─ 12月のお話 ─
心のふれあい
「今ここから実になる信心」
早あと一月で今年も終わりを迎えるのでありますが、振り返ると土佐高岡教会にも様々なことがありました。 布教六十年を迎えるという節年にあって、事故をしたりケガをしたり、思いもかけぬことが次々に起こってきた年でありました。 『信心が篤くなるほどお試しがある。 お試しがあるのはおかげである。』 との御教えもありますが、今までの信心を試されるような出来事の中、その時その時は、すぐに有り難いと思えたかと言えば、正直には思えない時もありました。 しかし、だからこそと言っていいのか、自分の心の中に葛藤を生じて、迷いにも振り回され、平静ではいられないこともあったのです。 そんな中で、ただ一人になって考えだけを巡らしても、答えは出ないのです。 ひとつに、どう受け止めるのか迷いながら、祈りも忘れ周りも見えず当然でありました。 そう言う思いであっても、私の場合は教会の中で、教師として御用を通じてでも、神様に心を向け祈るということ、取次を頂くということ、また諸先生方のお話も聞かせて頂きながら 「どこを見ておるのか、よう見てみい祈りが満ちておろうが、ここには他にないぞ。」 と分からんながらにも気づかせて下さり、その祈りを感じながら起こってきたことを見つめ直すと、今に始まったことでない常におかげであったと気づかせて頂けるのです。 神様は物事を通じ、お試しも下されるが、また物事や人を通じてお育ても下さる。 させてもらうか、させてもらわないかは、人間に任しておる面もある。 そこを、どう生きるのかと私を見つめる神様の視線を感じる。 また、おかげを頂いてくれと願って下される神様の祈りを感じる。 金光様、親先生を始め、関わりある方々の祈りも感じる。 信心をさせて頂くということは、祈りに生きる力を頂くことと思うのであります。 そのことを感じさせて頂く中に、有り難いという心、感謝の心、喜びを感じたのであります。 それですべてが都合良くいったというわけではありませんが、それでも私のことを祈って下される方はいて下されるのです。 それが心に暖かく、私の心から感謝御礼を申したい気持ちにさせられる。 地味かも知れないが実になる信心とは、言われてするのではなく相手を思い心から何かをしてあげたい愛情のようなものではないかと感じます。 共々におかげを蒙らせて頂きましょう。 (金光教土佐高岡教会「本誌教会だより12月号」より)
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