─ 6月のお話 ─
心のふれあい
「今させて頂けることを」
今日、生かさせて頂いている私共でありますが、何かさせて頂くときにでもつい「後でやっておこう」と思うことが実に多いと思うのであります。 ですが、考えてみるのに、「後」ということには、非常に当てにならないことだと思うのです。 例えば、今生きているからというて、後に生きているとは限らないわけですよね。 また同じように人間関係も当てにならない。 人と人とのつながり、例え家族であっても、毎日会っているから、明日も必ず会えるとは限らない。 争いになることや心変わりもよくあること。 「一期一会」という言葉がありますが、今会っている人とは、一生に一度しか会えないのかも知れない。 だからこそ、今この時を大切にしたいと思う。 人との出会いを大切に思わせて頂くということは、今の時を無駄にしない生き方でもあろうと思います。 教会に参拝させて頂いても、言いたいことだけ言って帰るのでは壁に向かって独り言を言っているのと何ら代わらないと思うのです。 自分が今、どういう状態で、どう思い、どうさせて頂いたらよいのか、御取次を仰ぎ、頂いていくからこそ、そこに神様の御働きが現れて下さるのだと思うのです。 その時でもただ言われた言葉だけを聞くのではなく、その言葉、事柄の中に神様の願いの感じ方、神様に向けていく心のありようを悟ることも大切だと思うのです。 そうする中に、自分の問題を整理し、今させて頂けることは、何であるのかを練りだしていかないと、難儀や問題が勝手に解決することは難しいように思うのです。 例をいくつか挙げてみますと、お金がないときには、働かなければどうにもならない。 仕事がないという人もありますが、実際の求人広告を見ても仕事自体は意外と多くあり、仕事を選び過ぎたり、仕事から逃げておることも多い。 どの仕事であっても、ただ辛い苦しい、しんどいという思いだけではおかげにも助かりにもなりません。 金光教では仕事のとらえ方は「家業の行(修行)である」と教えておられます。 修行である限りには多少の辛抱もし、そこから悟り学ぶという稽古が必要で、その中に気づくこと助かることも、また生まれてくるのです。 次に、信心の継承を願われる方も多くありますが、どのような信心を継承してもらいたいのか、自分自身がハッキリとしないと、伝えようもないことですね。 そのためには、自分が常に家族から、どう見えているのかを客観的に見てみることが大切であります。 まず第一には笑顔が基本でありましょう。 家の者が見ていたとして、あなたが辛い苦しい顔で御祈念している姿を見ていては、この信心ならさせて頂きたいとは誰も思いません。 愚痴不足も家族だからと気を許しておると、そういうところをよく見ているものであります。 信心させて頂くということでも、誰のために信心をさせて頂いているのかを悟らなければなりません。 教会のためとか、神様のための信心では無いのです。 家族のためと申される人もあるかもわかりませんが、家族にしてみても、私のために信心してくれと言われて、始められた人は、それほどいないと思うのであります。 恩着せがましい態度では、家族も喜びはしません。 信心とは「一人一人の生き方の稽古」であるのです。 私のための信心であると思って素直に改まって、 「私の心を改まらせて下さい。助けてください。」 と願われた方が、おかげになりやすいと思うのです。 教会で心を解き放ち、家で笑顔が信心継承のこつです。 (金光教土佐高岡教会「本誌教会だより6月号」より)
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