金光教祖様は、ある方に
「そうそう遠方から参ってこなくても、わが家で拝んでもおかげは受けられる」
とみ教えになっておられますが、信心は何事も神様に素直が大事とは申しますが、中には、み教えに素直になっておかげをおとすことがあります。
このみ教えを、
「『そうそう参ってこいでもよい家で拝んでもおかげを下さる』と言うのか、有り難い」
と思うては、逆におかげをおとすことになるのです。
また私共も御用させて頂く時に、なるだけ若い方などには特に再々参ってきなさいなどと言えば、それだけで信心を毛嫌いして、助かる者も助からないようになってしまうと思い。
また、せっかく御縁を頂いたのに信心そのものを止めてしまえばせっかくのおかげの道も切れてしまうと思い、そう申すことがよくあります。
ですが、本当におかげを受けたければ、毎日日参に勤め、み教えを頂き、馬鹿になり阿呆になって、信心辛抱させてもらうしか、おかげを受けるこつはないのです。
信心の世界には、世間の常識では考えられないことがいくらでも起こってまいります。
世間の常識では「1+1=2」となりますが、信心の世界では「1+1=10」にも「=100」にもなるからです。
それには、忙しいからとか、都合が悪かったからと言うことでは、このおかげは受けられません。
どんな時でも神様を一位に立てて人から
「アンタは教会の先生に騙されておるのではないか」
と言われても、そこで信心がふらつくようでは、まだまだ一心ではないのです。
先に申しましたように、先生から
「参ってこいでもよいから、家で神様に一心にお願いしなさい」
と言われても、または
「もう貴方みたいな者は参って来るな」
と叱られようとも、そこで怯むようでは、おかげは受けられません。
先生から参って来るなと言われようと、神様から参って来るなと言われようとも『おかげ』を受けずに引き下がってなるものか。
と言うぐらいの気構えが信心にはいるのです。
それには、信心辛抱しかないのです。
自分で辛抱をしたりするから、くたびれたり、嫌になったりするのです。
何事も自分がするのではなく、信心も辛抱もおかげでさせてもらうのでなければ続きません。
参拝もそうです。おかげでお引き寄せを頂くのです。
一切をおかげでさせて頂くという心が大切です。おかげを頂きましょう。
(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより7月号」より)