の生神ではありません。
普通の人間として自分の助かりだけでなく、ささやかであっても周りにいる人たちの幸せや助かりも共に祈っていく「神心(かみごころ)」を自分の心に持つことが、神様が生まれる元でもあり人間として大切だと考えるのです。

「信心の応用」とは、そのような神様と力を合わせていける心になれるようにさせて頂くことだと思います。


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