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ー 6月のお話 ー

心のふれあい

「生かされてある」

 人間、生きるということが重要になるのですが、そうなると必然的に、なぜ人間は生きているのかという問題に出会うと思うのです。

 人によってその答えもまちまちであり、これが答えというのも無いのであります。

 要は大切なもののために生きるというのが大まかな答えなのでしょう。

 それは自分の夢や希望・思想を叶えるために生きる。

 他人ことさら家族のために生きる。

 会社や組織のために生きる。

 どれも人それぞれ価値や判断に違いがあるので、何が優れているということは言えないのですが、信心している人の中には、神様のために生きるというのもあっていいのではと思うのです。

 それは何故かというと先に述べたような生きるということは、揺れ動くあやふやなものを根本にした生きることだと思うからです。

 では神様のために生きるとは他と違うのでしょうか。

 それは、ただ個人の信条という意味ではないのです。

 この問題の根本に関わることですが、人間は生きる前に生かされてあることがあるという思いなのです。

 すなわち、何によって人間は生まれ生かされているのかという問題になるのです。

 金光教の御教えの中に

 「人間はみな天地金乃神から人体を受け、霊を分けていただき、日々天地の調えてくださる食物をいただいて命をつないでいる。昔から、天は父、地は母というであろう。天地金乃神は人間の親である。信心する者は、一生死なない父母に巡り会い、おかげを受けていくのである。」

 とあります。

 つまり神様のために生きるとは、いわば揺るぎなく生死すらも超えての親神様への御礼、それは親神様孝行だと思うのです。

 そうすれば、物の見方、考え方、思い方が、定まってくると思うのです。

 大事なのは親神様の喜ばれる自らの生き方を求めることです。

(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより6月号」より)

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