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─ 9月のお話 ─

心のふれあい

「祈りの基礎があってこそ」

 信心の中で祈りということを思わせて頂くときに、神様、御霊神様、金光様、高知教会親先生、土佐高岡教会の初代、二代の教会長と祈りが今日まで続く中に、また土佐高岡教会に御神縁を頂き、共に信心の稽古をさせて頂いてきた信奉者の方々の祈りの中に、よくぞここまで布教六十年を迎えさせて頂くことができたと真に有り難く存じます。

 人はよく神様のおかげがあるとかないとか申すものであります。

 教会で御用させて頂く中に感じる神様のお働きは脈々と変わらずに生きた神様としてお働き下され、おかげを頂き通しに頂いております。

 しかし、おかげを頂くことが当たり前になったのでは、せっかく神様がお授け下されたおかげも知らずに、神様を信じる心もさび付いて助からない生き方になると感ずるのであります。

 神信心させて頂いておかげを受けたいと願う者が、神様に願っても助からん、教会に参っても助からんと、本気で神様のお働きを信じる心がないのに、おかげを頂けるはずはないのです。

 教会に参りながら

「心配で…心配で…」

と申される人は、言い換えれば、

「私は神様は信用はできません。
ですが助かりたい。
奇跡など私の目に見えるように現して、どうにか助けてください。
信心だの神様の力などは到底信用できませんから、目に見えずに心配です。」

と極端に言えばこう申しておるのと変わらないわけであります。

 教会では御取次願う中に「御神米」や「御神酒」や「御神水」など頂くこともあるのですが、神様のみ恵みとして有り難く助かると信じて頂かねば、薬ではないのですから、ただの米であり酒であり水でしかありません。

 神様の「氏子を助けたい」との願いと、取次者の「神様を伝えさせて下さい」との願い、氏子の「この御道の信心で助かりたい」との願いが一つになって、はじめて、この御道のおかげが現れるのではないでしょうか。

 教祖様は亡くなられるときに「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする、金光大神ひれいのため。」と残されております。

 教祖様を大願の氏子を助けるために神様が身代わりにされたのです。

 そう考えると教祖の命に見合うだけの本気の祈り、自分だけが助かりたいとの願いではなく、周りも含めての助かりを願う大願でなければ、楽におかげは下さらんと思うのです。

 祈りや願いが足らない分、心得違いのような心では、氏子に信心の辛抱を求められるのではないかと感ずるのです。

 信じて祈ることは神様という岩盤に人間心の地表を突き破って揺るがぬ杭を打ち込む基礎であります。

 基礎がないのに、信心しておるつもりで土台を作れば、人間心次第で土台ごと崩れてしまいます。

 土台もろとも崩れてしまった人は、今までの見栄や我情我欲の人間心を死んだと思うて取り除き、また初めからと心を改め基礎の信心を取り組むことが肝要であります。

(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより9月号」より)

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