天地の間に生きるものすべてが、天地の働きを受けとおしに受けて、生かされているのであります。
この生かされて生きる生き方こそが、信心であるともいえるかと思います。
では生かされて生きる生き方とは、どんな生き方をいうのでありましょうか。
これは信心の初歩であると同時に又、信心の究極でもあるのです。
天地の間で生きるすべての物が、自力で生きているというものは一つとしてないのです。
どんな物も、何かと関わり合って生かされているのであります。
それは動物であれ植物であれ、いや微菌や微生物に至るまでもそうなのです。
このことに気づかされることが信心の第一歩であります。
このことに気がつきますと、すべてお世話にならねば生きられないことが判り、判れば感謝しお礼を申さずにはおれないと思うものであります。
この生き方が信心なのであります。
このことを四代金光様が「世話になるすべてに礼をいふこころ」とお示し下さったのであります。
信心の究極であるというのは、判っていてもこれが本当にすべてのお世話になった物にもお礼が申せるかといえば、申せない人がほとんどであります。
だからこそ日々信心の稽古が必要になるのです。
(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより8月号」より)