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─ 1月のお話 ─

心のふれあい

「年頭にあたりて思うこと」

 どなた様にも、明けましておめでとうございます。

 昨年は、土佐高岡教会が初代教会長野村トヨ親先生が高岡に布教されて六十年のお年柄でありました。

 おかげを蒙り記念大祭も麗しくお仕えできてそれそれに大みかげを蒙らせて頂きありがたいことでありました。

 ここに新しき新春を共々にお迎えできましたことを心からお慶びを申し上げます。

 新しき年を迎えて改めて、ここからの展開のおかげを蒙って参りたいと思います。

 信心と申しますと一般的には窮屈なもの、年寄りがするもの、困ったときにするもの、と言うように信心を決めつけているのではないでしょうか。

 実は信心はそんなに狭い考えのものではありません。

 他宗教の事はよくは知りませんが、金光教の信心だけでみれば、決して窮屈なものでも年寄りがするものでも、困ったときだけにするものでもありません。

 窮屈なものでないと言われても教えがある以上それに従わなければ死んで後に地獄落ちるとか、罰が当たるとかよく言うではないか申す人もありますが、金光教にはそんな狭い考えの教えはありません。

 かえって世間のしがらみや、迷信的な教えから、人間を広く深い神様の世界に解放してくれるのが金光教なのです。

 神様は信心するしないに関わらずこの天地宇宙の中に命あるすべてのものが、自分の意志に関わらずに生かされて生きているのであります。

 信心をさせて貰うということは、意識しなくても生かされてある命に目覚て天地宇宙に感謝して生きて行くのが信心なので、いくら上手に拝んだりお唱えを上げたからと言うても信心しているとは金光教では言わないのです。

 金光教祖様は

「拝み信心をするな真でなければおかげは受けられない」

「金光大神は一度も神様を拝めとも拍手せよとも教えた事はないぞ、ただ一つ真の信心をせよと教えたのである」

と金光様、何を分かってほしいと教えられたかと申しますと、天地の道理を分かってほしい、天地の道理に沿った行き方をしてほしいと願がわれているのであります。

 この願を端的に現された教えが、四代金光様の

「世話になるすべてに礼をいふこころ」

だと思います。

 私共はとかく自分の力や能力で生きているかのように思い自分勝手に生きておりますが、よくよく考えて頂きたいことは、どんな方でもまずは天地にお世話にならなければ、生きられないということ、そして、親子の繋がりがあって、人と人との繋がりがあって国と国との繋がりがあって、皆があいよかけよで繋がりあって立ち行くのであります。

 だれにも世話にならずに生きられる人は存在しないのです。

 ここに気が付き何事にもお礼と感謝の心で生きて行くのが信心の世界であり、先に申し上げましたように、信心とは決して窮屈なもので年寄りがするもので、困ったときだけするものでもないのです。

 実はすべての人間が信心生活をさせてもらうことが、人間本来の行き方なのです。

 おかげがあるかないかでするものでもありません。

 この世に生まれた人は皆信心して当たり前なのです。

 この当たり前のことが当たり前になっていないので、今日の社会のように親が子を殺し、子が親を殺し、子供達はもとより大人の世界にも人をいじめたり差別したりと言う本来人間の持ってはならない心を出しているのが今日の社会であります。

 私共金光教の信奉者はこのことに気づかずにおられる方々に、人間は皆心の中に可愛いと言う神心があることを気づいてほしいと日々願って参りたいと思います。

 どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより1月号」より)

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