金光教では私達人間を始め一切のものが「生かされて生きる」と申します。
すなわち、神様の働きがなければ、一時たりとも生きることができない存在であることを現わしたことであります。
それでは神様はどのような働きをして下さるのか。
それは、どんな中にあっても、誰であっても絶えず生かそうとする働きを現わして下さいます。
その中にあって神様は私達人間などの一切の生き方については、各々に任せて下されてあります。
言い換えれば、助かる生き方をするのか、苦しむ生き方をするのかは、人間に任せて下されているのです。
そうすると、私達人間が求めるべき大切なことは「どう生きるのか」ということだと思うのであります。
信心させて頂いていても、棚ぼたのようなおかげはありません。
生活を改めて、一生懸命に仕事に励み、身の回りにある喜べる所に目を向け、感謝御礼に生きれば、助かる生き方になってきます。
しかし、信心しているつもりで横着をして、遊びに散財し、人の陰口を言い、悪い所にばかり目を向け、愚痴不足を申していると、苦しむ生き方になってまいります。
お金がなければ、ケチになれと言うのではありません。何が必要なことなのか、何が必要でないのかを、ハッキリさせる必要があります。
体のことであっても、病気やケガは、そこだけのことであり、まだ元気な所もあるものです。
自らの心で病気になることも多くあります。
今の生き方を見直し、どう生きればよいのか、それぞれが考えてみましょう。
(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより9月号」より)