いよいよ、春を迎え厳しかった冬の寒さから解きほぐされて、春の野山は色とりどりの花が咲き乱れ、草木は芽吹き、天地の息吹を実感しつつ、私ども人間もまた天地の中に生かされて生きているのであります。
四月は、金光教では天地金乃神大祭月であります。ご本部広前のご大祭に始まり、その御比礼を地方では頂いて、金光様のご祈念の中でお仕えさせて頂くのであります。
私どもは自覚するしないにかかわらず、神様のお働き、金光様のお祈りを受けておかげであらゆることが出来ているのであり、自分の力で出来たというものは何一つとしてありません。
そのことに気づかせてもらい、お礼を申し上げるのがご大祭であろうかと思います。
四代金光様は「何事もおかげの中でのことでありますから、お礼が大事であります」とみ教えになっておられます。
さて、お礼を申すということですが、とかくこのお礼の思い違い取り違いをしておられる方が多いのではないでしょうか。
金光教のお礼は、他宗教のように物や金をお礼にお供えしなさいと申しているのではないのです。
「物や金ではおかげの元にはならない」と教祖様はみ教えになっておられます。
神様のお礼ということは、どんな時でもおかげを頂いていることに
気づいて、有り難い、勿体ない、恐れ多いという、物金に変えられない、感謝の心とでも申しましょうか、そういう心なのであります。
親神様のご大祭をお仕えするということは、日々生命を頂き生かされておることに感謝申し上げずにはおられないという心になって、参拝して仕事に恵まれていること、仕事が出来ること、健康でいられること、病気の中でも生かされていること、などなど数え上げれば切りのないほどの、おかげを頂いているものです。
そこでこのおかげを頂いている身体をもって、神様のご用に使うて頂くのであります。
神様のご用とは、お祭り前の諸準備を始め、参拝、直会、片付けなど何か一つでも身体を神様に使うて頂きたいという心が、結集されて神様がお慶びになられるご大祭となり、それが教祖様がみ教え下されてある「神に仕えたことは神はただ取りはしない、何増倍にもしてかえしてあるぞ」と申され「一日損をしたように思うけれども神様は直ぐに取り返してやる」ともみ教えになっておられます。
有り難いことであります。
どうか皆様、真心を尽くし天地金乃神様に喜ばれるおかげを共々に頂かせてもらいましょう。
(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより4月号」より)