─ 1月のお話 ─
心のふれあい
「新年を迎えて思うこと」
明けましておめでとうございます。 ここに、新しい年を迎え本当に有り難いことに思います。 年を段々取って参りますと、若い時には考えもしなかったことを、有り難く感じてお礼を申さずにはおられません。 朝、目が覚めると、若いときは目が覚めることが不足に思えたりしたものですが、年を取って参りますと目が覚めることが有り難くなってまいります。 四代金光様のお歌に、 「賜びしいのちあるありて 今日もめざめたりめざめしことは ありがたきかな」 「めざめねば 今日一日の生涯は われにあらずと かしこみ思ふ」 とお読みになっておられますが、この年になって、ようやくこの金光様の読まれたる御心が少し分かったように思われます。 命の目覚めがなければ、今日の一日が始まりませんし、辛いことも楽しいこともすべてがないのです。 どんなに辛いことであっても目が覚めて命があって始めて辛いと思えるのであります。 辛いと思えることに命のお礼を申さねばなりません。 お礼を申すことにより、また楽しみなこともあるのです。 私は腎不全により人工透析を週に三回病院に行き、四時間の透析を受けなければ生きてゆけません。 人は週に三回も透析を受けて大変ですねと言って下さいますが、私も始めはそのようにも思っておりましたが、今は本当に有り難いことだと思っております。 昔であればとうに死んでいるところを今は透析によりこのように生かされているのであります。 昔は腎不全ともなれば「金の切れ目が命の切れ目」と言われたものでありますから今は本当に有り難く感謝しても辛いなどと言うては相済まないことに思われます。 辛いこと、悲しいこと、苦しいことなどありましても、また楽しい、幸せなことも沢山あるものです。 神様は「天地のなさることに無駄事はない」と申されております。 よくよく考えてみますと、確かに命を頂いていれば悪い日ばかりはありません。 心ひとつで、いくらでも楽しい日のあることを金光様は「和らぎ喜ぶ心」と申されて「和賀心」になることをみ教え下されました。 今年もいろいろな辛いことも、悲しいことも苦しいこともあると思われますが、天地の神様の「天地のなさることに無駄事はない」との思し召し頂き、「世話になるすべてに礼をいふこころ」を生活の全面にわたって信心の土台としての「人を助けて、神にならせてもらうがよい」との御神願成就のお役に立つおかげを蒙らせて頂きましょう。 (金光教土佐高岡教会「本誌教会だより1月号」より)
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