皆様いかがお過ごしですか。
皆さんは神様に願われると聞いてどう思われたでしょうか。普通であれば人間が神様に困ったこと難儀なことを願っていく。「苦しい時の神頼み」でおかげを受けたら「ありがとうございました」とお礼の一つでもすれば、それで終わりだと思われている方もいるのかも知れません。
また、物断ちの願掛けのように、これを止めるから、このおかげを下さいと願う事だと思われる方もいるのかも知れません。
ですが金光教で、神様に願われると言うことは、「あなたが助かった時には、そのおかげを元にして、他の困っている人に話を伝えて助けてあげなさい」と神様から願われるのです。すなわち、「今はあなたにおかげを授けるけれども、授けたおかげは、あなただけの物ではないんですよ」と言うことです。
金光教土佐高岡教会を開かれた初代教会長先生は、「信心しておかげを受けても、おかげ盗人には、なってはいけませんよ。お金や物品ではない、祈りを持って話をして人を助けてあげなさい」と言うことを伝えておりました。
金光教のお道は「人が助かりさえすればそれで結構である」「人一人助ければ一人の神、十人助ければ十人の神」「人を助けて神になる信心」という教祖の願いの元におかげを授けております。
だからといって、自分を犠牲にする必要はありません。「他人も我が身も、皆、人である」と教祖は教えられ、どんな中にも、自分だけ助かれば良いのではない。我も人も共に助かる道を、求めていこうという信心であります。
神様に願われると言うことは、どういうことなのか。考えさせて頂きましょう。
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