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─ 7月のお話 ─

心のふれあい

「神様を身近に頂く」

 一般的には神様や仏様は、天にいるとか、お社におられるとか、像についているとか申しますが、果たしてそうなのでしょうか。

 神様や仏様がそんなものであるとするならば、お社や仏像などの前にいて祈りを込めている時以外はおかげは受けられないということになりませんか。

 おかげがいるのは日々の生活の現場でいるわけですから、それでは困るわけです。

 そのことについて金光教祖様はこのように教えられております。

 「天地金乃神のご神体は天地である。
 宮社に鎮まり納まっておられるのではない。
 真一心の心に神がおられて、おかげになる。」

 つまり「天地金乃神様は、天地宇宙が神様のお体の中であるから、一心にどこを向いて拝んでも、神様は我が心におられるのであるから、おかげになる。」とみ教えになっておられます。

 神様や仏様は遠いところや、お社仏像に止まっているのではない。

 一心に祈る我が心に神様が宿り、おかげの道に導いて下さるのであります。

 でありますから、神様と人間は一心に祈る時、そこには神様と人間のあいよかけよの働きが生まれ、神様を一層身近に感じとることが出来るのであります。

 おかげを受けたとか、おかげが受けられなかったとか申しますが、おかげは受けたり受けられなかったりするものではなく、祈る者の心次第ではないでしょうか。

 どれほどおかげを受けましても、祈る本人がおかげを現さなければおかげにはなりません。

 他人様が見て信心していてあのような苦労をするくらいなら信心はしたくないと申す人もありますが、それは信心とかいうものを諺のように「困った時の神頼み」くらいにしかとらえていない人の言うことであります。

 信心の本質は、どんなに難儀や苦労があっても、今生かされていることの喜び、どんな中にもあらゆるものにお世話になって生かされることの尊さを知ることが、我が道の信心の有り難さではないでしょうか。

 今日も「ありがとう」「お世話になります」という心になれますように、自分の力や考えで出来るのではありませんから、

 「生神金光大神様、天地金乃神様、おかげで日々ただ今、ありがとう、お世話になりますという心を頂かせて下さい。」

 と祈りましょう。

(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより7月号」より)

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