─ 9月のお話 ─
心のふれあい
「生かされて生きる生き方」
信心させて頂く中に「生かされて生きる」ということがありますが、普通に考えると人間とは天地の間で生かされている存在でしかないのかも知れないと思うのですが、生かされるというだけでは何か足らないようにも感じるのであります。 まず「人間」とは何か、御教えの中では、 「人が人を助けるのが人間である。 人間は、子供がころんでいるのを見て、すぐに起こしてやり、また水に落ちているのを見て、すぐに引き上げてやることができる。 人間は万物の霊長であるから、自分の思うように働き、人を助けることができるのは、ありがたいことではないか。 牛馬その他の動物は、わが子が水に落ちていても引き上げることはできない。 人間が見ると、助けてやれる。牛馬や犬猫の痛い時に人間が介抱して助けてやることは、だれでもあろう。 人間は病苦災難の時、神や人に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが人間であると心得て信心をせよ。」 と教えられているのであります。 天地の中でただ「生かされる存在」とは「牛馬その他の動物は、わが子が水に落ちていても引き上げることはできない」のように、難儀に遭っている状態を見ても、どうしようもないこととあきらめ、他に任せきり、自ら助けようとする働きを現せない、現さない生き方ではないかと思うのです。 しかし人間とは天地の中で「生かされる存在」であると共に「自分の思うように働き、人を助けることができる存在」であると教えておられる。 つまり「人の難儀を助けるのが人間と心得て」その神心を現す生き方が人間として「生きる」ことではないかと、あらためて私は思うのであります。 助けられないこともあるが「何もしなかった」のと「失敗した」のは違いがあり、神心を現したいという行動が大切だと思うのです。 「生かされる」ことは天地の神様や人間のお働きを分かることであり、「生きる」ことは神心を現す「あいよかけよの働きあい」である。 その中で生まれる喜びは「和賀心」にも通じることではないかと思うのであります。 (金光教土佐高岡教会「本誌教会だより9月号」より)
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