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─ 6月のお話 ─

心のふれあい

「心を曇らさぬ信心」

 教祖金光大神様の御教えに、

 『参拝の途中、大雨で高梁川に水がいっぱい出ていたが、傘一本と弁当とを持って舟に乗り、二人船頭で渡って、体がずぶぬれとなった。金光様にそのことを申しあげたら、

 「いくらずぶぬれになっても、体のぬれたのは乾くが、体の内が病気になったら自由にならない。明日は空が晴れるから着物は乾く」

 と仰せられた。そうして、また、

 「天はあめ、地はつち。天地の間に人と生まれて、歩くにも、みな地を踏んで行く。大川の流れに水が出ている。その上に天があり、底には地がある。地はいくら掘ってもある。その天と地との間を水が流れている。天にも神、地にも神、水にも神がある。天地の神は父母のようなものであるから、それにすがっていれば手は放さない。恐ろしいこともなく、死にもしない。心細くなったら、水を見ずに、神様に願って上を見ておれ」

 とご裁伝があった。』

 とあります。

 つまり人間も天地の間におると申され、それは神様に包まれた状態と現されたのです。

 また目に見えるものだけを見るのではなく、その中に御働き下される神様を感じなさいと教えて下されたのではないでしょうか。

 しかし目の前の出来事にとらわれてしまって、時に神様を感じられないこともある。

 その中にあっても神様は常にお守り下さり、おかげを授けて下されようとされているのです

 天気を見ればわかるかと思うのでありますが、晴れておれば見えますが曇っていても雨が降っていても、人間から見えぬだけで太陽は変わらずに日々、大地に光を届けようとなさって下されておる。

 そのために雲に切れ間が出来れば、サッと光を差し込まれる。

 人間は起こり来る問題に対して、すぐに心は曇り雨が降り始める。

 人間が我を押し通すのは、周りも見えず雨の中に傘も差さずに歩いているようなものだと思うのです。

 それでは心も体も病気になるのが当たり前です。

 私は教会とは雨宿りをするところだと思うのです。

 難儀に苦しむ心の大雨の中、教会に参ることで到着したときにはホッとする。

 御取次を頂いている間に雨がやむこともある。

 雨がやまなくても御教えなどの傘を借りることが出来る。

 せっかく教会まできたのに、まだ雨も降っているのに、傘を貸そうかと申しても、いえ結構ですと濡れて家に帰る人もある。

 それでは結局、雨に濡れて病気もする。

 それでいて教会に参拝したから病気になったと不足を申し神様を逆恨みまでする。

 教会に参拝したから病気になったのではなく、我をはって濡れて帰ったから病気になったのです。

 本当であれば心に雨が降りそうなと思ったら、その段階で、どうしたらいいであろうかと教会に御取次を願えばいいのです。

 そうすれば家にいた方がいいとか、こういう傘を持っていけばいいとか、大丈夫とか教えて下される。

 皆そうせずに勝手に判断して、全身ずぶ濡れになってから雨が降ったと教会に不足を申しにくる。

 それでは遅い、雨が降ればこそ教会に駆け込んでくれば濡れずに済むのです。

 また家族の思いも同じこと、教会で傘の一つも借りてくれば、まこと道理じゃと理解も示すが、濡れて帰れば、教会とは常識もない所じゃ、家族を雨の中、濡れて帰らすとはどういうことじゃと怒りもして当然だと思うのです。

 それでは信心も誤解されて、伝わらぬのは当然のことなのです。

 傘を借りて濡れずに帰り、濡れなかったことを家族に話して喜び、次に返しに参って御礼を申す。

 教会ではそれこそ親であれば当たり前のこと、神様ならばこうされるのではないかと伝えるのです。

 我をはって常識外れなことをして、おかげがないと申しておるのは誰であるのか。

 心を曇らせた私の信心ではないのかと問い直し、雨雲の切れ間に差し込む日の光に輝く虹を見て「これも神様のおかげであった」と気づいて頂いてもらいたいものであります。

 私達は神様のおかげを常に頂いているのです。

 共々におかげに気づき、おかげにさせて頂きましょう。

(金光教土佐高岡教会「本誌教会だより6月号」より)

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